2021/10/22-23(土)すべては私の居場所のために
昨日のこの話題ってものすごくデリケートな話であって、でもみんな口にしないだけで実は心のどっかで気づいていることでもあって、だからこそなるべく皆で触れないよう、誰も傷つけないよう、細心の注意を払っているのだと思います。
私たちは多かれ少なかれ、他人と私との関係性を構築し維持し続けることによってのみ「あなたは社会の中に存在してもいいよ」と下ろしてもらえる許可を、同じ社会に属する仲間たちに対し常に求め続けているのでしょうね。
労働はお金のためだけじゃないんです、ここにいてもいいという存在許可のためでもある。妊娠出産子育てもそう。だから不妊治療してまで子どもを欲しがるでしょう。これだけ女性の地位が向上して、差別偏見なくしましょうって皆で頑張ってるのに、マイノリティを尊重しましょうって言ってるくせに、自分自身は子どもが作れないというマイノリティに耐えられない。「子どもを作ることは国のためなのだ」とか「自分の子どもを抱ける喜びがどうしてもほしい」とか各自がそれっぽいことを言っているけど、自分自身がマイノリティであることをただ単純に認められない。耐えられない。
本当に欲しいのは「母親」としてのマジョリティ集団に属する権利、つまり社会での恒久的な居場所と誇り。
なんでこんなことになっちゃったんだろう。なんでこんな変なこじれかたしちゃったんだろう。
子どもは宝だよ。みんなで大事にして、見守って育てて。でも今や意味合いの違う宝になってる。大事にすることが敬遠に置き換わり、見守りは事なかれ目的の監視となり、皆で育てなければという名目での外注合戦。
みんな頑張ってるのに。ただ誠実に生きているだけなのに。頑張れば頑張るほどねじれがひどくなっていくこの感じ。
それでも子どもって強いから、どんな環境にも適応してたくましく生き抜いてくれる頼もしい存在たちだけど、実際のところ何を感じ取っているのかなあと思ったりします。