2023/6/22(木)大人の頭で死を考える
ついに意欲まで無為にむしばまれてしまい、一つ一つの考えをまとめたところで何の価値もないというところまで落ち込んでいる今日この頃ではあるのですが。
それでも私が生きているということは、まあ、まだやることがあるってことでしょう。
人はなぜ生まれてきたのか。
思春期ほど考えそうな青臭いテーマではあるのですが、私はあえていいたい。
30になるまではそんなこと一切考えなくていいからと。
とにかく勉強してたくさん体動かしていろんなもの見聞きして、自分の能力の天井まで勉強しきったところでたくさん働いてお金稼いで、技術だの知見だのをいっぱい吸収して、人を好きになって結婚して、子どもできたなら産んで育てて、とにかく30までは勢いでぜんぶやれることやっちまって。
つまりこんなこと、30になったくらいで、むむむ、と、初めて考えるくらいでいいと思うのです。
あれ?人ってなんで生まれてくるんだろうなあ、って。
生まれてきた意味についていろんなこという人がいると思うのですが、結局のところ、人ってみんな
たったいちど、死ぬためだけに生まれてくる。
この事実しかないのですよ。
使命が皆にあるわけじゃない。誰かに感謝されようと思って生きようが、遊び倒して過ごそうが、人をだまし傷つけてド派手に生きようが、それは個々人の自由なの。
でも、いずれ絶対死ぬのですよね。早かろうが遅かろうが、そこだけは全員同じ。
死ぬまでにいったい何をこの社会に残せるか。
何を誰のためにしてあげられるか。
人を傷つけるだけ傷つけて、奪えるだけ奪って、でもどうせ最後は死ぬんだぜ。ぜんぶなくなるんだぜ。
死んでしまえば自分の手には何も残らないけど、生き残る人の手には何かを残すことができる。
盗品を残したいかい? 人をだまして傷つけた結果築き上げた名声を譲りたいかい?
私たちは「いかに一日でも長く生きるか」ばかり考えます。
でもそうやってもどうせ死ぬんです。やがて訪れるその日を先延ばしになしてるだけなんです。
だったら「死ぬまでの間に自分にあと何ができるかなあ」「生きてるうちになにをどれだけ残せるかなあ」を考えたほうが、前向きで、建設的に生きていけそうな気がします。
でもそんなこと、若い子の考えるべきことじゃない。
10代のうちはアホみたいに自分のことだけ考えて遊ぶべきだし、食べてくための技能磨きに費やすべきなんです。死ぬ日のことなんか考えなくていい。
自分の人生、まずは主役のつもりで生きててほしい。そうしていくうちに多くの人が脇役に流れていくけれど脇役もまた大事な役。優れた脇役たちのほうがうぬぼれきったへたくそ主役よりよほど輝いてることすらある。
でもねたとえば子どもが生まれ、ある程度育ったあとなら。
子どもだの後進だのがいなくても、ある程度の年になったら。
それこそ白髪が目立つようになってきたら。
残り、死ぬまでの日のことを成熟した大人の頭で考えてもいいと思います。
そういう哲学というか、腹の座りというか、今の日本、とくにエリート層に欠乏しているのはそういう生き方のように思います。
私たち自身もそうで、自分がいずれ死ぬ身だとわかっていたら、そう簡単には浮足立たないしだまされないのではという事案はいくつもあるような気がします。
いつまでも自分が主役の座で欲深で、後進に主役を譲る気など毛頭なく、その結果が経済的にも失われた30年だし、一番の少子化の原因なんじゃないのと思うくらいです。
新たな人たちが生まれてくる意味ないじゃん。
いかにもっと手に入れるかじゃなく、いかに何を提供できるか。
私よりも一日でも長く生きるであろう人たちのために。
今私の持っている知恵とか知識とか、世の中の見方とか、なんの役にも立たないかもしれないけど、たたき台になる程度にはなんとか残していきたいと思うのです。
私が生きてること自体には何の意味もないです。
私が何かを提供できても、受け取る人がいなければ何の意味もないです。
でも、まあ、何か作り出せれば、どこかに必要だと思ってくれる人が一人くらいはいるかもしれません。
だったら生きてることには意味があるかな。これまで学んだり経験したりしたことも無駄じゃないかな。
いい死に方ができるといいな。死ぬまでに今残せる最高のものを残したいな。そう願いながら、でも全然そのためのいい生き方できてないよなあ、具体的にどうしたらいいのかなあ、とへこむ夏至の次の日なのでした。