【RINGO MUSIC STAFF】りんご娘の生みの親、樋川新一代表のココがすごい!
2000年9月にデビューしたりんご娘、メンバーは変われどたった1人変わらずにりんご娘に携わり続けている方がいらっしゃいます。
それは、㈲リンゴミュージック 代表取締役の樋川新一さんです。
樋川代表に対しては、応援し始めた学生の頃は「もっとこうしたら売れるのに…」「なんでこうしないんだろう?」と斜に構えて見ていた気がします。僕のような厄介ファンって無駄に評論したがるんですよね(笑)
でも、自分自身が大人になり社会人としての経験を積んでいくと、樋川代表の凄さについて痛感する出来事が多くて。もちろん事務所運営の中で成功もあれば失敗や反省点もあったとは思いますが、何よりも続けていることの難しさや大切さというのを樋川代表はリンゴミュージックから今も学ばせてもらっていると実感しています。
今回は、りんご娘生みの親であり、㈲リンゴミュージック代表取締役 樋川新一さんの凄さについて存分に語りたいと思います。
1.地方アイドルという言葉がない時代にゼロからチャレンジ
1990年代後半から2000年代にかけて、安室奈美恵やMAX、DA PUMP、SPEEDといった沖縄アクターズスクール出身者が全国的な成功を収めたことで、他の地域でもアクターズスクールや芸能プロダクションが創設される動きはありました(アクターズスクール広島、スタジオ・ランタイム、キャレスボーカル&ダンススクール京橋校 etc…)。
もちろん、弘前アクターズスクールプロジェクト(HASP)もベースには他アクターズスクールの成功を参考にはしていますが、芸能とは程遠い環境にあった青森県かつ芸能に関してはド素人であった樋川代表がボランティアスタッフを募り、ゼロから始めたプロジェクトだったのです。
2000年当時はまだ地方アイドル(ご当地アイドル)という言葉は存在せず、徳島県のご当地アイドルココナッツ&ココナッツ Jr.が1995年に結成されたり、広島県で2000年に結成されたぱふゅ~む(現:Perfume)が活動開始した程度でした。
芸能や音楽業界について知見のなかった樋川代表は、芸能界のドンや芸能事務所社長に自ら直筆の手紙を送り、様々なアドバイスを頂きながら2000年7月に弘前アクターズスクールプロジェクト(HASP)を発足するのです。
2.実行力とリーダーシップの高さ
樋川代表が仲間たちと居酒屋で「みんなで青森県を魅力ある、面白い、豊かな街にしよう!」と語り合い、若者が熱中できる場所やチャンスを提供するために芸能や音楽に注目し活動を決心したのが2000年6月末、HASPの立ち上げと楽曲制作、りんご娘.結成が2000年7月、りんご娘.初期メンバーデビューが2000年9月と約3ヶ月で芸能分野に新規参入してしまう実行力の高さと周りを引き込むリーダーシップは、自他共に認める変わり者でなければできなかったでしょう。
大人になると夢は語り合っても、お金や時間立場など自分を取り巻く様々な環境を理由に二の足を踏みがちですし、酷いときは「そんなの無理だよ」と否定から入られてしまうこともあります。
実際、樋川代表の奥様でもあるJAM☆RINGOさんも、最初期から関わっているスタッフですが当初は「頭がおかしい人だと思った」と、ラジオやインタビューでも語っていました。
また、初期の音楽プロデューサーであったhiro(田中裕史)さんが2006年初頭に退任し、りんご娘の楽曲制作が滞りかけた際、樋川代表が自ら作詞・作曲を行うセルフプロデュース期が訪れます。
それまで、「LOVE & SOLDIER」「JONKARA」「バスターミナル」と作詞は行っていましたが、作曲に関しては2006年以降から行い始めます。
「お金がなかったから自ら作った」とインタビューでは発言していますが、全くの素人から「トレイン」「ずっとずっとずっと」「真っ赤な笑顔」といった美メロ楽曲や「だびょん」「なんぼめじゃ!アポーパイ」「ドスコイ金星」といったコミカルソングまで幅広く制作できたのは、思いを形に変える実行力の高さではないでしょうか。
3.地方特有の誹謗中傷に負けない根性
青森県に限らず、地方や古い考えが多い環境においては新しい取り組みに対するアレルギー反応(誹謗中傷)が起き、いわゆる出る杭は打たれる状態となります。
僕が応援し始めた2005年~2006年当時、インターネットでは2ちゃんねる全盛期でしたが、そこでも「若い女捕まえて騙してる」とか「ライブ前に手を握ってパワーを送っている」「コンパニオンのように扱ってる」「ワンマン社長」など酷い書かれようでした。
それでも、割と早い段階から弘前市のコミュニティFM「FMアップルウェーブ」にて番組を放送したり、青森県内の各放送局にて取材が行われたりと、活動期間が長くなるにつれて少しずつ信頼され始め、周りの目が変わっていったことは僕もファンの1人として実感していました。
りんご娘が弘前市と大きくタイアップするきっかけとなったのは、2011年からスタートしたパワーアップる!!弘前産りんごPRキャラバンのキャンペーンガールになってから。
その当時、りんご娘を牽引していたジョナ&レットの功績も大きいですが、何よりも代表取締役として世間からの誹謗中傷を浴びながらもリンゴミュージックを続けた樋川代表の根性の強さによるものでしょう。
4.存続の危機を迎えても大人の都合で解散しなかった
2000年から続くりんご娘の歴史ですが、解散の危機は何度も直面しました。特に、結成当初からジョナゴールド(初代)が加入するまでの2000年~2003年春はメンバーが流動的で、2003年4月~5月は夏緑というメンバーたった1人だった時期がありました。
夏緑ソロ体制によるりんご娘.としての活動はなかったものの、第3期メンバーのジョナが加入するまでの約3ヶ月間、りんご娘.の看板を守ってくれたのです。ここで約10年間活動し、りんご娘の礎を作ったジョナにバトンが渡されていなかったら、りんご娘は間違いなく解散していたでしょう。
また、リンゴミュージックはレッスン無償の代わりにボランティアスタッフによる運営を行うなど、資金繰りには初期の頃から非常に苦戦しており、2007年にはCDをリリースしたくても資金不足で制作できない、楽曲も用意ができないということを事務所サイドから公式にアナウンスする時期もありました。
数々の地方アイドルや地下アイドル、時にはメジャーアイドルでさえも大人の都合で解散や活動停止を余儀なくされているのは、アイドルファンの中では周知の事実だと思います。
ひとりでもりんご娘を続けたいと思っている子がいるのであれば、その子の夢を大人の都合で奪わない、お金が無いことを理由に巻き込まない。その想いを実行することは並大抵のことでは無いはずです。
実際、樋川代表の家業である自動車販売業での利益をリンゴミュージックの資金にあて、赤字で活動していた時期が2017年のRingo starリリースまで続きます。(トレインリリースによるメジャー化で、2010年~2012年は黒字だった可能性が高いですが。)
青森放送(RAB)が制作・放送した(b^-゜)(グッジョブ)という番組内で、その想いが語られています。
▶6:20頃から、大人の都合で辞めないことについて語られています。
あとがき
りんご娘やリンゴミュージックアーティストが活動できるのは、メンバーの努力はもちろんですが、何よりも樋川代表が弘前アクターズスクールプロジェクトを発足し、リンゴミュージックを立ち上げ、今日まで事業継続してくださっていることが大前提としてあるわけです。
それがどれだけ大変で偉大であるか、記事を執筆する中で改めて実感できました。樋川代表、これからもよろしくお願い致します!
▶りんご娘の名曲「トレイン」の制作秘話やりんご娘に憧れた子どもたちがオーディションを受けてくれることに期待する発言を残しています。
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