漫画研究整理1

漫画の研究について整理してみる

「漫画文化の研究」から「漫画という芸術の研究」へ


現代の漫画研究の大半は「漫画という文化」の研究で、描くこと(制作行為?)を対象とした研究が行われていない。

漫画家志望者として漫画を描いてきた自分は、それが許されている漫画研究の状況はおかしいと思ったので、自分なりに研究をしてみることにした。

現在の漫画文化の研究は大抵人気漫画の与えた影響について扱っているものがほとんどである。
しかし、「漫画」と「面白い・売れている・人気の漫画」は別の概念じゃないのか?

それに、「面白い・売れている・人気」つまり「メジャー」の対義語として「マイナー」が出てくるのも同じ理由でおかしい。

どんなものであれ、形容詞は余計なのでいらない。

描けない奴は語るな!と言いたいわけではなく、
制作できる人間が不在なまま門外漢の我田引水だけで構成された美術の研究って、
「漫画という芸術の研究」じゃなくて
漫画文化の研究」に過ぎないのでは?と言いたい

「映像玩具の延長としての漫画」を定義したい。

具体的には視覚(眼球と脳)のどのような働きが漫画を「映像」として読み取らせるのか?

今までも映像玩具がアニメーションの原型として紹介されてきたが、
いわゆる映像玩具は視覚の機能のうち「残像」しか使っていない。

ここに注目してみた。

具体的にはどうする?→ネーム研究

ネームの研究が美術としての漫画の研究

ネームは「描く」行為ではなく「読む」行為を中心に考えなくてはいけない。
ネームは話を作るため、漫画の設計図…とよく言われるが、
これは「漫画を描く人」が同じ漫画を描くことに関心を持っている人に説明する視点であり、
「漫画を描く人」が「読者」にネームがどのような工程か説明する視点ではない。

ネームは、「描くこと」と「読むこと」を繋ぐもので、
その繋ぎに関係ない要素を削ぎ落とした漫画。

ここで「ネームは映像でいうところの脚本やコンテなんですね」とまとめ、
そこからその漫画のストーリーを脚本や文芸のように捉えて語る、というのが今までの「研究」の問題点だった。
これでは「従来の映像や文芸の批評を扱う書籍の構成で、対象を漫画に置き換えただけ」にすぎず、
「漫画の研究」と言えるか怪しいと俺は思う。

当然の前提として流している要素が、
どのように成立しているのかを分析し、
その分析を元に改良したり体系化して初めて、
「美術の研究」と言えるのでは?

漫画の場合、
この「当然の前提として流している要素」が何かと言うと、
「漫画を読むときの眼球運動は、漫画のどんな要素によって引き起こされているのか」という点ではないか?と俺は考えた。
そしてこの要素を考えるなら、
絵や台詞が簡略化されたネームの分析が向いているはずだ。

眼球運動が大事な理由1・人間の目は(おそらく)変化しないから


「イメージの補完が漫画の読者の中で産まれることで漫画は完成する」と定義する場合、
記号による補完は時間とともに変化し、陳腐化していくので、
文化や世代を超えにくい。
だが、眼球の動きはこれまでずっと共通だったし、
(おそらく)これからも変わらないだろう。

眼球運動が大事な理由2・表現上の利点

  • 絵に興味がない人でも、その絵に描かれている人物の視線の先や、指でさしている先などは、反射的に見てしまうため、よりユニバーサルなデザインだから

  • 絵を描いている人は忘れがちだが、絵に興味がない人の方が圧倒的に多い

  • 読者全員が絵に興味あると言えるのは、ごく一握りの漫画家か、読者と作者の価値観の近さが重要なマイナー作品の漫画だと思う

  • ちなみにこの近さを分類すると記号文脈体験

  • 画力が高い絵なのに読みづらい作品は、視線誘導の動きを阻んでしまうから

  •  具体的には、目をそのコマだけに留める目をページ全体に散らすなど

  • また、想像の余地がないと、受け手に補正・補完の機能が働かないから

  • 目の動きは大きくなると、残像によって自分の脳内で視覚を補正・補完する。そのため、似た構図・同レベルの絵なら、目の動きが大きいものの方が、鑑賞者の脳内補正の影響によって情報量が増え、「体感時間が長くなり」「記憶に残りやすく」「美しく」見える

  • 眼球運動は主観的な体験で時間の調節力が豊かで、リズムを作ることができるので、文章や台詞に依存しないため、ユニバーサルデザインである


とりあえずここまで。


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