
感情を表に出す
感情を抑え続けてると、表に出す事が怖くなる
中学時代までの私は感情を抑えるのが当たり前だったと思う
というか、抑えすぎてある意味自分らしく保っていたところはあるのかもしれないけれど
一人でいる事が多かった
中学時代、一人が多すぎたのか、先生からいじめを受けてるんじゃないかと思われた事があった
けれど、私の身の回りにそういったものはなかったと思うし、一人でフラフラしている私をどのグループもそれなりに受け入れてくれていた
私はグループ活動というのがとっても苦手で、どうしても【合わせる】という事ができなくなっていく
だから一人が楽になっていったんだけど、だからといって自分の意見を爆発的に声に出していたかというと、そうでもない
一人が楽というだけで、周りは見ていたし、自分の感情っていうものがどこにあるのかが見つかってはいなかった
明確になってきたのは高校受験前で、友人たちがいく高校に興味がなかった時
恩師が、私の選んだ高校を大反対した
まさか教師に反対されるとは思っていなかんったんだが、私が選んだ高校は工業高校
女子が圧倒的に少ない環境となる
が、授業内容を見て、私は工業数理に興味があったし、電気や情報に興味はあったから、いってみる価値あるでしょ
と、自信満々に進路希望を提出したら返却されたのだ
嘘だろ・・・と。
『もっと良く考えなさい』
とのお言葉
・・・考えたし、他に興味がないから、もう一度そのまま提出
ここからが勝負の始まり
1週間に一回ほど、先生と二者面談があった・・・のかな
私は特別に3日に一回呼び出しをくらってました
いろんな高校の資料を渡され
ここの推薦はどうかと、県外の女子校を紹介され
数少ない友人の高校を言われ
気持ちは変わったかと話し合う
が、どこも魅力がなかった
先生的には私は中学校の同級生(女子)のいる高校に行きたくないのであろうという判断だったんだけれど、私はそこに一切興味がなく・・・
毎回毎回、同じことを話し合っている間に試験の日も近づき、何人が何かに希望しているかっていうのが先生の中に回ってくるらしい
で、もちろんそのタイミングでも私は呼び出し
なんと、建築にか女の子はいなそうだ。これでもいくというなら、第一希望は建築にしろ
と、条件付きで了承を得たのだ【先生から】
恩師しか出てきてないが、親はというと『まぁ・・・好きなところでいいわよ』
とはいえ、一番理解してくれたのは祖母だけかな
あとはなんとなく渋っているところがあったようには見受けられた
頭が悪いからそこしかいけないと思われていたのもある
先生からの資料については親に見せていないし、ソフトテニスで推薦してもらえるとあえて言ったのが県外。
県外は母が大反対だったし、それを知ってて言うたのだ
条件付きとはいえOKがでるまで3ヶ月
この間に、自分の意思を伝えると言うことを経験した
恩師の反対を押し切る日が来るなんて思ってもいなかった
初めて呼び出しを喰らったときは 緊張していたし、考えなさいと言われて、考えなきゃと思ったものだ
が、3回目くらいからかな・・・扉を開けると同時に『考えは変わりません。工業高校がいいです』と言いながら椅子に座ると言う状況になった
1ヶ月ほど続いたら、他のクラスの先生にまで普通科を進められるようになり、2度目の不安を感じる・・・ものの、折れず
2ヶ月目で見方の先生が現れ、感情解放が始まった・・・そんな経緯があったから、感情を表に出せるようになった
これがなかったら、どこまでも我慢というか・・・諦めていたんじゃないかなとおもう
我慢っていうのは苦手だったから、どちらかというと諦め。
文章では感情をそのまま文字に乗せる事ができるけれど、口から出すのはなかなか勇気がいる・・・ような気がする
今の私はほぼほぼ出しちゃうようになっているけれど