人工林の科学/調査紀行編3(百間山・熊野崩壊地〜安川渓谷〜伏菟野崩壊地2013.5.26~27)
様々な修復工事が継続中
午後は日置川の源流部、熊野(いや)地区大崩壊地を見に行く。2913年5月15日付『紀伊民報』の記事によれば、熊野の深層崩壊は高さ約650m、幅約450m、深さ約50m(!)にわたり、崩れた土砂や岩は約410万㎥。熊野地区19世帯のうち8棟が倒壊し、3人が亡くなられた。
その場所をGoogle Earthで見ると、尾根の南面ピークから始まった崩壊が対岸に追突し、当時2つの土砂ダムができた様子が解る。航空写真で見てもその崩壊地は広大だが、一帯はすべて人工林地に見える。国土地理院2万5千分の1地図から凡例記号では769mのピークの南面はすべて針葉樹マーク(人工林)。対岸の斜面もほとんどが人工林である。それを現地で確かめてみたい。
途中、道々に線香林が続く。石垣に守られた畑・棚田だったところに密集したスギ・ヒノキが見える。テープを巻いてあるのでこれから間伐を入れるのかもしれない。
小規模な崩壊地はいたるところにある。あの紀伊半島豪雨で崩れてからひと夏を経過しているのだが、緑の回復は遅い。
すでに工事が終わって人工緑化が施された工事跡もある。小規模崩壊地では様々な工事のバリエーションがあるようだ。最奥をコンクリートで固めて、その下側に小さな堰堤を据えるタイプ。工事を終えた場所がまた崩れて蛇籠(じゃかご)を据え直している所。やや大きな崩壊跡では例によってワッフル状のコンクリートが塗りたくられ、これからこの光景とつき合って行かねばならないのは悲しい。
奥に延々と広がる過密な人工林
現地に近づくと、冷房付きの工事事務所ができていた。本来なら許可を貰いヘルメットで入らねばならないところだが、今日は日曜で関係者不在なので、自己責任で入らせてもらうことにする。
荒涼な、造成地のような光景が広がっていた。巨石が運ばれていて、度肝を抜かれる。礫を含んだ堆積岩のようだ。それに穴も空いていて、いかにも力学的に弱そうな独特の石だった。
壊された民家。
つぶれた軽トラ。
スギが多いようだった。ヒノキも混植されている。やはり人工林だった……。それが延々と続く。
重機で寄せられた丸太が山積みになっていた。日置川源流部というのにシュールな光景だ。堰堤ができている。水流は実に細々としているが、豪雨になると一気に膨れ上がるのだろう。
崩れ始めを望遠鏡で確認してみる。やはり崩れ始めも人工林だった。上部はヒノキ林だ。
もう一度、下流側を撮影しながら下る。土石流によってなぎ倒された木々が、まだ片付けられずに残っている。幹下は皮が剥け、土石流による擦痕が見える。
復旧工事はまだまだ続きそうで、今後大量のコンクリート堰堤や堤防が築かれるのだろう。
それにしても……航空写真では崩壊地の西側に明瞭なリニアメント(*31)が確認できる。崩壊地の復旧工事はいいとして、今後崩れる可能性のある斜面の対策は考えられているのだろうか?
下流域は案外被害が少ない(感じられない)のが不思議だが、土砂ダムで水がせき止められ、それを工事で無事に抜くことができたからだろう。皆伐が進んでいた。人工林の込み具合、線香林状態がよく解る。もはや釣り竿で測る必要もない。どこもかしこも、あの滝尻崩壊地と同じ光景だからである。
安川渓谷——コウヤマキの林とシャクナゲ咲く名渓
さて、あまりにも痛々しい崩壊地の内容が続いたので、紀伊半島の名誉のためにも優良な自然を紹介しておこう。日置川源流の安川渓谷である。
実は、この日は安川渓谷を先に散策し、百間山・熊野崩壊地の取材が後だったのだが、本項では読者の理解を深めるために逆順で紹介したいと思う。
遊歩道の入り口、車止めの橋の上から山肌を眺める。照葉樹林が残されている。所々に天然の針葉樹も配置され、ひと目見てその豊かな樹種の豊富さが解る。
渓谷に下りるとちょうど良い岩棚があって、そこで昼食をとる。水が青い! 岩と周囲の緑との関係なのか、息を呑むような美しさだ。深い淵が残されている。
遊歩道に入ると コウヤマキの天然林が続き、その下にシャクナゲが咲いている。関東出身の私からすれば実に不思議な組み合わせだが、ふるさとの北茨城の花園神社を思い出し、懐かしくもあった(境内に茨城には自生しない天然記念物のコウヤマキがあり、シャクナゲの群生地がある)。
死株からシャクナゲの実生が出ている。
尾根にヤマモモの大樹がある。根粒菌と共生し窒素固定をすることから、荒廃した山や魚付き林に植樹したそうだ。この木も意図して残された木なのかもしれない。
こちらも今年は雨が少ないそうで尾根は乾燥しているが、土はフカフカで、苔もよく発達している。
途中、ヒノキの人工林がちょっとあるが、渓谷沿いではまた照葉樹が復活する。 遊歩道の中程にある「雨乞いの滝」は、やはり淵が深い青緑色で印象的だ。
糞虫(ふんちゅう)のオオセンチコガネが歩いていた。関東では赤紫だが、紀伊半島ではルリ色になるそうだ。まるで渓谷の淵の色を真似ているかのようだ。
ヒメカンアオイ。ギンリョウソウの群生を見つけた。
遊歩道とはいえ、けっこう険しい場所もあり、桟道が付けられた所もある。またヤマビルが多いという湿地もあり、そそくさと通過するのであった。
トガサワラがある。日本固有種で、紀伊半島南部と四国のごく限られた場所に自生する珍しい針葉樹である。その球果は原始的な香りがする形状だ。
水源の森は照葉樹とブナ林
安川渓谷は「紀伊半島の渓谷から山の尾根への特徴をコンパクトに表現している」といわれ、日置川源流でも名溪として名高い。ところが、地図で見ると熊野崩壊地から案外近く、直線距離で6〜7㎞しか離れていない。距離感でふた尾根先、といった感じなのだ。
2011年紀伊半島豪雨のときも、同等の雨量があったにちがいないのだが、なぜ安川渓谷は全く荒れた感じが見られないのだろうか? それは流域の山林にヒントがある。法師山と大塔山は照葉樹とブナが残っているのである。源流に紀伊半島有数の天然林が残されているのだ。
一方、熊野(いや)崩壊地は板立峠に閉塞された水源域のほとんどが人工林なのである。両者は同じ「大塔日置川県立自然公園」地内にあるのだが……。
伏菟野(ふどの)崩壊地——壊穏やかな地形なのに……(5/27)
紀伊半島豪雨で大崩壊した地区の一つ、伏菟野(ふどの)では六棟が全壊し、五人の方が亡くなられが、ここには「いちいがしの会」現会長の奥様のご実家があった。今日は同じく会のメンバーで炭焼き師のTさんが同行し、奥様の案内で伏菟野の崩壊地を見に行くことになった。
すでに崩れた場所はきれいに削られて整地され、コンクリート水路が穿たれて、あとはコンクリート擁壁を待つばかり、というような状態になっており、キワまでは近づけないが、崩れた山はそれほど急斜面には見えない。流れる沢も水量あふれる急流という感じではない。紀伊半島ならむしろもっと山深く急峻なのが普通であり、ここは本州のどこにでもありそうな、穏やかな里山の風情なのである。
「伏菟野の崩壊を聞いたときは驚いた。ここが崩れるならどこが崩れてもおかしくないと思った……」
炭焼き師のTさんが言った。奥様は「この沢で雨が降るとコサメ(アマゴ)をすくいに行った」というような思い出を話した。まだ牛飼いとして残るご親戚の人を訪ねたが、不在だった。整地された土に水の湿り気がまだ残り、そこにイシガケチョウが吸水にきていた。
崩壊した斜面はすべて人工林という場所ではなく、雑木林も混在していたようだ。崩壊直後の写真をみると確かに雑木が大量に見える。しかし、崩壊麺を遠目から確認すると、崩壊の始まり(端場)は人工林のところが多い。そして、そこはやはり手入れ不足の線香林が見える(下写真)。
炭焼きの山はいま
紀州では幕藩時代から炭焼きが一大産業になっており、山にはかなりの人が炭焼きに入っていた。もちろん木材生産のためのスギ・ヒノキ人工林もされていたが、それは山のうち条件のいい三分の一程度だったという(*32)。人工林地に向くは場所は、緩やかな傾斜で崩れにくい、運搬に便利、というような土地が経験的に選択されたと思われるが、後藤伸さんの本によると「北向き斜面の穏やかなところ」「谷間の下半分」という条件が、熊野で守られていたそうだ(『明日なき森』224ページ)。
それ以外の斜面は、炭焼きの好適地であった。そして材が運びにくい奥山は良材を抜き伐りする程度で、原生的な森として残された。
炭やきの雑木は、伐っても萌芽更新で再生する。あらためて植林する必要がない。生きた広葉樹の根がそのまま残るので、伐採により一時的に保水力が落ちたとしても、大雨で山自体が崩れることは少ない。
里山における炭焼きというのは、実は崩れやすい山を守りながら効率よく燃料を収穫していく知恵であった。もしそれを放棄するとどうなるか? 広葉樹の自然林の場合は基本的に間伐は必要なく、下草が消滅するような線香林にはならない。それは樹種や樹齢がまちまちで、自然の間引き(枯死)が勝手に起きるからだ。だが、私は拙著でも紹介した新潟の豪雪地帯の古老の話を思い出す。
「この頃、山の木(雑木)を伐らなくなって心配だ。大きく育ちすぎると雪で根倒れすることがあり、それが山崩れの原因になる」(『「植えない」森づくり』55ページ)
豪雪地帯では、長年萌芽更新で管理された山を放置した場合、木が大きく重く育ち過ぎると、豪雪で根倒れすることがある。その山の地盤によってはその根倒れから土砂崩れを起こす場合もあるのだ(*33)。
定期的に伐採と萌芽を繰り返すということは、「樹高を低く押さえながら」山を管理していくことだ。広葉樹とはいえ一斉に萌芽した木々を放置すれば形状比は高くなり、過密になり光を奪い合って木は衰弱していく。もし地盤が柔らかな山ならば、根倒れする可能性もあり、大雨で地すべりを誘発することもあるだろう。とくに崩れやすい地質を内包した紀伊半島で、盛んに炭焼きの行なわれた斜面を放置した場合は?……
石油やガスや電気の普及によって炭の需要も生活から消えていき、炭焼きの山は放置されている。天然林として安定している奥山は別として、一度人の手が入った山林は、たとえ広葉樹といえども(条件によっては)手入れが必要な場所もあるのではないだろうか? このような知恵はいつの頃からか忘れられ、そしてそれらを継承していた世代の人々が消えかかって(消えて)いる。
亀裂のある山
「奇絶峡」を眺めてから白浜へ行き、Tさんが仕事でウバメガシを伐ったという現場を案内してもらった。
Tさんはアイ・ターンで山に入った専業炭焼き師で、備長炭を専門に焼いている。その原料がウバメガシだが、もう原木は少なくなったのではないか? と思いきや、意外にも南紀のリゾート地、白浜周辺にけっこう残っている。案内されたそこは別荘予定地で、バブルがはじけて宙ぶらりんに残った土地だった。そのような場所は、道沿いなので木が出しやすく仕事にはかえって好都合だという。
太い伐り株は大人の太股程もあり、長く放置されてきたことがうかがえる(太い木はそのまま炭にできず四ツ割りにする必要があるので手間がかかる)。ウバメガシ以外の雑木は、ヤマモモだけを伐らずに残し、土地が痩せすぎないように配慮してある。
伐り出した原木はTさんの自宅の敷地に築かれた自作の窯で焼かれる。燃料革命で炭の需要は激減したとはいえ、紀州の備長炭は高級炭として今も料理屋等で取引される。ニッチの需要に切り込みながら、Tさんのような若い世代が新しい感性で山に順応するのを頼もしく思った。
さて、Tさんの自宅は中辺路の沢の奥の開けた場所にあり、実にいい雰囲気のところなのだが、この度の大雨(2011年・紀伊半島豪雨)で対岸の山の上に亀裂が見られ、地すべりの兆しがあって、家の基礎にまでその地面のひずみが到達しているというのだ。
私は2013年1月の講演のときその山の上の亀裂を見せてもらったのだが(下写真)、周囲は若い雑木がポツポツとあり、その下には過密なヒノキ林が広がる。あらためてTさんの家の方から山を見上げると、急斜面の凹みにやや大きめの重そうなスギが見え、過密ヒノキ林との間にきゅうくつそうに広葉樹が残っている。
いま、亀裂の地面には「地すべりセンサー(地面伸縮計)」が取り付けらている。センサーが動けば行政側は避難指示を出すのだろうが、それまでは「数年様子を見て、対策を検討する」と担当者に言われたそうだ(*34)。
「とにかくすぐにでも上のヒノキは強度間伐・巻き枯らしして、尾根の広葉樹を復活させる。そして中腹・谷筋のスギは早めに伐採して広葉樹を育てたほうがいいよ」と私。
「そうですよね。許可してくれるのなら、自分でいくらでも伐ってやるんだが……」
Tさんは言った。
上のヒノキ林が滑れば、根が貧弱でノッポな植林スギはそれを支えきれず、一気に沢を埋めてしまうだろう。伐採するにしても生き枝の少ない幹が真っすぐのスギは、玉伐りして地面に置くと滑り出したときに谷まで滑り落ち、家を破損したり川をせき止めたりすることが多い。だから伐り捨てするなら玉伐りせず枝葉を付けたまま横倒しにするか、道まで出してしまったほうがよい(ここなら下げ集材できる)。
ところで、動いた山の尾根の部分に亀裂が発見されたのは、たまたまそこに集落の貯水槽があって、歩道があったからなのだ。実はこのような亀裂が、紀伊半島の植林山のいたるところに隠れているのではなかろうか?
(人工林の科学/調査紀行編4に続く)