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人工林の科学/調査紀行編4(紀伊半島で見た、間伐されたいい山2013.7.24~25、コラム「宇江さんの講演を聴く」)

講演の帰りに

2011年の半ばに四国・香川県の高松市に移住して、紀伊半島はいくらか身近な場所になった。とはいえそうそう気軽に行ける距離ではない。2013年の7月下旬、関東の埼玉県で講演の依頼があり、その帰りに調査の続きをするスケジュールを組んだ。

講演先は文科系の私立大学なのだが、キャンパスに隣接して山林を所有しており、授業科目として森林文化(座学と実習)が設けられ、森林作業(里山再生のための助伐や道づくり等)の実習もある。文系の大学生たちが山仕事を体験実習する——そんな時代なのだ。私は「日本の森林と薪火のある暮らし」と題して90分の講義をし、彼らの山作業を見学させてもらった。

講演の後、実家や東京での所用を済ませて西へ。帰路、三重の松坂から櫛田川沿いに奈良の吉野に入り、そこから五條市、十津川村を通って2011紀伊半島豪雨の奈良県側を観察し、熊野本宮へ入る。

奈良県側の崩壊地は大規模で痛ましく、工事もかなり大掛かりに進められていた。

有名林業地の手前で見たスギ林

吉野に入る手前、三重県側の林道にいい山を見つけた。通りがかりに中央構造線露頭地の看板を見つけて、そこに行く途中に偶然出会ったのだ(下写真)。

よく間伐されたスギの生きた枝が樹高の半分程あり、下層中相に広葉樹が伐られずに育っている。その伐り方に山主の強い意思を感じた。

奈良県吉野地方は有名な一大林業地だが、幹線車道沿いは間伐の遅れた線香林ばかりでいい山は少ない。現地に行って自分の目で見れば解るが、有名林業地がみな手入れの行き届いた山だと思ったら大間違いで、私が見るところ実態はその逆のことが多い。これは、かつての栄光がじゃまをして「伐り捨て間伐」を嫌うからかもしれない。

マス・ジャーナリズムが紹介するのはその中のわずかな優良例なのであって――有名人や話題になりそうな人を取材する傾向にある――関係者に案内された場所を絵に収め、そこを切り取って記事を書いたり映像に編集しているのだ。

もちろん取材相手が気分を悪くするような、当地のイメージダウンになるような、否定的な記事や映像は流せない。というわけで、森林・林業のことをほとんど知らない人が(ちょっと知識を持った人でさえ)そのような記事やテレビ番組に触れると、誤解を招き、ますます森林・林業の真実が解らなくなる。

私は林地取材はできるだけ人を介さず単独で行くことにしている。聞き取りは地方で名を馳せているような有名山主は避け、地元の普通の人や自分で作業している人に聴く。山林の実態を知るためには、多大な所有面積と資本を持つ林家を取材しても意味がない。いまこの時代の窮地を打開するための一般解は出てこないのである。

このいい山で、スギ伐採時の幹の切り落とし(輪切り)が転がっていたので、メジャーで測ってみると直径は34㎝で、年輪を数えると60年生くらいだった(下写真)。外側の年輪は1㎝の中に3~4本、粗すぎず、密すぎず、良好な育ちが観察できる(「調査紀行編2」の滝尻崩壊地にあるスギの年輪と比べてみてほしい)。

本宮近くの明るいヒノキ林

次は、熊野本宮の近くの七越山(桜の名所)の西尾根で見つけた明るいヒノキ林だ(下写真)。こちらも中層に雑木がよく育っている。かなり前に強度間伐されたらしく、伐り捨てられた木が地面で腐食しているのが観察できる。

林内に入って胸高直径いくつか計ってみると、最大48㎝から最小17㎝とばらつきがあるが、平均で25~26㎝のものが多い。釣り竿で密度を測ってみると4m円内に平均で5本程度だ。

これを平均胸高直径25~26㎝で1ヘクタール当たりの「胸高断面積合」計を出してみると約50㎡くらいで、数値からも良好な人工林の密度であることが解るが、鋸谷式間伐の密度管理からすれば、そろそろ次の間伐が必要な時期である。

板根で強靭な根張りをみせる天然のコジイ

林内に大峰奥駈道(吉野と熊野を結ぶ大峯山を縦走する修験道の修行の道)が走っている。コジイの木が板根(*35)を立てて強固な根の張りを見せている。このような木々と共存するヒノキ林なら、まず大雨でも崩れないだろう。

* 35:板根(ばんこん)……幹から根に移行する部分が板状になっている形態。岩盤などで表土が浅い場合にみられ、熱帯雨林の樹種に顕著

やや下方にも別の林分でいいヒノキ林を見つけた。ここは乾燥した尾根筋だが、大きく間伐することでヒノキはよく育っている。

ヒノキは痩せ地に強い。尾根とはいえ紀伊半島では雨が多いのだから、強度間伐しても枯れる危険は少ないだろう。荒廃林だからといって全伐することなく、素性のいいヒノキは数本でも残しておくと(ただし周囲に巻き枯らしの支持木を添えて風害を防ぐ必要がある)、次の世代には程よく年輪の締まった天然ヒノキに近い材を残せるかもしれない。

***

○コラム/宇江さんの講演を聴く(2014.1.26、和歌山)

講演中の宇江敏勝さん(田辺市中辺路在住/作家)

私が講演を行なった翌年、2014年の「いちいがしの会」総会の記念講演は、熊野在住の作家、宇江敏勝氏であった。

宇江さんはいまも野中の自宅で畑をしながら、精力的に小説を書かれているそうだ。

講演内容は既に本で読んでいるものが多くかったが、やはりナマでしか聞けない、心に残る事柄がいくつかあった。質疑応答での内容も含め、ここに書き留めておきたい。

(1)宇江さんの住む中辺路ではむかし植林山は1.5~2割程度だった。それが現在では約8割が人工林化している。「みんな金のために植えた」そんな時代だった。

(2)むかしの植林山は里からは見えない場所にあった。里から見える山の7合目までは森林ではなく草地・刈り場(採草地)で、その上が雑木林だった。刈り場にしたのは田畑の肥料と牛馬の飼料のため草が必要だったから。草原維持のため、野焼きをしていたそうだ。

(3)だからワラビなど山菜が良く出た。また川にはウナギが、まるで養殖池のごとくうじゃうじゃいて、田んぼにも上がってきた。

(4)流れの炭やき職人は、ウバメガシを択伐することは少なく、皆伐していた。山持ちが自分で伐るときはもっと丁寧に択伐したであろうとのこと。

(5)植林しなくても自然に木は生えてくる。最初はカヤなどが生えてひどいことになるが、10年もすれば見られる山になる。尾根筋でも同じ。では、企業の植林活動は意味がないのでは? との質問に「地元にお金を落としてくれるので黙認している」とのこと(場内に笑いがもれた)。

(6)熊野古道の9割は人工林。

   *

私がとくに印象的だったのは(2)の刈り場の広大さである。これは何も熊野に限ったことではなく、化学肥料のないむかしは草木を肥料源にしていたのだし、化石燃料を使う農工機がないので牛を耕作に使い飼料としての草刈り場が必要だった。地方によっては茅葺き屋根の原料である萱場も維持された。里山は雑木林というよりもむしろ草原が目立っていたのだ。

長年にわたり熊野の現場で働いてきた宇江さんは「植えなくても木は自然に生え、森ができる」と、きっぱり言った。それは土壌の痩せている尾根筋でも同じである、と。これは拙著『「植えない」森づくり』を証明してくれる言葉だが、荒廃人工林の長期の放置と、シカの食害はどのように感じておられるのだろうか?

表土が流れたままの暗いヒノキ林などが長年放置された場合、それが広範囲に皆伐されたとき、再生能力はどうなのか? 

そして、自然の緑の再生力を凌駕するほどの食害が起きている場所がある。さらにその2つが加わった場合は?

いま宇江さんの知らない新しい時代に突入している……。

中辺路(なかへち)の山、遠景

(調査紀行編5/最終回に続く)

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