「人と違うこと」が怖かった私。
「えっ!あんた会社やってるの?起業なんてするタイプだったっけ」
夫と会社を立ち上げて数年。
久しぶりに会う学生時代の友人は一様に驚いた顔をして、こう言います。
そう言われるのも無理はありません。
私は子どもの頃からそれこそ数年前まで、人と違うことを人一倍恐れる性格だったからです。
社会で一般的といわれるレールに沿った「みんなと同じ生き方」を正義としていた私にとって、起業なんて異世界中の異世界。
学生時代の私にとって、「起業」のイメージはホリエモンですし。
ITで大儲けした天才らしいけれど、大人なのにスーツも着ていないし、やたらと強気な言動。
大学で政治学を専攻し「なぜ世界はこんなに不平等なんだ」と嘆いていた私にとって、起業家のイメージは最悪でした。
「奴らは資本主義の権化で金の亡者、ついでに詐欺師」くらいに思っていました。
そんな私が、今は逆に資本主義の権化側(?)になってしまった。
一体なぜか。
今日は、思い描いていた人生のレールに全然乗れなかった自分について書きました。
子どもの頃から苦手な言葉は「個性」で、ホッとする言葉は「協調性」。
特に思春期は、下手に「個性」という杭を出すと、クラスメイトから一気に打たれます。
だから、周りから杭を打たれないよう、私は常にモグラのように頭をシュッとしゃがませて生きてきました。
前髪のハネが気になって授業に集中できず、休み時間のたびに机に手鏡を立て、百均で買った折りたたみコームで髪をとかしていたときもそう。
やりすぎると「なーに気合入ってんの?」とスクールカースト最上位のギャルたちに目を付けられてしまいます。
よって、当時の女子中学生憧れのアイテムであったLOVE BOATのド派手な手鏡(ピンクのヒョウ柄)は絶対に買えませんでした。
通っていた中学校は「授業中に椅子に座っていればよい通信簿がもらえる」という素敵な学校だったので、私はそれなりに良い成績をおさめていました。
でも成績の良さが目立ち過ぎると、「いけ好かない優等生」として、件のギャルたちに目を付けられる危険性があります。
そこで自ら"あえての"ガリ勉キャラをまとうことで、成績への視線をかわすよう努力しました。
この作戦はうまくいき、いつの間にかギャルたちの間で私のあだなは「ガリ」となり、
「やっほ~ガリ、何してんの?あ、ガリだから勉強に決まってるか♪」
と言わせることに成功しました。
おかげで私は、安心して高校受験に専念することができました。
ちなみに「目を付けられないように」と気を付けていたのは、ギャル相手だけではありません。
中高生あるあるですが、当時の同級生は皆「先生に反抗するのがかっこいい」と思っていました。
友人との会話の99%は、先生への悪口と恋バナで占められていました。
私は先生に対してこれといった感情はなかったのですが、先生に従順すぎると、同級生から「なんか先生に媚び売ってるよね」と言われてしまうリスクがあります。
そこで、友人と一緒に「理科のヤマダ(先生の名前を呼び捨て)マジうざいよね」みたいなことは言いつつ、先生と一対一の時はそれなりにきちんと応対し、「問題のない生徒」として振舞っていました。
人とちょっと違うだけで噂されたり、いじめられたりする異様な空間の学生生活を生き残るための戦略が、いつの間にか自分のパーソナリティーとして根付いてしまったようです。
このようにして、筋金入りの日和見主義女子が爆誕しました。
私のような人、意外といるのではないでしょうか。
でも、たまにいるんですよね。
「周りは関係ない、私はこうする」と、暗黙のルールを躊躇なくぶっ潰す子が。
今でも忘れられない人に、高校時代のクラスメイトのAちゃんがいます。
彼女はいわゆる「グループ」が私と異なっていたので、あまりしゃべったことがありませんでした。
大学受験が近づき、皆が勉強に集中する高校三年生の世界史の授業中のことでした。
先生がAちゃんをあてますが、Aちゃんからは反応がありません。
先生がもう一度声を掛けますが、顔を上げず一心不乱にシャーペンを走らせるAちゃん。
Aちゃんをチラ見した私は、気づきました。
Aちゃん、耳栓してる。
Aちゃんは自分の参考書の問題に集中するため、授業中に耳栓をしていたのです。
先生はあっけにとられているし、クラスメイトも失笑していましたが、そんなことは全くに意に介さないAちゃん。
さすがに人としてどうなんだ…というのはありますが、その鬼気迫る勢いに圧倒されました。
それから少し経ったある朝。
Aちゃんが、やけに重い足取りで教室に入ってきました。
Aちゃんは、足におもり(アンクルウェイト)をつけていました。
その後、クラスメイトを介して入手した情報によると、あれは「文化部に所属する彼女が、受験を制する体力をつけるためのトレーニング」だと判明しました。
「Aちゃんってちょっとやばいよね…」とドン引きしている友人にうなずきつつ、私は彼女から目が離せませんでした。
そんなAちゃんは、見事第一志望の超難関国立大学に合格しました。
人からどう思われるかに振り回されず、志望校のために全ての意識と時間を使い、そして結果を出す。
「自分の目標のためなら、周りがどう思うかなんて関係ない」という姿を間近で見て、正直すごいと思いました。
それと同時に、思いました。
「私には無理」と。
私は、決められたレールがあると安心します。
「普通こうするでしょ」という考え方のレール、進学やキャリアのレール、ライフプランのレールなど、それらに沿って順調に進んでいるうちは、「よし、これでのけ者にされない」とほっとするのです。
だから就活の段になって、いきなりエントリーシートや面接で「あなたの個性をぶつけてください」と言われたときは本当に困りました。
とある企業面接のグループディスカッションで、「自分の色がないことが自分の個性です!御社に入社したら御社カラーに染まります!」と元気よく発言する人を見かけたし、私もそんなことを言ったかもしれませんが、今思うとめちゃくちゃ怖いですね。
どう考えても社畜予備軍じゃん。
「上司から、個性や自分の意見を求められたらどうしよう」という不安を抱えて入社しましたが、いざ入ってみると、会社のスタンスは
「決められたルールの中で、決められた部署の方針の中で、こと細かく決まっている仕事の進め方を守る前提で、まぁ、残りの部分は多少の個性を出しても受け入れてあげるよ!」
という感じでした。
なんだ、会社は、本当は強い個性なんて求めていないんだと分かり、それからは安心して埋没していました。
そして、おとなしく仕事を続けて、結婚して、子どもを産んで、家を買って、転職なんてしたりして…というレールを描いていました。
なのに、意図せず、レールから外れる羽目になりました。
結婚して2年目、流産をして会社を退職したからです。
驚きました。
私のレールに「流産」なんて文字はありませんでしたから。
妊娠したら出産するのが当たり前で、まさか子どもが生まれてこないなんてことが起こるとは、夢にも思わなかったのです。
嬉々として購入した『たまごクラブ』や『エコーフォトアルバム』は、泣きながらごみ箱に投げ捨てました。
食欲がなくなり、気づけば体重は30キロ代。
Facebookで友人の「【ご報告】家族がひとり増えました!」投稿を見かけるたび「いいね」を押さずに画面を閉じ、テレビで『はじめてのおつかい』のCMが流れると反射的にチャンネルをかえるようになりました。
そんな姿を見ていた夫が
「すこし休んだほうがいいよ。贅沢はできなくなるけど、俺一人の給料でも生きていけるでしょ」
と言ってくれたのが後押しとなり、会社を辞めることにしました。
「会社員というレールから飛び降りる」という、冷静な私であれば絶対にできないというか、あり得ない行動でした。
そういえば、「飛び降りる」というワードで思い出したことがあります。
96歳で大往生した祖父の話です。
仕事帰りに飲みすぎた祖父は深夜の電車に乗り、うつらうつらしているうちに最寄り駅を乗り過ごしてしまいました。
そこでどうしたかというと、走行中の電車のドアをこじ開けて、最寄り駅付近で飛び降りたらしいのです。
全身血だらけで帰宅したので祖母は悲鳴を上げたようですが、そのまま病院に行かず翌日会社に行ったとか。
どこまでが本当でどこからが嘘なのか、もうわかりませんが、我が家で脈々と語り継がれている伝説です。
走行中の電車から飛び降りるとか、映画かよと思いました。
ただ、血だらけになっているあたり、やはり私の祖父はトム・クルーズにはなれなかったんだな…と思いましたが。
話を戻します。
物理的に飛び降りた祖父とは異なり、自分で勝手に敷いた架空のレールから飛び降りた私は、長い間、家に閉じこもる生活を送っていました。
不妊治療クリニックに通うも流産を繰り返し、妊娠しても赤ちゃんが育たない「不育症」という病気だとわかったのは、三回目の流産後に不育症専門病院で、お値段なんと11万円の検査をしたからでした。
その時は「どうして私がこんな目に…!」と悲劇のヒロインの自意識が降りてきて、私は世界で一番可哀そうな人間だとリアルに思っていました。
周りの友人はどんどん出産し、気づけば「この度二人目が生まれました!」なんてLINEが来る。
「XXちゃんおめでとう!」「赤ちゃん、XXちゃんにそっくりだね!」なんてコメントが飛び交う中、私は「おめでとう」と書かれたアンパンマンのスタンプを押して終了。
なぜかわかりませんが、どうしても文字を打つことができませんでした。
「みんなと同じレールに乗れない自分」という劣等感は日に日に肥大し、ついに「なんで私は病院と家の往復しかできないのに、あんたは普通に働けるんだ!ずるい!」と夫に当たり散らすようになり、夫婦関係も最悪でした。
普通に考えて、夫が働いてくれるから、自分は家で療養できているはずなんですけどね。
そういうことも、もう分からなくなっていました。
ある日の夕食後、夫から
「なんか最近、卑屈になったね…」
と言われ、たいそうショックを受けました。
実際卑屈になっていたので、その後は「はいはい私はどうせ卑屈な人間ですけど?それがなにか?」という「超絶卑屈テンプレートのうざ絡み」を続けました。
ただ、不妊治療にはとにかくお金がかかります。
いつまでも、夫にうざ絡みをして過ごすわけにはいけません。
しかし一度「正社員というレール」を降りた私はなぜか、「自分には働くというレールは残されていない」と思い込んでいました。
だから私は、Google先生にすがりました。
時間だけは無限にあるので、「主婦 稼げる」「主婦 在宅 副業」といったワードで検索し続けました。
その結果たどり着いたのが、「ポイ活」でした。
「主婦のあなたもスキマ時間で○万円!」「ポイ活のおかげで欲しかったワンピースが買えました!」という文句につられて一か月ほど頑張りましたが、
驚くほど稼げませんでした。
おそらく、一か月で千円も稼げなかったはずです。びびった。
「パートのほうが稼げるじゃん」という当たり前の事実にやっと気づき、ポイ活は早々に諦めました。
ただ、オフィスワーカーとして再び働く未来は見えませんでしたし、もう自分の子どもを授かるのは難しいかもしれないと思ったので、保育士の資格を取り、パート保育士として働くことにしました。
社会復帰の場所が未経験職種というのはそれなりに大変でしたが、短時間でも電車に乗って出勤すること、少額でもお金を得られること、そして可愛い子どもたちに囲まれる生活は、すさんだ自分を癒してくれました。
そんな折、知人から「前職のバックオフィス部門の経験を生かしてみたら?」と派遣社員の働き口を紹介してもらい、小さな会社のバックオフィス業務を担うという、オフィスワークのリハビリを始めました。
その後、「うちの会社を手伝ってくれない?」と会社を経営する知人数名から声をかけてもらったことで、派遣的な働き方から「中小ベンチャー専門のバックオフィス業務を担うフリーランス」という働き方にかわっていきました。
本当に驚きました。
「私、また外で働けるんだ」って。
すると、夫への「卑屈てんこもりのうざ絡み」も多少は落ち着きました。
この数年の出来事をきっかけに、夫と「夫婦のパートナーシップに関わる事業に関わりたい。というか、事業を一緒に作ろう!」という話が持ち上がりました。
その後いくつかのプロトタイプを作りましたが、もちろん「これでいける!」という確信はないまま会社を作り、当然すぐ軌道に乗るわけもなく。
創業当時から夫、私、もうひとりのメンバーの三人がいるのに、最初は月の売上が5万円とかで、頭がどうにかなりそうでした。
よくベテラン経営者が「いや~、うちの会社も最初は売上ゼロだったんだけどね(笑)」と楽し気に語るのですが、私はそんなテンションで語れません。
「(笑)」とか絶対付けられない。
笑えない。なんならずっと泣いてたわ。
ただ「レールから外れたくない」という私の考えの根本である「人と違うことを人一倍恐れる性格」に、予期せぬ変化が起こりました。
会社の行く末が心配で眠れなくなった私は、連日夜中の事務所で一人頭を抱えていたわけですが、
これ以上考えても、もう、無理。わからん。
しょうがない、私はホリエモンみたいな天才じゃないもの。
「どうやって一万円稼ぐか、ただそれだけ考えよう」と思いました。
そこからは「主事業と全然関係なくない?」と思われそうな、そもそものサービスと客観的には何のつながりもない日銭稼ぎを、なりふり構わずやりました。
そうしたら、人の顔色なんて気にならなくなったんです。
単に、人のことを気にする余裕がなくなっただけですが。
その結果、今も依然カツカツではありますが、かつてと比べると経営が安定してきました。
本業としてやりたかったことに取り組める時間も増えていきました。
そして気づくと、私は「一般的なレールに乗れなかった自分」を受け入れられるようになりました。
といっても、そんな綺麗にまとめるつもりはありません。
「あの辛い経験を経て今があるので、過去に感謝しています」とは到底思えない(むしろ二度と経験したくない)し、今でも「夫婦そろってバリキャリで、都内の一等地にマンションを購入し、高級家具がそろっていて、かわいい子どもが二人いる」友人に会うと、
「くうっ、私が夢見たレールを実現している人がいる…!」と、羨望と嫉妬が入り混じった感情が生じてしまうのが現実。
そして、過去の自分であれば「自分はそのレールに乗れない」「どうやったらあのレールに戻れるのか」「レールに乗れなかった自分はダメな人間だ」と考えては、卑屈の無限ループに陥っていたわけです。
それが今は、「まぁしょうがない。昔描いていた理想のレールからは脱線しちゃったけど、今の自分も悪くはないんじゃない?」くらいには思えるようになりました。
今日も、完璧なレールへの諦めと愛おしさを胸に抱きつつ、生きていきたいと思います。