バナナの上のおさるはヒップシャンだった
うしろから追って見ていた印象と、ちらっと抜き出て「前からこんにちは」となった瞬間にイメージがぐるっと変わることがあります。
その反対もあり。いつも憧れて見ていたものを、ふとした機会に後ろからみたときに愕然とすることも多々あり。
言葉マシーンvsヒミツ感
以前、アトリエの中のひとの弟子時代のはなしを少し書きましたが、師匠に「ん~、では工房に来ていいですよ」と言われたときの条件が「あなたには教えることはしません」でした。では、そこで何を学ぶ? ⇒「さらしとらしさ(後編)」
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そうそう、師匠のおしり、いや『背中を見ること』が学びだったのです。よく耳にする抽象的なセリフ。ただの背中からなにか学び取れるのかな?と思いましたが、それがそれが目からうろこ零れました。
説教や講義という「言葉マシーン」で教えられるより、無言の「背中」の動きや温度にはデータ化できない情報がこぼれ落ちている。ついにはコツンという人の魂の音まで聞こえるのです。ほら、海やプールに潜ったときのボコボコ~とか自分にしか聴こえない音や体感、あの感じ。いい感じの孤独感ある情報。データ化することができないヒミツ感。
それが、血や骨や、その奥の細胞にまで染みるのです。
「言葉マシーン」は、情報化社会でぐちゃぐちゃになる脳の中にデータ整理して格納しないと紛失しがちだけれど、後者のそれは、データを引き出すとか、そういう感覚とはまったく違う。ランダムに流れてくるBGMのような感じ。こんな音楽もってたっけ?という感じに流れ出てくるメロディ。だから1曲だけではダメ。ぐるぐる響き渡るくらいまでの…。
バッグシャンだけでなくヒップシャンもいい
世間的にカッコいいのは「背中」だけど、「おしり」だって見逃してはいけません。
先日、アトリエの中のひとは家族とデザインのはなしをしていました。「三面図が描けないデザイナー」「手で線が描けないデザイナー」が増えて、つじつまの合わない線がうまれるという話。ぼくら器たちはもちろん立体オブジェなのでギクッとしました。それでは、ぼくらは水が入らないし立てないからです。ぼくらの存在すら危ぶまれるからです。
正面の顔だけでは見えないもの、背中も、おしりも、脚もすべて情報の源で、存在なのです。
ヒップシャンの温度
おさるのおしりも愛らしく感じてきたでしょ?
人も、モノも、「背中・おしり」をつくりこまなければ、温度あるデザインはうまれてこない。
「とうさん、かあさんのおしりは人生を語っているな」「先輩のおしりは経験の宝庫ね」…人生のこぶしが回っていそうで好きなのです。
部下も、弟子も、そして子どもも、背中とおしりを、見ていますきっと。
Cocciorino 地球のかけら