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土鍋で秋を炊く④ 「ふかし芋」とピエロ

浮遊感をたのしみつつ、ピンとはった綱をピエロみたいにバランスとって歩く。個展まで1ヶ月。ここらでリミットが出てくる勝負どころだ。陶芸は「完成」まであらゆる工程があり、仕上がりを逆算しながら進む。もう戻れない。

イタリアでの工房修行を終えて帰国したころ、日本に自分の歩むべく「陶芸の綱」が足元に見えない!と気づいたのは、かれこれ19年前のこと。家人は猛烈に海外出張に出ていたし、乳飲み子がいるのに、どうやって綱を、ひきよせたらいい?

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おかげさまで、いくつかのギャラリーがすぐに企画展という形で機会を与えてくれ、その綱をていねいに進んできた。現在もなお、いくつかのギャラリーとは変わらない綱をたぐり寄せあいながら仕事をしており、熱く励ましてもらったり、時には、作品について厳しくアドバイスをもらうことも少なくない。


我が家のメンバーは、みな同じようなデザインの世界に立った。頻繁にアートやデザイン談義して互いの考え方についてはあれこれ論議するのに、互いの「作品」に関しては、めったに評価しないし、めったに褒め合わない。数年に1回ずつくらい「これは好きだ!」というものが出ると、これでもかというくらいに手をたたく。(※そのわりに料理や服に関しては直球で感想を言ったり褒めあう)


プロとして進む(予備軍含め)場合、綱のむこうにある世界は自分のものだけではない。落ちないで渡れるように「もっと腕をひろげろ」とか「バランスいいね」とか、叱咤激励を飛ばしてくれる社会の声に耳をすます。評価というものは、家庭内でなく、社会(大学含め)でへろへろになるまでしてもらえと思っている。評価そのものより、「評価をしてもらえる人間」こそ、うれしいものはない。


そもそも不器用で、「親性」(母性はもっと不足している)も薄い霧のような程度らしい。そんなこともあるからか、シゴトに向き合うと、たちまち後ろを振り返らず綱を渡るピエロになってしまう。あの乳飲み子も、綱を渡る緊張感をみてきたにちがいない。小学生のとき「ボクもたいへんだけどタマくん陶芸やめないで」と泣かれたことがある。子が親を超えた最初の一歩だと思ったし、家族とは、綱から落ちた場合のクッションであることを認識した一瞬だった。

わずかな「親性」を、たまに温める。細く上がる蒸気に、わずかな香り。焦ったり、緊張したら、さつまいもを蒸かしながら、初心を思い出す。


「土鍋で炊く干し大根としめじのごはん」
「土鍋で炊くさんまごはん」

※個展スタートまで、note、ブログ、ツイッター、インスタなど、どこかしらに毎日の気持ちを残している。貴重な期間だが、腕を広げて背筋をのばし綱を歩きながら。


INFORMATION

我妻珠美 陶展 -秋を炊く-
Tamami Azuma
Ceramic Art Exhibition

Ecru+HM(Ginza Tokyo)
2018年11月16日~24日
※21日休廊
東京都中央区銀座1-9-8 奥野ビル4F


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