
家族の笑い
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以下の文章は、私が品品団地( https://pinpin.tokyo )に寄稿したものを、特別に転載したものです。
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親の笑いについていく、ということがある。
あったはずである。子鴨が親鴨を追うようにして、親の目線を追いかけ、親の口調を追いかけ。親の興味範囲を一緒になって駆け回るうち、親が笑ったから私も笑った、という経験があったはずだ。
テレビに「なんでやねん」と突っ込む母親を見て明石家さんまへの愛が芽生えたり、極めて太い鼻水が垂れてきた自分の顔を見て「一青窈」と呟く父親に不思議な感情を抱きながらそれを舐め取ったり、父親と母親が別れのキスをする際に髭がチクチクして大暴れ、というコンビ技もある。
一緒になって笑うことで場に繋がりながら、面白いという感情の引き出しを増やしていく。それが賞レースで勝ち抜けるような笑いである必要はなく、むしろ場それ自体に価値がある。ほどなくして一青窈で笑うことは一切なくなるが、その引き出しは大人になっても残っていることだろう。
「カナルタ 螺旋状の夢」というドキュメンタリー映画に、一堂に介したある部族が取るに足らない冗談で嘘みたいに笑い転げる場面がある。
なぜ笑えるのか全く理解できないにもかかわらず、スクリーンに一分間以上は映り続けただろう他人の爆笑を見ているうちに、とうとう俺は笑ってしまった。ほかの観客もとうとう笑ってしまっていた。
それを俺は「家族の笑い」と呼び、物心ついてからテレビやネットで培ったある種の先鋭的で独自的な笑いと区別した。奇奇怪怪でもその話題に少し触れた折、藤岡拓太郎氏が共感してくれた記憶がある。
藤岡拓太郎氏もまた、「家族の笑い」の人である。
彼の極めて鮮烈に面白い2コマ漫画の登場人物達には常に怪奇が潜み、しかも決して致死量には満たない毒とでもいうべき成分を感じる。
しかしそれは毒が弱いからではなく、それを解毒し免疫するようなかわいげを常に孕んでいるからだ。そのことは、その後相次いで出版された『たぷの里』や『ぞうのマメパオ』といった絵本を読んで半ば確信する。
子どもの脳天に力士の下っ腹が載るだけで、小さな女の子がゾウと坂を転げ落ちるように駆け下りるだけで、笑えてしまう。かわいくて笑う。その削ぎ落とされた原始的な幸福は、「家族の笑い」と表現して差し支えないだろう。
そのとき俺の穏やかな眼差しは、かつて子だった自分自身にも向けられている。
子は大人たちの保護の目をすり抜けるようにして世界を発見し、咀嚼していく。だからいつも涎が垂れている。大人が子どもを語るときの通説である。
確かに小さな彼らにしか獲得し得ない独自の視点はあるのだろうが、だから斬新なアイデアが生まれるのだ、などと定期的に天才画家や天才詩人を発掘することで対岸の火事のように扱っているようではいけない。
時を同じくして此岸の家事に追われている親の一挙手一投足を、彼らはその鋭敏な五感をフル回転させて読み取ろうともしている。
親が何を見、何を感じているのかを絶え間なく観察している。そうして、笑いに対応するための神経回路が、体内に醸成されていく。もちろんほかの感情についても同じように言えるだろう。
もうけもんという曲を作った。テレビ東京の「シナぷしゅ」という乳幼児向け番組でこの4月いっぱい毎日流れている。
育児に追われる親がどれだけストレスや精神不安を感じているかは、親になった友達や、自分の子育て日誌を見るに明らかだった。だからこの曲が新たなるストレスにならないか心配していたが、今のところ好意的な反応が多い。
まず親として奮闘している人々が反応してくれたことが嬉しい。
この曲は前述の通り、「子は自ら世界を発見するのみならず、親の視点や反応に同化を試みる形で世界を認識している」というイメージに基づいて制作された。
だから、子を持たない自分が勘や学理によって子の感性を刺激しようとするよりも、自分がかつて子だったときの親側に立ってみようと考えた。
極太の鼻水は汚いが、親からすれば笑いと心配の種である。ままならなさに苛立ち殺気立ち飛び立っても、いずれやっぱりかわいいという地点に戻ってくる。そこが親と子双方にとっての安全基地になる。そうだったらいい。
そのような期待を込めて、テレビの前の子ども達はもちろんのこと、それを傍で見守っている育て親へ向けて歌ったわけである。その親の表情を、子が見つめていることを祈りながら。
そしてふとしたタイミングで親が子に視線を向けたとき、こちらを呆け顔で見上げる子と目が合ったならば、思わず笑ってしまうのではないか。そうだったらいいのではないか。それが「家族の笑い」であり、子育てにおける最大の幸福のように思われる。
自分の親(家族、仲間)が何かに興味を示している。それを目で追い興味を持とうとする姿勢は、子にとって普遍だろう。そのとき、それはもう子が親を見守っているとさえ言えるのではないか。
親は子を抱き、愛を注ぐ。しかしそのとき、親は子に抱かれてもいるのである。
さて最後になるが、実はことさら胸にきたのは、子を持たない人々までもが反応してくれたことだ。未来の子育てに夢膨らませる人もいれば、かつて子だった自分に重ね合わせる人もいた。
親が子を手にかけるニュースや、連日SNSで見かけるベビーカー問題、手を替え品を替え拡散される「子を産むデメリット」を何ともいえない気持ちで眺めていた独身としては、かつての子であり、これから親となり得る人たちに楽曲を通して出会えたことは宝である。
P.S.もうけもんが収録されたアルバムが欲しい人はこちらから予約できます。歌詞がいいと思った人には本気で気に入ってもらえる気がするので是非どうぞ!