さすらい2

さすらいのノマドウォーカー 22話

小さな文字が見え辛くなったとこぼしていたので、大きめのフォントサイズでプリントした。退院してからと考えていたが、病室で渡すことにした。登場人物が自由に出入りするシェアハウスは、リスクが高すぎる。

外泊をつつがなく終え、退院日も金曜日に決定した。

読んでもらうなら今しかないと、この2か月書き溜めていた「ほぼ私小説」を、唯一の読者に手渡した。置いて帰る予定だったが、同室の患者の検診にきた看護師に出口をふさがれ、完全にタイミングを失ってしまった。

母が紙をめくる音を、パイプ椅子の上でお尻をもぞもぞさせながら聞く。こういう時に電波を発する機器が使えない病室はつらい。間が持たない。かといって、文庫本を取り出すのも違う気がする。

どのくらいそうしていたかわからない。母が紙束を床頭台に置いた時には看護師はいなくなっていた。

眉がへの字になる母の笑みは、遠い記憶の中と変わらない。おっとりしているようで、しっかりもののようで、どこか抜けていて、突然バイタリティーを発揮する。残さずに食べてエライわねと、頭を撫でてくれた母と同じだ。

「こんなことがあったのね。マコはあまり話してくれないから、嬉しいわ」

姉と同じことを母にも言われてしまった。なんだよ。ふたりだって今までそんなこと言わなかったじゃないか。もっと話して欲しいって言ってくれたら…。言ってくれたら…。

母の瞳が潤んでいるせいだ。誘い水となって自分の視界がぼやけたのも。

なんだか無性に恥ずかしくなったので、じゃあまたとかなんとかごにょごにょと濁して病室を出た。

「ほぼ私小説」を回収してくるのを忘れたと気づいたのは、アパートでベッドを引き取りにくるリサイクル業者を待っている時だった。…次でいいや。

シェアハウスの1階には予備室というか、物置代わりにしてる4畳半の部屋がる。当面はそこに寝泊まりすることになった。居住スペースを確保するために使わなくなった家具などはリサイクルか粗大ゴミに出したが、収容物の大半が祖父母の遺品や兄弟の思い出の品だ。捨てられない。

無駄な家賃が発生する前にアパートを引き払いたいのだが、持っていける荷物が少なすぎて辟易した。

本と家具、家電はトランクルームかなあ。仙道さんの部屋、使わせてくれないかなあ。くれないよなあ。

業者が来る前に、荷物はあらかたまとめることができた。簡単に掃除を済ませるともう夕方だ。

暗くなる前にシェアハウスへ帰ろう。

軽快にステップを踏みながら階段を降りると、二度と会いたくない人物が佇んでいた。

「うわっ出た!」

フラッグチェック!

渡辺の彼氏の…リョーマだったっけ?

目を合わさずに足早に通り過ぎたが、後を追ってくる気配がする。

勘弁してくれ。

信号で横に並ばれた。

リョーマは前を向いたまま、間延びしたイントネーションで話しかけてきた。

「あのさあ。お金かしてくれない?」

はあ?

絶対に相手にしないと決めていたのに、うっかり聞き返してしまった。ちょうど信号が青になったので首を進行方向へ戻して進む。

「5000円でいいんだけど…。足りなくなってさあ」

リョーマは真横をキープしながらついてくる。足りなかろうが、少なかろうがこちらの知ったことではない。無視して歩き続ける。

「美香の誕生日、今日なんだよお」

美香?渡辺の下の名前はそんなんだったか。

「あと、5000円足りないんだよお」

リョーマは、男女問わず人気の高い老舗のハイブランドをあげた。そこの財布を渡辺はご所望らしい。

「頑張って稼いだんだけどさあ」

稼いだ…

はあ。ため息が出た。

馬鹿じゃなかろうか。他の女と寝て稼いだ金で買ったプレゼントを喜ぶ彼女がいると本気で思っているのか?

駅に着いてもリョーマは諦めなかった。根負けしたのはこっちだった。これ以上付き纏われてはかなわない。

財布の中から5千円札を取り出すと、リョーマの右手に叩きつけた。

「あげるから。二度と顔をみせるな」

「いや、いいよお。ちゃんと返すよお。あ、なんならカラダで払うよ?俺、ろうなくにゃんのイケルし!」

遠慮するところがちがう!自分は5千円か!老若男女が言えてない!

いくつものツッコミをひとことにまとめて放つ。

「消えろ」

逃げるように改札を通ると、すべりこんできた電車に乗るために階段を駆け上がった。

価値観が違いすぎると会話が成り立たないんだな。得体の知れない恐怖に怯えつつ、シートに腰を下ろす。やっぱり自分は逃げたのかな、逃げたんだろうな。渡辺に本当のことを告げることから。

荷担したんだろうか。

リョーマの不道徳な行いを擁護したことになるんだろうか。


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