さすらいのノマドウォーカー 26話
簡易応接室を設置できるほどスペースに余裕あるが予算オーバー、便利なミニキッチンがあるが駅まで徒歩25分、改装されたばかりで綺麗だが壁が薄くて雑音だらけ。
決め手に欠けた事務所選び。
優柔不断な質ではない。
しかし部長が冗談で口にした「営業所長」という役職名は、知らず知らずのうちに「自分の城」選びに、重圧として圧し掛かっていたのかもしれない。
引導を渡すなら、1階に美味しいカフェオレが飲める喫茶店があるからでもいいのでは?
うまいか、まずいか。
再訪問した物件の1階に佇む、観葉植物で洗練された空間を創りだされたガラス張りの喫茶店。ドリンクメニューを記されたポストカードが、クリップボードのように留められた木目調のドアを、なかばヤケッパチで押し開けた。
カランコロン
昔懐かし、いや自分にとっては小説の中だけの体験である入り口のベルがかすかな余韻を残して消える。
「いらっしゃいませ、お好きな席へどうぞ」
カウンターの内側から愛想のいい落ち着いた声がした。ガラス張りなので全容は外から見えていたはずだが、思いのほか広い。10近くの島があった。
いつもの癖で壁際の探すが2人席は埋まっていて、4人席しか空いていない。
ためらっていると、「おひとりですか?ならば2人席へどうぞ」と促されたので、しぶしぶと背後がカウンターの席を選んだ。
ジャケットを脱ぎ、椅子の背もたれかけ終わった頃合いに、銀髪の初老のマスターがメニューと水の入ったグラスをもってきた。
「営業は5時までですが、大丈夫ですか?」
スマートフォンのディスプレイは15時50分を表示している。ひとりで切り盛りしているのなら、妥当な営業時間か。あと1時間強なら4人席に座らせてくれてもいいのに。ちっともお好きな席じゃない。
家庭用プリンターで印刷されたメニューとにらめっこし、悩んだ末にカフェラテにする。
違うな。悩んだふりをして時間を稼ぐ間に他のメニューに目を通し、最初から決めていたカフェラテをオーダーした。
「ホットですがアイスですか?」
ああ、もう初夏だ。早いな。
春は、いつの間にか終わっていた。
「ホットでお願いします」
今日は暖かいから。こういう日こそとホットもアイスも出るんですよと朗らかに言い添えながらマスターはカウンターの奥に消えた。
しばし待つと、ぽってりした陶器のカップアンドソーサーが運ばれてきた。
表面にうさぎを浮かべて。
うわっ
マスターはにこやかに「サービスです」と立ち去る。
うさぎさん。そう表現するのが最もしっくりくる、フォームミルクとコーヒーで創作されたカップに浮かぶラテアートだった。
うさぎさんを喜ぶようなキャラにカテゴライズされたことに、くすぐったさを覚えたが悪い気はしなかった。
うまいか、まずいか。
さあ、どっち。
うさぎさんが歪まないように、そっとすすってみる。
にがいけど美味しい。
真の美味しさはわからない。コーヒー通のコラムを読んでもさっぱり頭に入ってこない。あくまで好みにあうかどうかだ。
チェーン店より値は張るが、ゆったりと体を預けられる布張りソファと心地好い空間が気にいった。コルクボードに留められたインスタントカメラ写真に映っているラテアートも制覇したい。
店のルールの伝え方が少々おしつけがましいなんて大したことじゃない。
よし、ここに決めた。
きっと事務所にこもって資料と格闘している間に営業時間が終わってしまうのだろうけど。
外回りの日は5時前に帰社できることなどほとんど無いのだろうけど。
いつも、そこにあることが大事だ。
自分はそれを知っている。
ぱしゃっ
せっかくなので記念に、うさぎさんをスマホのシステムメモリに収めた。
半分ほど胃袋に移動した後なので、頬がこけた面長のうさぎになってしまっていたけど。