さすらい2

さすらいのノマドウォーカー 28話

思考が上滑りする。

深部へ掘り下げようとするとぬるんと躱され、スキップしながらてんでバラバラに逃げていく。

今日はだめだ。

情報が打ち込まれないまま無駄に立ち上げられた複数のソフト。もう真っ白な画面のプレッシャーに耐えらない。保存もせすにノートPCをシャットダウンした。

こんな時はプロが造りたもうた架空の世界にほしいままに翻弄されるのが得策だ。

鞄に入れっぱなしにしていた文庫本を取りだした。

「あどべんとかれんだぁ」?

季節が半年ほどずれているが、母も姉も(仙道さんも)フィクションに興味がないので間違いなく自分が買った本だろう。

売り手にとってはどうだか知らないが、読み手…特に活字フリークにとって季節なぞ、物語の設定の一部にすぎない。なにしろ、時代、国、種族さえも異なる世界に感性を投じるのだから。

いやむしろ、今日の心境にいたっては違うからこそ現実から遠く離れる手立てとなり得る。この本を買った時の自分と鞄に入れた時の自分、万歳!

なぞの緑の小人が現れたところで、バイブレーションがテーブルを叩く固い音に、脳内ワールドを壊された。

映画やテレビと違う読書の利点のひとつは、インスピレーションを得た場面で物語を止め、自由に思考を巡らせられることだが、それはあくまで自分発信の場合に限る。

邪魔した犯人を確かめないことで鬱憤を晴らすと、文字情報の取り込みを再開した。

新たに小人の友人が登場したあたりで、側頭葉を小突かれた。

むむっ

狭い通路を強引に通った客のトレイが頭をかすったにしては、弾力と温もりがあった。

意図的だったと気づき、失礼な輩をねめつけてやろうと身構る前に不機嫌な声が降ってきた。

「なに無視してんのよ?」

パールピンクの唇を尖らせた姉が、当たり前のように対面の椅子に腰を下ろした。

「…どうしてここが?」

「外から丸見え」

ここは、オリジナルスパイスに漬けこんだ鶏肉をカラッとジューシーに揚げた「かぶりつきチキン」が主力製品のファーストフード店。1階がキッチン兼レジカウンターで2階がイートインスペースだ。

2面がガラス張りで1面が通りに面している。壁際の端っこから時折ストリートを眺めていたが、こちらから見下ろせるのであれば道行く人からも見えて当然か。

目顔で脅すので出しっぱなしにしていたノートPCを鞄にしまうと、姉は空いたスペースに「かぶりつきチキン」がてんこ盛りされたトレイをどんと置いた。使い捨ておしぼりで丁寧に指をぬぐうと、あんぐりと大口を開けてチキンにかぶりついた。

「ん~幸せ」

お嬢様然とした外見からは想像がつかないが、姉はジャンキーな食べ物に目がない。美容のためなんてとせせら笑っていた姉だが、子供ができたとわかってから和食中心の栄養バランスの整った食生活へ変えた。授乳のために制限していた脂質をここまで大っぴらに食べ始めたということは、卒乳を決めたのだろう。上の子の時に聞いた。身籠ってから授乳が終わるまで2年弱。母親って本当にすごい。

「…それで?どうするの?」

胸、腿、手羽と1羽分まるごと食べたのではないかというほどの「かぶりつきチキン」が胃袋に消えた後、ついでのように聞いてきた。

「とりあえず明日、支店に行って報告してくる」

契約も済ませ、後はオフィス家具を搬入するだけの状態だった事務所が火災で焼けてしまった。幸いにも怪我人は出ていないが不審火の疑いもあるそうで、数回ほどしか訪れていな自分も事情聴取を受けた。

落ち込んでいる間もなく不動産屋へ連絡するも、間の悪いことに候補にしていた事務所全てが、タッチの差で埋まってしまっていた。

姉はきっと心配して電話をしてくれたのだ。「かぶりつきチキン」を心置きなく食べる目的の「ついで」だとしても。

「あ、そ。それで、あっちは?」

「あっち?」

「お坊っちゃまとヒモ男と文学青年」

「……」

「どれにするの?」

「どれにもしない!!」

心配していたのは「そっち」か!他人の色恋沙汰を面白がるなんて女子中学生か!

「趣味が合うって最高の条件だよ?家事全般を任せられる主夫も捨てがたいけど、あたしの一押しはお坊ちゃま!」

「…どうせ、決め手は蟹とお寿司でしょ?」

「あたり!マザコン気味なのが気がかりだけれどね、裕福は正義!」

そういう姉の旦那のご実家も庭付き一戸建て、引退したご両親は悠々自適な生活を送る小金持ちだ。姑・舅との仲もよく、ちょくちょくお小遣いをもらっているらしい。もう充分だろう。なぜ妹の婿にもそれを求めるのか。

だいたい佐藤は新婚ほやほや、数に入れるのもおかしい。フラッグチェックは場の雰囲気を面白がってのっかっただけで、江幡ボンのは社交辞令でしょ?

「ああ、昔からマコはそうよねえ。モテるくせに鈍感なの」

「鈍感?モテる?」

100歩譲って鈍感はいいとして、モテた記憶など皆目無い。

「そうよお。あんたに思いを寄せる哀れな子羊は、少ないながらも常に一定数いたわね」

どうしてそれをあんたが知っている?

「ま、あたしが蹴散らしてたからね。だって美少女のあたしを差し置いてマコを好きになるなんて許せなかったし」

「……」

「あの頃は美の基準はひとつじゃないなんて思いもよらなかったんだよね。あたしは気品ある大輪の薔薇。あんたは野に咲く地味なスミレ。地味でも需要がるのよねえ。あたしの妹が可愛いくないわけがないって意識が変わったら変わったで、相応しくないと感じたオトコは蹴散らしてた」

「……」

「さすがに社会人になってからは首突っ込んでないわよ。妹が嫁き遅れても不憫だし。だからってハードルは下げてない。あの3人。それぞれ美点がある。だからさあ。どれかにしときなさいってば」

佐藤とは二度と信頼関係を復元できない、竜馬の恋愛モラルは理解の範疇を超えている。江幡ボンの甘えた行動倫理はイラつく。

「文学青年は婿養子ってだけで尊いし、ヒモ男はゴミの分別を厭わないし、お坊ちゃんだって育ちがいいだけあって説けば自らやるようになるって」

「……」

もうこれ以上ややこしくするのはやめてくれ。厄介ごとを増やすのは勘弁してくれ。確かに自分の美の基準は姉だった。最高位が姉だった。今更、基準をひっくりかえされても困る。

そんな自分の気持ちを他所に、姉は財布を取り出すといそいそと1階に降りていった。

「あとキールとドラム追加しちゃおうっと」

どうぞ、好きなだけ食べてください…。

そして、そっとしておいてください…。


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