さすらいのノマドウォーカー 25話
つまり全ては姉の名前を聞かれたと早合点した自分が悪かったと…
だってあの話の流れではそう思うのが自然なのでは?
うーん。そうとも限らないか…。
母の退院パーティーは散々だった。
ヒステリーを起こした旦那さんは、2人の子供達を抱えてさっさと帰るし、仙道さんは好奇心丸出しで面白い出し物を目を輝かせてみてるだけかと思いきや「佐々木さんは見かけによらず悪女なのねえ」と混ぜっ返すし、母は「マコは昔からモテたからね~」とどこ吹く風だし…。
フラッグチェックが「ぷすっ。本名を教えてもらえなかったの?俺なんて自宅にいったことあるよ?」とからかうもんだから、江幡ボンは顔面蒼白になって膝をつき、佐藤は色めき立った。
佐藤も「竹馬の友だ」と文学的知性が皆無だと思われるフラッグチェックの劣等感を刺激し、浅からぬ仲であると最近知り合った江幡ボンの付き合いの短さを嘲笑った。
案外早く立ち直った江幡ボンが、「僕なんてプライベートナンバーを知っている」とやり返したものだから、ダイニングルームは阿鼻叫喚、まさに地獄絵図。
こういう事態は小説の中だけだと思っていた。フィクションの中でドタバタコメディはたくさん経験してきたはずのなのに、いざ当事者となると茫然とするしかできない。
いちいち申し開きするのも面倒だったので黙っていたが、フラッグチェックは不法侵入に近いし、名前は渡辺から聞いたか部屋に置きっぱなしにしてある公共料金の支払い明細でもみたのだろう。
佐藤にいたっては同期なんだから当たり前だし、よくよく考えればこいつは人事課の所属だった。住所変更の書類を提出したばかりだし、他の社員に教えたわけでもないので悪用したといっていいのかわからない。
ボンのプライベートナンバーってのもあれでしょ。不在の際の連絡先としてスマホの番号を2階のダイニングに貼り出した時のでしょ。転送電話にしろとの姉の忠告ですぐに剥がしたが。
そもそも名前の話は嫌なんだよ。いまでこそ受け入れられたが、幼いころは姉へのコンプレックスもあり、自分のファーストネームが大嫌いだった。そして今は、あんなに抵抗した当時の自分が大嫌いだった。
真琴という当時の価値観でカッコいい名前に対し、雅子いう名前がひどくカッコ悪く思えた。小学校のいじめっ子に昭和っぽいとなじられたのがきっかけで、不満が噴出した。
駄々をこねた自分と、名付け親である祖父母への配慮との妥協点として、マサコを縮めたマコという綽名で呼んでもらうことになった。じゃあ姉はどうしたのかというとそままマコトか、下の2文字をとってコトと呼ばれた。
日本人で13番目に多い苗字なので、クラスに2人以上佐々木がいるときもある。その場合にはマサかマコと呼んでもらった。
恥を忍んで過去を打ち明けしぶしぶながら誤解を解いたが、さらなる試練が待ち構えていた。
事態が終息に向かった時、期を見計らっていたのか、2号室の金井さんが今月いっぱいで実家に戻るといいだした。
そこにフラッグチェックが、「あ、じゃあ、俺が入りたいっす」と名乗りをあげ、聞いてもいないのにペラペラと置かれた状況を説明しだす。住んでいたところは家賃滞納で追い出され、彼女と別れたから転がり込む部屋がない、と。
「あら、それは大変ねえ。家でよければどうぞ」
止める間もなく、母が了承してしまった。
げ!
いや、待てよ。シェアハウスは人気が高く、待ちがあったはずだ。
進言する前に、その手が使えないと思い出した。母が入院中にすべてお断りしたのだった。
ああ、金井さん、いかないで。
自分の平和な毎日のためにいかないで。
せめてフラッグイェックがいない時に言ってほしかったよ、金井さん。
どうしてこんな時にいてくれないの、姉さん。
帰来の楽天家なのか前向きなのか、母の隣に陣取ってご機嫌伺いをしているボン。棚から牡丹餅で住む部屋を確保し、上機嫌で金井さんと情報交換をしているフラッグチェック。元同僚のための餞別を何故か母に渡し「ちょくちょくよるわ」と言い残して嫁の実家へ向かった佐藤。
三すくみのはずなのに。
苦境に立たされたのは自分だけのような気がしてならない。
包囲網が解かれることはないのか。
前途多難なシャアハウスでの暮らしに落胆を隠せない。