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【百線一抄】060■未踏の地でゆらり味わう丹後の調べー京都丹後鉄道

大阪と舞鶴を結ぶ路線が明治期に開業すると、さらに若狭湾の西部
方面をめざす路線を求める声があがる。計画や構想が出てきては消
え、第一次大戦後の経済混乱を乗り越えて、舞鶴と宮津の間がよう
やくつながった。大正末期のことであった。延伸工事も進められ、
まとめて宮津線となったのは政党政治が潰えて間もなくであった。

一方で福知山と宮津を結ぶルートの構築も同様に立ち上がったが、
クロム鉱や銅を産出する河守鉱山が所在する大江町から更に北側へ
の延伸はなかなか前進せず、河守と宮津を結ぶ路線が計画リストに
載ったのは戦後のことであった。鉱山の採掘終了とともに衰退が進
み、大正期から細々と運行していた区間も休止を経て廃線となる。
ちなみに工事が始まっていた北部区間は計画の変更で福知山と宮津
の間を結ぶとされたが、他の建設線と同様、工事凍結が決まった。

凍結となってほどなく、工事区間を引き継ぐ第三セクターの会社が
発足し、宮福鉄道の路線として工事が再開される。さらに国鉄の再
建をうけて特定地方交通線となった宮津線の運営も同社に引き継が
れることになった。宮福線の開業は昭和の末期に、宮津線の移管は
バブル全盛期に実現、北近畿タンゴ鉄道としての運行が始まった。

マイカーの普及に加えて自動車道の延伸が進む中、福知山から天橋
立までの電化と高速化工事を推進して、京都や大阪からの観光客を
増やすべく直通列車の設定も行う。工事完成後はJRの特急電車が
宮福線を経由して乗り入れてくるようになり、自社製気動車の特急
も舞鶴経由で京都と天橋立や久美浜を結んで一大ネットワークを生
み出す役割を担った。舞鶴自動車道が到達した後も、基本は変わら
ずに車両のリニューアルを進めつつ丹後の観光を盛り上げている。

新たに運営に関わる京都丹後鉄道は、既成概念にとらわれない、さ
まざまな施策を繰り出している。観光列車の運行や設備の更新など
の鉄道運営に限らずに、沿線を走るバス路線やタクシーとも連携を
図りながら新たな需要を生み出す取り組みが行われている。普通列
車の「あおまつ」や完全予約制の「あかまつ」「くろまつ」は、た
だ乗るだけではない楽しみが満載。列車ごとに異なる提供品に加え
て、車窓から見える景色も特急とはまた違ったものとなるだろう。

それでは次回の投稿まで、ごきげんよう。

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