3.11から10年
月並みな内容にはなりますが、書いておく。
2010年9月。かねてからの三陸行脚を実現できた。
仙石線経由で石巻に入り、そこで1泊。翌朝、石巻線で女川まで足を延ばし、折り返し列車で小牛田へ戻る。それから気仙沼線で気仙沼を経由して盛、釜石、宮古、八戸と列車を乗り継いで青森へ抜けた。
乗継駅で時間があったところは街歩きもしたが、かなりテンポよく移動したので列車内から眺めた風景ぐらいしか写真は撮っていない。
そんな旅程の中、わずかな時間ではあったものの駅の改札口を抜けて、駅前周辺の写真を撮っていたところがある。女川駅だ。
折り返し列車の発車時刻まではそう余裕があるわけではなく、目に付いたところでシャッターを切っただけなのだが、現地でとりわけ印象に残ったのが冒頭の写真だった。チリ地震による津波の到達点を知らせる青線が印象的だった。
横のプレートが写っている部分を拡大したものがこちら。
対岸の火事ならぬ対岸の地震がここまで影響を与える。青線の高さは自分の頭上(約170cm)より高く、思わず息を呑んだ。知識としてリアス海岸のエリアは津波の被害が大きくなりやすいということが頭にあったものの、それがより具体化された瞬間だった。
いや、実際はあくまでも脳内のイメージであって、想像の域を超えていなかったのが現実だったのかもしれない。
そりゃそうだろう。まさかこの半年後に、跡形もなく姿を消すことになろうとは、思いもしなかったのだから。
この後、2013年に国内鉄道路線の全線踏破を達成してから、2014年の夏にこの時の逆のルートを久慈線、三陸鉄道北リアス線とたどり宮古からは山田線と並行で走る路線バスを乗り継いで釜石入り。1泊してBRTで陸前高田を経由して仮設図書館へ足を運び、気仙沼を過ぎて前谷地、小牛田と抜けている。
陸前高田市の仮設図書館が設けられていた竹駒駅周辺の風景からも、津波の強烈さを存分に受け取った。
この時に女川に寄らなかったのは、石巻線の復旧がまだ途上であり、2015年3月の開業を目標として工事が行われていたから。そして翌年の夏、仙台七夕まつりに合わせて、再訪を果たした。
見事な新駅舎に感じ入るとともに、駅前に掲示されていたまちづくりの計画やパネルを見ていくと、じっくりと、力強く前進していくまちの息吹を感じ取ることができた。
2010年9月。いろいろな巡り合わせがあって、この時期に三陸を訪れたのも何かしらの宿命みたいなものがあったのかもしれない。
そこから半年で時間の流れが大きく変わり、さらにそこから10年の歳月が積み重ねられてきた。
中には3.11の時点で時間が止まったままの人もいると思う。時間の進み方が大きく変わってしまった人もいると思う。
26年前の阪神淡路大震災の震源近くにいた自分だから、ほんの少しだけではあるけれど、そういった時間の流れが異なってしまった人たちの想いを感じることはできるような気がしている。
言ってしまえば、その程度のことしかできない。
それでも、何かしらつながりとか絆(きずな)とか縁(えにし)とかいうものがあるというのなら、そういう何かでつながっているというのも、ちょっとした温度(あたたかさ)があっていいのではないかなあと、思うのです。
10年前のあの時は主戦場(学習塾の教室)で保護者の方と面談をしていました。そのあと向かった勤務先(和歌山)は大津波警報の発令によって、到着するやいなやとんぼ返りで帰投する流れとなりました。海岸方面へ向かう列車がすべて止まってしまい、駅前で行き場を失った学生の団体が呆然としている姿が印象的でした。その後のドタバタは、語る必要はないでしょう。
10年の歳月。長いようで短く、そして果てしない未来へ続く。
ひとごとではない、その時どうするかをしっかりと心に留めて。
それでは次回の投稿まで、ごきげんよう。
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