書きゃあいいってもんじゃない
ここで言いたいのは文章の話ではなく、"記録すること”の話。
メモを取るとか、ノートをつくるとか、そういう話です。
正直なところ、自分はあまりメモを取らないクチでして。
ここ数年でやっとこさ、備忘録レベルで戦闘の記録を書き残すようになりましたが、これも自分用というよりはスタッフとの共有が主目的でして。
こちらは覚えていても先方が覚えていないということも多々あり(いまのところ逆はほとんどない)、言った言わないは当然揉めるもとなので、書いたことを共有することが結局最もローテクで、かつ有効な方法だったからに過ぎません。
ではノートは?となるのですが、こちらは基本的にきっちり書く方。
ただしあくまでも自分の記録としてしか書いていないので、後日まとめるとか他人に見せるとかいったことは全く想定していないのがポイント。
なので、ノート提出をしたところでいい評価には確実につながらない。
しかも乱筆(blog参照)ときたものだから誉めどころは皆無ときた。
ただ、授業にはしっかり参加していたので、耳得なネタは枠外に結構書いていたし、独自ルールで1/4ほどの別枠をつくって追記を加えていた教科もあり、そちらでは高評価を得たこともありました。
では、何が言いたいのか。
それは、「書かせる」ことがプラスになるのかというと、そうではないのだ、ということ。端的に言えば、それだけです。
よく、あの人はメモを取らないからどうだ、うちの子はノートをつくらないからどうだ、とかよく耳にする言葉なのですが、その対応として「書かせる」という方法がよく俎上に上がり、採用されることがよくあります。
ところが自分の場合、少なくとも「書かせる」という手段はあまり選ばない。とりわけ中高生以上だと、まず選ばない。大人なら言うまでもなく。
だって、自分が「書くこと」にあまり積極的でないのに、書くことを要求したり命じたりするのは違うと考えているから。
同じ「書かせる」なら、”おのずから”書くようにならないと、おそらく所期の目標は達成されない公算が高い。言いかえれば、書かなくても覚えている&成果を発揮できるのであれば、書くという”作業”は労力も伴うし、紙も筆記用具も消費する。PCや携帯端末にしても入力時間と保存領域を消費する。換言すれば、周囲に迷惑がかからないなら不要だというわけです。というか、書く習慣がない向きに書くように要求したところで、「書いたこと(もの)を忘れる」という結果が必然的に付いてくるので、それこそ徒労かと。
したがって、自分の場合はメモを取らない・ノートを書かない人が知己にいる場合、この件についてこのような対応となります。
大人(大学生以上)→その人次第。話にならない人とはもとより接点がない。
中高生→基本的に求めない。手続き上必要な場合は最小限のルールを共有。
例)ノート提出……指定範囲全揃い、板書未満の記述量なら減点 など
小学生→書くことを推奨(強制はしない)。ただし約束破り(忘れ物、伝達ミス、紛失など)が続く場合は解決方法を本人に決めさせ、保護者と共有。
小学生にこの方法は……と思う向きもあると考えられるが、大多数は「とりあえず書く」ことは基本的にするので、書こうとしない場合は「書くのが面倒くさい」「覚えている自信がある(根拠はない)」「別の理由(いじめ・親のイデオロギー・連絡帳やノートを忘れたorなくした など)」という、書かせたところで成果が期待できないケースが大半。こういう向きが書くようになる契機は、その本人が書くことの有効性を体得したときからしか生まれません。
書かせることの合理性が確立したら、この考えはもう少し変わるかもしれませんが、現業に関わって以来ン十年、実はずっとこの部分は変わらずここまで来ています。さて、今後はどのような展開になるのでしょうか?
それでは次回の投稿まで、ごきげんよう。