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【百線一抄】047■あとひろあがくれさかやの安芸めぐり-呉線

夜行列車が全国の幹線はもとより、地方都市間を結ぶ列車も西へ東
へと疾駆していた頃、本線をひたすら突き進む列車の中に数本、進
む路線を支線に振って途中の都市の利便を図る列車があった。いい
具合の時間帯に沿線の都市を通る列車は、東京や大阪を直結するフ
ラッグシップに相応しい威容を誇るものもあったといわれている。

私設鉄道の拡張とともに、戦略的にも海軍の要衝としての地位を掲
げる呉と、中国地方の中枢都市である広島を結ぶべく官設で建設さ
れたのが呉線のはしりとなる。開業後ほどなく幹線の山陽鉄道によ
る運営となるが、1906年の鉄道国有化により再び官営に戻る。
やがて東側の三原から延伸を進めてきた三呉線が広駅でつながり、
道中にセノハチ越えという急勾配区間を抱えている山陽本線とは別
の直通路線が成立、現在の呉線となったのは1935年であった。

早速、東京と下関を結ぶ急行列車が呉線を経由するようになり、軍
備が解除となった戦後は一時的に直通列車が消滅はするが、優等列
車の全国的な復活の先陣を切るかの如く、急行列車だけでなく、準
急列車の設定も大阪発着で新たに始まり、こちらの列車も急行列車
に格上げとなった。夜行の一部は寝台専用列車にまで大成長した。

非電化だった時代は大型のSLが急行列車を牽引する数少ない線区
として話題になったが、電化後は山陽新幹線の延伸とともに直通急
行の数は減っていった。最後まで残った1往復は寝台特急としてよ
そおいを改めたが、わずか3年半で姿を消した。それ以後は快速の
みが速達列車として設定されているが、時期によっては快速すら消
えたこともある。現在は広島と呉や広を結ぶ快速と普通が本数を重
ね、広と三原の間はワンマン列車が海辺を往来する区間となった。

在りし日の栄華は一部の駅に残る長いホームで偲べるが、沿線で至
近に瀬戸内海を眺められる優越は、並行して内陸を走る山陽本線に
はない感動を旅人に呼び起こす。途上の駅名も波・海・浜・浦と引
きも切らないさんずい三昧。呉から東に少し進んだ仁方駅からは、
仁堀航路が連絡船として細い道をつないでいた。幾度の災害にも負
けず、常に総力を以て早期復活する呉線の地位は、正に沿線住民の
利用あって面目が立つ。安芸路の旅は、沿海にこそ陽があるのだ。

それでは次回の投稿まで、ごきげんよう。

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