【百線一抄】037■まちののびしろをバスがつなぐ―気仙沼線
昭和も後半に入り「もはや戦後ではない」と言われた頃に気仙沼か
ら産声を上げたローカル線がある。石巻線の前谷地と気仙沼の間を
つなぐ、気仙沼線である。鉄道未踏の地であった三陸沿岸各地を経
由する路線計画があちこちで立ち上がるが、内陸と沿岸を結ぶ路線
に対して、リアス海岸をなぞる路線の建設は遅々と進まなかった。
かねてからの敷設については昭和初期に推進する流れができたが、
全国的な趨勢は戦争に傾いて、鉄道省による建設工事は中断と再開
の繰り返しであった。これまでも地震と津波による被害は大きく、
復興の推進にも役立てるべく政府に要請を出してきた地域であり、
近隣の町村同士による結束は、経路策定での誘致運動などを通じて
次第に深まっていった。戦後は直ちに工事再開を求めて請願陳情を
繰り広げたが、幹線の復興を優先したため再開へは時間を要した。
熱い想いがかたちとなったのは1957年。気仙沼から本吉の間に
汽車が走り始めた。続いて前谷地と本吉を結ぶ区間の調査と工事へ
乗り出すことになるが、リアス海岸近くの区間は極めて厳しい地形
の中での工事となるため、比較的地形が穏当な前谷地から柳津まで
は先行させて開業にこぎつけ、柳津線として営業運転を開始した。
ついに全線開通となったのが1977年で、この頃にはすでに見限
られた未成線や廃線となる路線が各地にあったが、空白地域をつら
ぬく三陸南部の新線は厳しい経営状況にある中で健闘した。再建の
基準に照らした場合でも利用客の状況から廃止路線リストに入るこ
となく、JRに継承された。国鉄最後のダイヤ改正から仙台を直接
目指す快速列車が設定され、後に快速「南三陸」として仙台と気仙
沼を2時間ほどで結ぶようになった。そして大きな転機が訪れる。
大半の沿岸部で線路や橋梁、駅施設などが被災した気仙沼線では、
前谷地-柳津間を残してBRTに転換がすすめられた。被災地域の
造成が進むとともに線路跡の専用道化や駅・停留所の新設・移設も
地域ごとにすすめられた。運行本数は大幅に増えて、路線をまたぐ
利用客の便も踏まえて他線に直通する系統も設定されている。運行
形態は変化したが、青春18きっぷなどの企画乗車券でも利用でき
る。震災を乗り越え、現在進行形の路線として今後も注目である。
それでは次回の投稿まで、ごきげんよう。
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