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サマヨエ

はっちーびーのnoteは駄作ばかりだ。読んでも彼の知見の深さや、文語能力の高さを伺える一方で、彼の面白みの少ない、平坦で何もない荒野を歩き続ける人生が透けて見えるのが嫌だ。

人間の想像の限界というのは、意外と狭いというのが私の意見だ。人間は見たり聞いた事でしか、想像することはできない。
考えてほしい。
目の前で老人が転んでいるのを見たら、多くの日本人は駆け寄って助けるだろう。しかしながら、とあるアジアのスラムで今現在死んでいくだろう栄養失調の子供に思いを馳せ、援助を差しのべるであろう人間はごくわずかなのである。
これは人間の想像の限界が、見える範囲聞こえる範囲かんじる範囲であることを示している。

最近は私はラノベを読んでいる。どれも文学的には駄作ばかりだ。
理由は明らかである。
ラノベは想像の中の異世界の様子を描くが、どれもチープと言うべきか、色味の少ない世界を描き出している。もちろん、読み手はこれを望んでいる事を私は知っている。
精密な世界を描くよりもデフォルメされている方が圧倒的に読みやすいし、無駄に考えずに済むからだ。
逆に精密な異世界を描こうとすれば、誰も知らない世界のことだから、著者と読者の間に想像の差異が生じ、読者は混乱するに違いない。

はっちーびーのnoteの話に戻ろう。彼のnoteが駄作なのは、描写はかなりリアルに近い精密さなのに、感情がチープに描かれすぎているからだ。
彼のnoteは自分の「どう思った」気持ちは詳しく書かれているのに、他の人物の気持ちが無視されがちである。もっとも、これは私のnoteにも言える弱点でもある。
私の文章も、やはり「想像の限界」と言える、自分の知覚できる範囲を越えての感情が不足している。
はっちーびーと私の違いは、自分の限界点に気付き、自分の能力を適切に評価できるかどうかにすぎない。

他人のnoteを読むと、やはりこういう弱点に気づいてしまうと同時に自分のnoteの弱点にも気づくことは、ネガティブ思考を強く持つ私の特長でもある。

何度も公言するが、私の文章というのはゴミだ。チラシの裏にびっしり書かれた乱文にすぎない。
それをいくら読んでも、駄文にすぎないのは当たり前だ。
また、同じレベルの文章を私自身が読んでも「駄文」である。
 
はっちーびーの弱点は、改めてここにあると気づく。私の文章を読んで私のように書いたとしても、あるいは他の人の記事を読んで書いたとしても、駄文から駄文を生産しているに過ぎないことを気づくべきなのだ。

インターネットに文章を載せる人にも警告するが、インターネットにある文章を読んで、適当に書いて「ブロガー」「小説家」を名乗るのはいかがなものか。
真の文豪は書物を死ぬほど読んで学ぶものであり、チラシの裏をいくら読んでもそれを越えることは絶対にできないと私は思うのだ。

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玉虫ですよ!
インターネットを渡り歩いてまだ6年、色々なカテゴリを楽しみ、「消費者」として生きています。 そんな文化の消費者の毎日思ったことアレコレを書いていきます。雑記。