日常の行為の中でする瞑想――超作(ちょうさく)という名の瞑想行1:ポンチ井の頭
こんにちは、note担当のAMです。
今回は、玉光神社の教えの一つである「超作」についての、
ポンチ井の頭さんの思索の第1回目です。
10回以上にわたる壮大なシリーズとなりそうです。
玉光神社初代宮司・本山博が打ち立てた神学の中で特に重要なものの一つに「超作(ちょうさく)」がある。
超作という言葉自体は『バガバッド・ギータ』の訳者辻直四郎がカルマ・ヨガにおける、行為を超越した行為のことを超作と訳したことが始まりではあるが、本山博のいう超作は、バガバッド・ギータのそれと似てはいるものの、実はまったく異なり、氏が初めて世に出した、行為を通した独自の修行論である。
最初の一段落目の内容は、バガバッド・ギータでいう元々の超作に近い部分と推察されるが、二段落目以降が本山のいう超作の真骨頂である。
つまり、人の役に立つこと(愛、倫理性)・智慧が根底にあり、それが社会性へと繋がるということである。
バガバッド・ギータでの超作だけでは、単に高い次元に進むための準備段階に過ぎず、例えばその段階の状態は筋トレして、筋肉が身体に付いて来て、基礎的な力が付いただけの状態なのであり、実はその力をどう使うか、動機付けが重要であると説いている。
最近スポーツの世界でも、ランナーズハイやゾーンなど、運動においてある特殊な境地に達すると信じられないパフォーマンスが発揮されるということが言われているが、これもここでいう第一段階の境地の一つであろうと私は考えている。
超作は、その行為の動機や背景に人のためという倫理性と智慧がないといけないということである。
本山博は、別の著書でも少し違った言葉で超作を説明している。
むしろ、超作をすることによって神の力と愛を感得し、魂に目覚めるとある。
それによって社会性に繋がるのである。
では、それが満たされたら一体何が起こるのであろうか。
次回へ続く