宗教団体は「出入り自由」であるべきか(あるいはディズニー映画『マイ・エレメント』の感想):AM
こんにちは。note担当のAMです。
少し前になりますが、玉光神社も加盟する新日本宗教団体連合会(新宗連)が、2023年8月1日に理事長メッセージを発表しました。
その骨子は「信じたくない宗教は信じなくていい」ということです。
新宗連の石倉寿一理事長は、この中で、
「信仰とは強制されるべきではない」
「〔宗教は〕出入り自由なものである」と訴えています。
「入り」は自由ではない?
ところが、玉光神社でこのメッセージについて職員や信者に伝えたところ、
「出るのは自由であるべきだけど、入りまで自由にしてしまうのはどうか」
という意見がチラホラありました。
ここでの「出入り自由」は、
主に「入会・退会」「入信・脱退」のことを指していますが、
確かに、多くの宗教団体では、
入る(入信、入会する)に際して何らかの制限を設けています。
キリスト教の多くの宗派が入信のためには「洗礼」が必要だとしていますし、仏教でも「得度」という仏門に入るための儀式があります。
玉光神社だって、特別な儀式はありませんが、
入会申込をしたり、入会費を払ったり、諸々手続きがあります。
自由を重んじてはいますが、神様を敬ってくれない人や、
他の人の信仰を蔑ろにする人が入ってくるのは玉光神社でも困ります。
こう考えると、「入り」は自由ではない、という結論に至りそうです。
しかし、(きっと)新宗連理事長が言いたかったことは、
「出入り」の決断をするのは個人であり、個人の決断は自由であるべきだ、ということだと私は思います。
「信仰は強制されるべきではない」ということは、
「どこかの教団に入れと強制されることはない」という意味です。
つまりここでの「出入り自由」とは、
あくまでも、宗教団体に入ったり、出たりする決断は、個々人が自由にできるし、個々人がするべきだ、ということです。
(個人の決断の自由と、実際に自分が望んだ宗教団体に入れるかは別の話です。しかし、出ることを拒んではいけないと神社では考えていますが。)
ただ、個人の決断する自由が重要だとして、何をもってして「自由」なのかは難しいところです。
『マイ・エレメント』に見る「自由」
そんなことをなんとなく考えていたときに、ディズニー・ピクサー映画『マイ・エレメント』という作品を見ました。
【以下若干ネタバレになるので、未鑑賞の方はお気をつけください。】
この映画の舞台は、火・水・風・木という四つのエレメント(要素)が人間のように住む世界で、
その各エレメントたちはそれぞれの町を形成して、生活をしています。
主人公である、火のエンバーは、父親が経営する雑貨屋を受け継ぐことを自らの夢とし、毎日店の手伝いをしています。
しかし、エンバーは怒りっぽく、やっかいな客に対してうまく対応することができず、年老いた父親からなかなか経営をまかせてもらえません。
そんなときに水のウェイドと会ったエンバーは、「怒りっぽい」のは雑貨屋経営をしたくないからだと気づきます。
雑貨屋の経営はあくまでも「父の夢」なのであって、「自分の夢」でなかったのです。
エンバーは(そして鑑賞している私たちも)、作品の途中までエンバーが雑貨屋の経営を嫌がっているとは思っていません。
むしろ喜んでやっているように見えます。
しかし、ウェイドによって他の道が示されてはじめて、エンバーは「自分の夢」をもつ可能性を知ります。
そこで、見ている私たちも、エンバー自身も、エンバーの夢が雑貨屋の経営ではなかった(むしろ嫌だった)ことに驚きます。
エンバー自身も、傍から見ている私たちも、エンバーの雑貨屋経営の「夢」は、エンバー自身が喜んで「自由」に決断したことだと思っていましたが、しかし、実際には、
他の道が示されていなかったこと、
父親による大きなプレッシャーがあったこと、
こうしたことがエンバーに雑貨屋経営という「夢」を抱かせていたことを知るわけです。
しかし、父親に強制した自覚はないですし、エンバー自身も強制されたとは感じていないように見受けられます。
ここが難しいところです。
「自由」であると思っていても、あるいは「強制」されていない/していないと思っていても、本当に「自由」に決断できているとは限らない、と気付かされます。
信仰は自由に選べる?
信仰だってそうです。
自由に選んでいるように見えて、単に他の宗教団体に入信する(あるいはどこにも入信しない)という可能性を知らない(思いつかない)だけかもしれません。
あるいは、親からの期待や願いの故に入信しているのかもしれません。
信仰がなくても一緒です。
信仰がないことを当たり前と教育されていれば、
「宗教に入る」という選択肢は思い浮かびません。
逆に、「宗教に入る」ことを親が反対することもあるでしょう。
親の期待や願いの故に、信仰していないこともあるかもしれません。
宗教的であれ、非宗教的であれ、こうした親から子への思想的教育において
子どもに「自由」があるのか、と言われると難しいところです。
それが悪いのか、と言われると、そうでもないような気もします。
なぜなら教育は必要ですし、
親としては、子どもの幸せを願うからこそ、
信仰させたり、させなかったりするからです。
「願い」と「呪い」
ただ、子どもの幸せを願うことは尊重されるべきですが、
「それは願いなんかじゃない、呪いだ」という『ガンダムUC』のセリフの通り、親の子への「願い」(誰かの他の誰かへの「願い」)は「呪い」(強制)になりやすいとは思います。
エンバーの場合、その「呪い」は親からの分かりやすい強制ではなく、
子どもの自己規制という分かりにくい形ででてきていました。
話は変わりますが、
妻は時々、私を「いい夫」と褒めます(本当です)。
それを真に受け、私は喜びます。
そして、私は喜んで、妻が思う「いい夫」であろうと努力します。
「いい夫」であろうと振る舞いに気を付けます。
もちろん、時には「悪い夫」になることもあります。
飲み過ぎたり、不貞腐れたり、いらぬことを言ったり。
しかし、もし「いい夫」であることが最も重要なことになり、
常に「いい夫」を演じ始め、そのためにお酒を一滴も飲まなくなり、
妻の顔色を常に窺っているのだとすれば、
それはまさに「呪われている」と言えるでしょう。
(今も若干、そうなっているような気もしないではないですが……)
「呪い」の怖さはここにあります。
「自由」を自ら手放してしまい、それが自発的になされたことだと、
喜んでなされたことだと、自分も周りも思っているのですから。
それに、相手が認め、褒めてくれる行動をする方が、
自分で考えて行動するよりも楽ということもあります。
「自由」とは斯くも面倒なものです。
「マインド・コントロール」の議論が難しい(白黒分けられない)のも、
この辺りに原因がありそうです。
結論は特にありませんが、
宗教団体への出入りは、個人の決断レベルでは自由であるべきですが、
映画『マイ・エレメント』を見て、
信仰するにせよ、しないにせよ、自由に選択する、選択させるって、
簡単なことではないんだなとあらためて思った、という話でした。