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神と共に―日々の生活の中で神のところに自分をおいて―:M.F

毎日の生活の中で、静かにお祈りをしているときには少し心が落ち着くのですが、様々な活動をはじめると、心がコロコロとあっちへ向いたり、こっちへ向いたり。
特に子供に対してがなかなか難しい。
神様のところに自分をおいて、話したり行動しようと思うのですが、子供のことになるとどうしても感情が先に立って、怒ったり悲しんだり心配になったりと・・特に心配が大きいですね。
子供はもう二十歳、大人です。
大学に入ると、一気に開放的になり、もう私は置いていかれてついていけません。
うるさく言えばうるさく言うほど、よくないことはわかっているのですが、ついつい言いたくなってしまうのです。
子供には持病があるので、大丈夫だろうかという不安、恐怖心がいつも付きまといます。
この恐怖心というものを超えることは本当に大変です。
負の心の根源はこの恐怖心にあるのかもしれません。

子離れできていない自分、神様を信じきれない自分がいるようで、とても反省させられます。一番愛する子供なのに、でも一番愛しているからこそ、逆に執着してしまい出来ないのかもしれません。
それはもう愛ではなく、ただの執着なのかもしれませんが・・
こうあってほしい、こうしなければいけないという思いが強くなり、神様のような愛で信じて見守っていくことはなかなか難しいです。

ただ以前、自分にちょっとした悩みがあって、子供に相談してみることにしたのです。
子供に相談したのは初めてのことでした。なんとなく恥ずかしいですから。
でも子供はとても親身になって、親友のようにじっくり私の話を聞いてくれて、見事に適格なアドバイスをしてくれました。
「お母さん、いつもこういうふうに話してくれたら、私だってちゃんと話すんだよ」などと逆にたしなめられ、もう本当に大人になったんだなと思うと同時に、親としてはりつめてきた糸がゆっくりほぐれていくような気もしました。
親子ではありますが、人間同士、女同志、友達同士として心から語り合える人がこんなに近くにいたとは、とても心強く頼もしく感じます。

子供と向き合う時に、自分からも子供からも離れ、心を、二人をつなぐ神様のところにおくと、感情からスッと離れられて、怒りや不安も自然とおさまり穏やかな気持ちになれる時もあります。
すると子供も不思議と素直になって、自然と心も通じ合い、共に良い方向に進んでいけるように思います。
なかなかいつもそこに自分を置いておくことは難しいですが、自分でも子供でもない神の場所、そして自分でも子供でもある神の場所にいつもいられるように、そしてその場所に自分を置いて行動することが、私にとって最も大切なことだと思っています。

お祈りと同じように、普段の生活の行いの中でも、今日も神と共に、明日も神と共にと、心を神様のところにおいて、これからの日々を歩んでいけたらと思っています。