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御神言「花は向こうに持たせよ。自分が持つと手が疲れる。花は人に持たせよ。そしてこちらから眺めておれ。」について考える。:ハチドリ

 『玉光神社教祖自叙伝』(本山キヌエ著、1984年、宗教心理出版)に残された御神言(教祖・本山キヌエの口を通して示された玉光大神様のお言葉)は、すべてが奥深く、人間や世界に対する深い洞察とお諭しがあって、心の深部に沁みてきます。教祖のおかげで『玉光神社教祖自叙傳』が残っていることが世界にとって奇跡的な幸せです。
 信者や教祖の人生のある場面において発せられた1つ1つの個別具体的な御神言は、その「時」と「場所」と「人」の条件のもとで発せられた唯一無二のものですから、前後の文脈、「今ここ」というリアルを無視して、切り取ってイデオロギーのように振りかざすとおかしなことになると思われます。しかし、凡人にとっては教祖の記述をもとに理解を深める必要はあると思います。以下は私なりの感想を示すだけのものです。

 大神様は「花は向こうに持たせよ。自分が持つと手が疲れる。花は人に持たせよ。そしてこちらから眺めておれ。」(『玉光神社教祖自叙傳』217頁)とおっしゃった。
 私がこの御神言を『玉光神社教祖自叙伝』ではじめて読んだときの一番の感想は、「さすがに神様!」の一言であった。
 大神様のもとへお参りの方がふえてきた時に、妬み心を起こした他の宗教者(お不動さんを祀っている)が、「自分の祈りのために信者がよくなる」と功を誇っているのを聞いて、大神様のおかげであることを知っている若い教祖が憤慨した場面での御神言である。(『玉光神社教祖自叙傳』217頁)
 はじめの「花は向こうに持たせよ。」は相手の宗教者の手柄にしておけばいいよと慰めたしなめていますが、後の部分の「花は人にもたせよ」は生き方としてのお諭しになっているように思います。
 「花をもたせる」という慣用句は、日本語としては、少し上から目線のニュアンスがともなっている。結果のおいしい部分は、まだ未熟な若い君に渡して、世間の脚光を浴びるようにしてあげるけれど、こうして功をゆずるのが大人の自分なのだというような。
 ここではそのニュアンスは少し薄いですが、本当は自分が行なったことなのに、人が自分のおかげだと吹聴しているのを聞くと憤慨する気持ちというのは、ずるい人に対する正義感の発動ともいえるが、世間や他者の賞讃がこちらにもたらされるはずなのに、相手の利己心によって、けなされたと思って憤慨するというような、やはり自分に関する感情といえるでしょうか。
 はたしてその憤慨とはなんでしょうか。
 その行為による結果を、賞讃を、求めていたから腹が立つというよりは、教祖は結果を求めていたわけではないと思いますが、相手が自分の功を誇って吹聴するという攻撃を受けたので、腹が立つということでしょうか。
 相手の妬み心を見抜いて、相手にしないで、憤慨しないで、平静でいればいい、功をゆずって言わせておけばいいということでしょうか。
 人はみな花は自分で持ちたがる。だから人の功でも自分のものにして誇るような人も多いわけです。
 しかし、一方で、地下水のように見えないところで、人や社会や全体を支えている「縁の下の力持ち」は沢山いらっしゃる。神様はそういう生き方を愛でていらっしゃる。それが「花は人にもたせよ。」というお言葉ではないだろうかと思われる。
 「自分が持つと手が疲れる」とは何というお言葉でしょうか。
 華々しい目立つ世界は、そのための無理や嘘が伴ってくる。結果を求めているから、見栄や外聞を維持するための余計な労力がいる。それが手が疲れるということでしょうか。
 全体が成り立つように役割を果たす。表舞台に出なくとも、全体が成り立つための裏方という役割に徹する。あるいは裏も表もともに全体が成り立ち、成就するための役割であるから、その働きがなかったら、全体に調和が生まれず、成果もない。その働き役割をそれぞれが果たし、それぞれの働きが一致してはじめて、自他ともに花を享受できる。花という表のものを求めて、結果を求めて、それを基準に生きるのではなく、全体が成り立つようにという生き方(個から場所へ)をお諭しになっているのではないでしょうか。
 「こちらから眺めておれ」と御神言は終わる。
 形になり、花として成就したことを陰ながら喜んでおれと。
 陰徳という言葉がありますが、「陰徳を積め」という教えにも聞こえます。目立たない部分でフォローをするという働きで全体を成り立たせる生き方をしなさいと。
 現宮司・本山一博の「超作」の定義「他者を生かす行為になりきる」。あるいは「成長とは「個から場所」になること」という言葉とも合致していますから、「人に花をもたせる」とは「超作」のことを言っているようにも感じます。
 いずれにしろ、神様は花がよくないと言っているわけではなくて、花をめざすのだが、花という結果を自分のものにするのではなく、全体が成り立つように、役割に徹して本務を尽くす。陰で支える行為生き方を教えてくださっている御神言だと思います。
 初代宮司・本山博は「神様はいつも陰で支えてくださっていて、助けてくださっているけれど、「我が助けた」とかはおっしゃらず、お返しなどは求めないのです。」と言っています。
 「今ここ」という個別具体的な場面で全体が成り立つための行為を「己をたてずに」(『玉光神社教祖自叙傳』244頁)、平静に行い、「人に花をもたせる」ことができたら、私も一歩、「神の愛」の理解に近づいたと言えるかもしれない。