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日常の行為の中でする瞑想――超作(ちょうさく)という名の瞑想行4:ポンチ井の頭

前回、仮説1を進めると予告したが、その前に、超作の対象は何か、何をすれば超作し易いのか、ということについて紹介する。

 ですから、神様のつくられた宇宙の進化の流れの中であなたにできる仕事というのも、やはり或る程度決まっているわけです。或る程度、自分で決めてしまっているわけです。 

 したがって、誰にでも、前生からの自分の行為によって自分自身で決めた能力なり、身体なり、好みなりに合った仕事というものがある。その仕事を、一生懸命にすることが大事なのです。

本山博『愛と超作:神様の真似をして生きる』宗教心理出版、1996年、第6章70(171~172頁)

 自分がする仕事というのは、何でもできるかというと、そうはいかないですね。自分に合った仕事、自分の好みや能力に合った仕事しかできない。そしてその自分の好みや能力は、先に言ったように、自分の前生からの行為によって、自分で決めたものなのです。しかし、その自分で決めた能力や好み、身体というものをくるめた自分全体を支えて下さっているのは、神様ですね。

 ですから、自分が自分の前生からの行為によって自分で決めた能力や好みによって自分で仕事をしていると思っていても、実際には、神様が力を下さっているからそういう仕事ができているわけですね。

  だから仕事をするとき、あるいは行為をする時に、自分のためだけにするというのでなく、超作ができれば、そこに神様のお力がもっと加わって、その仕事を通して、人の役に立つ形でいろいろなことが成就できると思うのです。いま自分がしている仕事そのものは、また変わることがあっても、現在している仕事について超作ができれば、それを通してカルマを果たすことができるし、霊的な成長もできる。それ以外にはないように思います。

同上、第6章72(175~176頁)

超作の対象は、まずは自分の仕事であると本山博は述べている。その理由は、自分で前世からの関りで決めたのが今の仕事だから、自分には合っているし、一生懸命できるし、カルマを果たすことができるし、魂の成長もできるということ。

次回は、いよいよ仮説1の考察を開始する。