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築山節さん提案の「脳を築くノート」のすすめー私の超作(ちょうさく)日誌について:ハチドリ

 脳神経外科医の築山節さんの脳に関する本(NHK出版生活人新書等)も昔からよく読ませていただいた。築山さんは「脳を築くノート」を提案していて、築山さん自作の「築山式ノート」も一部市販している(築山節『脳を守る、たった1つの習慣:感情・体調をコントロールする』2018年、NNHK出版新書、152頁~189頁)。

 一種の「脳トレ」ノートなのだが、私はそれをカスタマイズして、最近は自分用の日誌をつけはじめている。

 いろんな人が日記を推奨しているので、今までにもいろいろな日記帳を買ってきて、書いてみたが、今までうまく続いたためしがない。

 築山さんは続けるコツとして、1,ごく短い時間に区切って始める。2,やるべきことが最初から明確に決まっている。3,書く時間や場所を最初から決める。の3つを提案している(上掲書、155頁~156頁)。この教えに沿って、「築山式ノート」を健康管理と脳のためのエクササイズと思ってやりはじめたら、意外と今までよりは続く。日記というより日誌というつもりで、ゆるいルールで始めたら、なんとか細々でも続いている。

 築山さんは「最低でも日付や天気・気温など、記録に残せるものは残しておきましょう。」と言っていて、「『この日は空欄が多いな、忘れた日だな』とノートを書き忘れたことを目に見える形にするのも、とても大切なことなのです。」とおっしゃている(上掲書、182頁)。この教えが効いている。書かねばならないと思うとストレスになってよろしくない。朝か夜に、全部でなくても何か書くくらいにしている。

 本家の「築山式ノート」は1回購入したのみで終わって、そのうち自分なりにカスタマイズして、普通の市販のA4のノートをそのまま、自分の日誌にした。

 カスタマイズとは、玉光神社の教えである「超作(ちょうさく)」をしたか振り返って記入する欄を設けて使うことにしたことをいう。

 「超作」については、玉光神社一番の教えといわれているのだが、奥深くてわかりにくいのが実情である。玉光神社初代宮司・本山博がいう「個人と社会のつながりを統合するような境地」(本山博『愛と超作:神様の真似をして生きる』1996年、宗教心理出版、5頁)というのが難しい。この当社のnoteブログでもポンチ井の頭さんが、超作に関する考察をしているが、神様にも初代宮司にも「超作しろ」、「超作しろ」と言われているのに、このままでは超作しないで人生終わってしまう。

 玉光大神様の1985年の年頭の御神言は「一日に1つでもよい、短い時間でもよいから、超作をするように。」である。

 本山博も「超作を一日に1つ、10分でも、あるいは1分でもいいからしてほしい。自分の仕事を一生懸命にする、その時に、その仕事を自分が自分のためにしているとか、会社のためにしているとか、家族のためにしているというように、自分が何かのためにしているというのではなく、ただすることだけになりきれるように心がける。それは言わば、自分とか、会社とか、家族とかという殻を全部捨てた動作なのですから、結局それは神様のお働きと同じ働きになるのです。こういうことが、一日にひと時、一事についてでいいからできるようにしてください。」と述べている(本山博『啓示された人類のゆくえ』第1巻、1993年、宗教心理出版、145頁)。

 まぁ、そういうわけで、築山先生の「脳を築くノート」をカスタマイズした私の「超作日誌」をつくって書いている。

 しかし、特別なものではない。A4ノートを買ってきて、ページを縦に半分に折って、左側は築山先生の「脳を築くノート」の仕様にしたがって、日付、曜日、天気、最高気温、体重、血圧、朝食、昼食、夕食、その日のTODO、音読、外出、コミュニケ―ションをしたかどうか、運動したかどうか等の項目を記入する。

 右側の残り半分のページは上下に分けて、上には「外の世界のメモ」。その日の世界や日本の、いわば外部の出来事やニュースに接してのコメントを数行書く。下の欄には「自分のためのメモ」。アイデアやひらめき、気付きなど、自分の内面にきざした想いを中心に短く書くというしくみである。この部分が従来のイメージの日記だろう。先生の教えに従って、もちろん右側の日記なしの日もある。逆に左側の日誌なしの日もある。

 そしてそのページの右半分の下の最後の行に、今日の超作度数を、本山博の言うように「行為になりきる」「するだけになる」ことができたか、現宮司・本山一博の超作の定義のように「他者を活かす行為になりきる」ことができたかを、5段階評価で記入するだけである。主観的な絶対評価ではあるが・・・。数字ではなく短い文にするときもある。1分でも、10分でも行為になりきることができたか、自分がなくなったかを振り返ることを通して、超作に近づくのではないだろうかという考えからである。

 こうして記録していると、ただ過ぎ去っていく一日の貴重さに、改めて気づかされる。最近、佐藤舞『あっという間に人は死ぬから :「時間を食べつくすモンスター」の正体と倒し方』(2024年、KADOKAWA)という本を読んだせいもある。この本についての感想はまたの機会にするとして、少し日誌を書いてみると、人との縁、出来事との縁は、本当に一期一会だという人生の真実が沁みて来るという感じである。

 私の玉光神社入信当時、先輩信者さんから、「人との縁はこちらから切ってはいけない」と聞いた。それがどんな意味があるのかの説明は受けなかった気がする。もっと突っ込んで聞いておけばよかったと思うが。

 今、勝手に思うには、人は成長を目的として再生してくるという玉光神社の世界観から考えれば、人生で出会う人は、すべて何らかの縁があって出会っていることになるから、出会った人との縁を成就させることが、最重要になる。自然とフェードアウトしていく人との関係は別として、自ら関係を断つことはカルマを解く必要があって出会っている、あるいは出会わせていただいている神様のお手配を無視して、人とのカルマを成就せず、先送りし、新たなカルマを築くことになるということではないのだろうか。

 縁(良縁も悪縁も)を意識すると、人間関係が粗雑にならない気がする。その縁も、小さな縁を大切にして、前回ブログで述べた武部貴則さんの言葉のように緩やかに保っていることが大事なようである。

 同じことが上記の『あっという間に人は死ぬから』の275頁にアメリカの社会学者マーク・グラノヴェッターが発表した社会的ネットワークに関する「弱い紐帯の強み」という仮説の紹介で書いてある。

強い結びつきは「親密な関係や緊密なコミュニケーションを持つ人々とのつながり」を指し、弱い結びつきは、「あまり親密でない関係や疎遠なコミュニケーションを持つ人々とのつながり」をさします。グラノヴェッターの仮説では、強い結びつきは、主に情報や感情の支援を提供する役割を果たし、社会的な安定性やアイデンティティ形成に重要です。一方で、弱い結びつきは、情報の交換や新しい機会の発見において特に重要な役割を果たすとされています。要は、新しいチャンスは、家族や親しい友人や同僚などの、強い結びつきよりも、人見知り〔原文ママ〕程度の弱い結びつきの人間関係からやってくる、ということです。

佐藤舞『あっという間に人は死ぬから :「時間を食べつくすモンスター」の正体と倒し方』
2024年、KADOKAWA、275頁

 弱い結びつきを持っていると、その緩やかなつながりの中に、壮大なネットワークから来るうねりのような連鎖が来たとき、そのウエーブに乗って連携することで、(それが超作になるのではないか?)、物事が成就していく方法であり、御神意を具現化することにつながるのではないだろうか。これはもしかして、上記の「人との縁はこちらから切ってはいけない」の答えとつながっているかもしれない。

 この世界に絶え間なく御神意が降り注いでいると思うかどうかは、それこそ信仰だと思うが、自分をなくしてしかも自然に、そのウエーブに乗ることが自利利他を成就するし、御神意が具現化していくことなのだという気がする。

 こうして自分の一日を、朝とか夜に、「メタ認知」する時間があるだけで、一種の「瞑想タイム」と言ってもいいものになってくる。