強さとはなにか?
子どもが読む本ですが、テレビでも放映されており、大人にも重要な示唆を与える内容です。
強さや力を何に使うのか。
「悪さ」に使ってはいけないけど、「力」の使い方は本人次第。
すべての人が理解してますし、わかっているはずですが、うっかりや勘違い、正義なども、いろいろな形で、横行しています。
子どもの世界でも、「強さ」が心身に向かう暴力となり、「いじめ」として見える場合もあります。やられたらやりかえせ!と言っているうちに、単なるいじめっ子に育ってしまうかもしれません。
でも、毎回汚され、ぶたれ、奪われているとしたら、やられっぱなしから脱却するために「強さ」を求めます。無我夢中で、怖い、いやな環境から脱する方法を探します。大人がいれば何とかなるかもしれませんが、我慢強い子ども一人では無理。それが、やさしく、人のことを考える子であればなおさらです。
「強さ」を持った優しい人となることを期待しますが、「優しさ」が強いと、我慢強く、つらい人生を送るようになってしまうかもしれません。
つらい、苦しいと思ったら、まず「強い」自分を想像し、なりきる。そして、次は周りにとっての「優しい人」を目指せればいいかな。
一方、大人の世界でも「権力」や「ハラスメント」として行使されている場合もあります。日大の話も政治家の話、旧体制の企業内でも、本当によくあることです。
権力者については、それを支える体制を壊すころができれば、「はだかの王様」が「はだか」であることが認識されるように、事実を認めあうことになります。
しかし、「はだかの王様」だったはずが、いつの間にかみんなその「王様」の奴隷みたいになり、文化となり、常識となり、何なら自分も「はだか」に従うみたいな話になります。今の政治家も中小企業の以前からの習わしを継承するところではよくある現象な気がします。
私はそうならない、と思っていても、若手から見ると、私もその一連になっているかも、、、コワイ。
ハラスメントにしても、どこからがハラスメントか、嫌がらせかという線引きをしてみたりするも、アメリカみたいにぴっちりうまくいかないのが日本の社会。曖昧が好きだし、年配の方はそもそも差別的なので、意識改革がむずかしくて、うまくいかないんです。「強い」人の声が大きすぎるというか。。。さらに、団体の性格によっては、「嫌です!」と言ったとしても、「冗談だと思った」と済まされてしまったり、空気を読まず「迷惑な人」「人間関係をうまく築けない人」と言われてしまったりするわけです。
そんなこんなで、ダイバーシティ、すべての人が生きやすい環境はどうやって作れるのか、悩んじゃったりするなか、結局は首長がきちんと理解して、改革という居心地の悪さを受け入れなくてはならないのです。
子どもの世界と企業の世界を考えると、つまり、子どものうちは強くて優しい人を目指し、大人になると、それに加えて、賢く上手く振舞わなければならない、ということになりますね。
大人って、たいへん。。。。