ジョーカーが君臨する国
日本のテレビ番組で週間紙の取材記者を元にした番組が人気を得たと言う記事を見た。プライバシーの侵害を犯してでも芸能人などの不倫ネタなどを追いかけていく。追われる、暴かれる側と追いかけ暴く側、そしてそれを面白おかしく傍観する側。この3つの構図が浮かび上がる。
悲惨な事件の取材も同じ構造である。
どこまで、「取材」と言う「暴く」行為は許されるのか?
「暴く側」の理念は「自由」なのである。「傍観する」理念も「自由」なのである。「暴かれる側」の理念も自由なのである。これを理解している人はどれだけ存在しているのか?
人間は「自由」を求める一方「倫理」を重んじる。この矛盾が存在しているお陰で、ワイドショーは永遠に続く。「他人のプライバシーは覗いてはいけない」「不倫もしてはいけない」これは倫理であり規律なのである。倫理、規律は問う「俺たちは邪魔か?」自由は答える「おまえが、おれを完璧なものにするんだ」倫理、規律という存在が恐怖、不安そしてストレスを人間に与え、結果人間は自由を求める。
3面記事などの「暴く」側に聞く。何故不倫ネタなどプライバシー侵害を犯してまで取材するのか?そこにネタが有るのに取材しない理由はない。視聴者、読者と言った要望がある。騒がれる事で売れるのが芸能人である。と言う答えが返って来る。
取材しない理由はない;山があるから登ると言う思考、仕事だからと言う思考、至って普通の事であり、取材してはいけないと言う事を規律にすべきか?誰がこれは良くてこれはダメだと判断できるのか?「人間、善悪は主観で決めている」
要望がある;視聴者、読者は他人の恥など観なければ良い。何故観るのか?それはプライバシー侵害と綺麗事言っているだけで、実際は覗き見したいのである。と言う現実。人間清流に住めず。不倫はダメと言われているが止めれない。騙しちゃいけないと言われるが、騙した方がいい時もある。「問題が起きればモラルなんて簡単に捨てるものだ」「善悪を主観で決めるのが人間だ」
芸能人は売名が商売;ネタの種類は別として騒がれる事で利益を得ている現実。詰まり芸能人も綺麗事じゃ飯が食えない現実がある。存在証明ができる。「今まで生きてきて、自分が存在しているのかも分からなかった。」「注目を浴びて初めて自分の存在が見えたよ」「他人をコケにして笑いを取るのがShowManなんだよ」
芸能人、暴かれる側は言います「Is it just me or is it getting crazier out there?」俺だけかよ、、、「世の中、結局みんな同じ事をやっているじゃねぇか」
ジョーカーは言う。「狂気とは重力みたいなもんだ、ちょっと押すだけで十分だ」
結局人間は善を求めて悪を楽しむ。他人の不幸は蜜の味。他人を虐めて快感を得る。自分が良ければそれで良い。それが人間と言う生き物だ。とジョーカーは叫ぶ。
そしてその「非道な人間」を管理するには「倫理」を要するとバットマンは言う。そしてその「倫理」における規律や決まり事が人間を追い込み、最悪は恐怖を生み出してく。
「Im an agent of chaos. Oh, and you know the thing about chaos? Its fair」カオスとは何か知っているか?それは公平性だよ
映画は暴力、殺人と言った極限を映し出しているが、今日の日本を見るが良い。マスクが無いと、トイレットペーパーがないと騒ぐ。公平性を保とうとした人間心理は「無くなる?」「もしかして自分だけが損をする?」と言う恐怖を生み出し店舗へとなだれ込んでいる。芸能人の不倫を喜び、蔑み、誰かの失言を鬼の首を取った様に責め立てる。
太字の台詞は全て映画バットマンシリーズのジョーカーのセリフ。
完璧なまでに日本はジョーカーが君臨しているゴッサムシティ。
倫理を失った国。倫理によって追い込まれ、不倫したいのに不倫できない、遊びたいのに遊べない、休みたいのに休めない、楽したいのに楽できない、我が儘も言いたいのに言えない。お互いに足の引っ張り合い、監視の仕合で「表向きの良い子」を演じてきた結果、ジョーカーが述べている世界へと変わった。倫理は正に国民を不安に落とし込み、カオス化となった日本は、ジョーカーが君臨している国である。
この先、悪化の一途を辿るのか?
バットマンが現れ倫理を取り戻すのか?
ジョーカーの笑い声が響いて来る。