責任の所在
モデルのトラウデン直美さんが、気候変動に関するフォーラムで「店員に『環境に配慮した商品ですか』と尋ねることで店側の意識も変わっていく」と発言したことがNHKで報じられ、ネット上で「店員に聞かれても困る」「面倒くさい客」などと批判が上がった。と言う記事をみた。
先ず思った点は、、、
モデルの方が発言した意図は、企業意識などを変えていく為の取り組みの発言でしょうから、意図的に「面倒」かける事に趣旨があります。それに対して「面倒臭い客だ」と反応するのは論点が幼稚と思います。非常に見ていてガッカリします。
同時に「店員の責任じゃないでしょ」という論点も、上記と同様に日本独特の思考だと感じます。
パート社員であれ、臨時社員であれ、一般社員であれ、その企業、その店に属して労働する以上、本来は全員に責任は存在します。
日本は「言われ仕事をすればいい」「言われた通りにしろ」という労働文化です。ましてや自社批判の議論は許されません。故に「責任の所在が有耶無耶」という文化があります。その文化によって利益を得ている労働者は無数にいます。
労働する側が、その企業に就職していいものか?自分の趣旨に合っているのか?企業ポリシーは同意できるのか?などと考えて就職する人は皆無でしょう。
同時に、企業も社員教育を重視してはいません。
「弊社で労働するにあたって、〇〇のように意識を持って労働してください」「弊社の倫理価値に沿って労働してください」と教育をしている企業は見たことがありません。建前上は形式的に研修をしているところもありますが、きちんと真剣に理念教育を日々繰り返している企業はほぼ皆無でしょう。
消費者も「この企業は〇〇の倫理企業だから、この企業の製品は買わない」「この店のポリシーはこうだから、このお店は使わない」という消費者もあまり聞いたことがありません。
日本は全て他人次第の文化です。故に同調圧力が強いなどと言っている方々も大勢おりますが、それは全て責任逃れにしか聞こえません。そのお店で働くと決めた個人責任、その言動をとった個人責任、学校の成績が下がった責任、業務で向上できない責任、殆どの個人責任は転嫁されて、企業が悪い、学校が悪い、相手が悪いと思考が張り巡らされております。
このような基盤は何度も書いておりますが「依存主義文化」があります。
依存主義の光は、互助、共に助け合い、苦労も喜びも共に分かち合いみんなで!という光を発します。まさに日本人が望んでいる社会です。
日本人が責任と呼んでいるのは、役割分担です。
世界が責任と呼んでいるのいは、権利の問題です。
そのような社会文化が基盤の国ですから、企業責任、個人責任なんてものは改善されるわけもなく。ましてや海外のように「個」の力が集まって社会を変えていくなんてムーブメントは稀有でしょう。
じわりじわりと時代が変化し、国民の過半数が一方に流れた時だけ、ムーブメントは生じます。なんだか分からないけど、みんなが言っているから、みんなが望んでいるから、そうやって日本の社会は右へ左へ舵を取って何千年と生きてきています。個々の多様性が活きる土壌は日本にはほぼないと言ってもいいくらいです。多様性が湧き上がれば全体主義、画一主義が崩れ収拾が付かないのが日本の土壌です。良くも悪くも「多数決」「画一主義」がメインの国日本なのです。
日本が環境問題で重い腰を上げるには、先ず世界の主要国が大きく変化を起こし行動も起こし、その後で世界から「日本もいい加減しろよ」という外部圧力が強まった時「ホラァ言われたじゃん」「だから前から言ってたじゃん」「やんなきゃねぇ」と変わっていくのです。黒船来航と全く同様の構造です。
日本が世界のリーダーになることは先ずあり得ません。リーダーになる必要も何処にもありませんが。
依存文化の責任所在が有耶無耶な土壌の国と国民。
依存主義の光を見出して生きているわけですから、依存主義の影は仕方がないのです。依存主義が悪いわけではありません。日本はそうだというだけのことです。そう言った文化的基盤を前提に議論がなされたら面白いのですが、個々の論破合戦を観ても全くつまらないと感じます。
多くの問題点を議論するとき、左右の論破合戦だけで建設的議論が生まれないのは、根底がずれているからです。日本国民は日本の歴史、文化、社会をきちんと認識して、かつ既存を単純否定するのではなく、既存の光と影を認識して、さらにその先の光と影を認識して、その上で建設的議論がなされたら面白いと思いますが、、、。
現状否定も大事ですが、現状がある背景、その利益、良さ、と言ったものを無視してはいけません。改善に於ける利益性を訴えるのも重要ですが、変化を起こすことだけの光に囚われず、変化におけるマイナス面、その又先のあるべき方向性を認識しながらお互いに大人の議論をしなければいけないでしょうね。
まぁ日本と言う国は、自律した自由主義者には暮らしにくい環境であることは確かです。
一方で団体に属し流れに身を任せ生きながらえていくには、暮らしやすい環境です。
自分という生き物を全面に押し出して生きていくのか?周囲と歩調を合わせながらそれなりに生きていくのか?この個人のスタンスで日本という環境が合うか合わないかが大きく左右されますね。リスク回避の善、光、が重んじられるのも自然の流れです。出る杭が打たれるのも自然の流れです。
日本が自ら先頭切って世界環境に寄与する事はないでしょう。目の前の河川を協力してきれいにする。目の前の道路を協力してきれいにする。そう言った事に長けている民族ですので、それを活かす方向性を打ち出していった方が日本には合うと思います。