人は人と出会うべきなのか
「というのも、各々は直接的に他者のうちに自分を知るからであり…しかもそれによって、各々が、他者もまた同じように彼の他者の内に自分を知るのだ」(ヘーゲル『イェーナ体系構想』法政大学出版局)
「臨場性」はなぜ必要か
コロナ禍の中で、心から消滅して欲しいと思ったのは「ハンコ」である。
大学が入構自粛になっているのに、ハンコを押すためだけに出勤することの徒労感。そういえばうちの大学では、会議からはほぼ完全に紙資料が駆逐されて、タブレットで会議資料を閲覧することになりはしたけれど、「ワープロで作成しプリントアウトした紙資料に押印したものをスキャンしてPDF化」という純和風デジタイズが横行しており、電子署名などまだまだ imagine the future の彼方——内輪ネタですみません——というありさまだ。というか、そもそも現政権におかれましてはIT担当大臣が日本はんこ議連議長を兼任、という漫画のような事態が容認されているので、もはや何をかいわんや、という話ではあるのだが。
われわれがこれほどまでにハンコの慣習を捨てられないのはなぜか。署名ほどの固有性もなく(三文判で済む)、本人が押したという確証もない(代理押印の横行)のに、紙という物質に朱肉で物理的痕跡を残し続けることの意味とは何なのか。もはや奇習と呼びたくなるのをこらえながら、「規則は規則」と自分をなだめすかしながら、私はハンコを押しに行く。ひょっとするとわれわれは、押印の主体がその場に立ち会ったとみなしうる痕跡を残す手間のほうを、個人認証以上に珍重しているのではないか。
それでは一体、「立ち会う」ことの価値とはなんだろうか。
人と人が出会うこと。その場に居合わせること。ライブであること。face-to-faceで話すこと。これらをさしあたり「臨場性」と呼ぼう。私がコロナ禍の渦中で目をこらしてきたのは、こうした「臨場性」の価値のゆくえについて、であった。
もちろんそれは「臨場性にはかけがえのない価値がある」、といった単純な話ではない。価値があると思われていたのに大した価値はなかったり、その逆のこともあるだろう。いままでさしたる根拠もなしに自明とみなされてきた「臨場性」の価値が、コロナ禍の中で、はじめて全世界的に問われつつある。これは精神医学ではなく、ほぼ完全に哲学のテーマだと思うのだが、寡聞にしてそうした議論はまだ見かけない。
過去のパンデミックにおいては、いまほどIT化が全面化しておらず、「臨場性」が問われることはほぼなかった。かつては「その場にいる/いない」の二者択一しかなかったわけで、だとすれば答えは「臨場がベスト」にしかならない。しかし現在の選択肢は「その場にいる/オンライン/いないし、つなげない」のように、最低3つだ。つまり「オンライン」という第三の選択肢が浮上してきたわけだ。ここで重要なことは、無条件で「その場にいる」>>「オンライン」とはならない、ということ。用件や作業内容によっては、オンラインのほうがベター、ということがありうる。コロナ禍の中で、そうした新しい価値基準が浮上してきたのだ。これが議論を複雑化する。
もっとも、一部の界隈で言われているような「ウィズコロナで社会は一気にリモートワークに移行」的な事態は予想以上に進まないだろう。それはIT化以降も、この社会では依然として、固定電話やFAXが重用され続けているという事実からも予測できる。和風デジタイズは、どこかで必ずアナログとのハイブリッドになるようだ。東京都が医療機関にFaxで感染者数や死者数等の情報を送らせそれを手作業で集計していると聞いた時は軽いめまいを覚えたものだが、単なる技術的な遅れ以上に、そこに「手作業の臨場性」への固執を見て取るのはうがち過ぎだろうか。
Twitter社などが一部社員には恒久的にリモートワークを認めることにしたようだが、それは社員の選択肢として容認した、ということであれば良いニュースだろう。しかし繰り返すが、そのような事態が全面化することはあり得ないし、その広がりは予想以上に小さい範囲に留まるだろう。社会はこれからも、あらゆる機会に臨場性を求め続けるはずだ。
臨場性はなぜ必要なのか。この議論はあまりにも哲学的であるため、ここで十分に展開するにはとてもスペースが足りない。しかし、さしあたり考えてみたことの、さわりのみ記しておこう。私の考えでは、臨場性が必要とされる理由は、以下の通り3つある。
① 臨場性は「暴力」である。
② 臨場性は「欲望」である。
③ 臨場性は「関係」である。
以下、それぞれについて説明しよう。
① 臨場性は暴力である。
暴力とは何か。ここでは哲学的文脈を優先して「他者に対する力の行使」をすべて暴力と呼ぶことにする。「力」にはもちろん物理的なものから心理的、形而上的なものまでが含まれる。それゆえすべての暴力が非合法とは限らないし、ある種の暴力は悪ですらない。実際、デモから革命に至るまで、ほとんどの正義は暴力的に実践される。国家が暴力(警察、軍隊)の管理装置であるという認識は社会学では常識に属するはずだ。
政治的な話がしたいわけではない。ここで私が述べた暴力の定義を採用するなら、社会の至るところに暴力がある。人と人が出会うこと、人々が集まること、膝を交えて話すこと。それらすべてが、どれほど平和的になされたとしても、そこには常にすでにミクロな暴力、ないし暴力の徴候がはらまれている。身体的・物理的な暴力はもちろん、その人の態度や言葉、表情にすら一切の攻撃性や暴力性がみあたらなかったとしても、そうなのである。
そういえば十二鬼月の上弦の参である猗窩座は「赤子ですら薄い闘気がある」のに背後に迫る炭治郎の闘気を感知できず驚愕するわけだが、本稿での「暴力」は、この「闘気」にほぼひとしい。「普通に生きること」のあらゆる瞬間に闘気=暴力が満ちている。この意味での暴力の否定は、ほとんど人間の否定にひとしい。
もしあなたが私のように、対人恐怖的ないし発達障害的な認知特性を持っているのなら、このことはたやすく理解できるはずだ。他人と会うことはいつでも圧力であり、侵入であり、つまりは暴力であるということ。私は精神科医として、という以上に、一人の「当事者」としてそれを知っている。
ここでもう一人の証言を引いておこう。自閉症当事者のドナ・ウィリアムズは、親切にされること、見つめられること、抱きしめられることはことごとく苦痛であったとその著書で述べている。たとえば以下のように。
あんたなんかに会いたくない、帰ってよ、とウィリー(※筆者注:ドナの別人格)は怒鳴った。しかしティムはわたしの手を取ると、わたしにやさしくキスをしたのだ。わたしは両手で乱暴に彼を押しのけた。親密さは痛みに感じられて、耐えることができなかった。ティムは立ち尽くしたまま、そうやってわたしが一人で自分と闘っているのを、見つめていた。(ドナ・ウィリアムズ『自閉症だったわたしへ』新潮社)
私は発達障害当事者ではない(たぶん)が、ドナの感覚は共感的に理解できる。「優しさ」もまた暴力であるということ。どれほど慈愛に満ちた、優しげな他者であっても、私の自我境界——ATフィールド?——を超えて接近してくる他者は恐ろしい。それは私がその他者に好意を持っているか否かとは無関係だ。むしろ、好きだからこそ恐ろしい、ということもある。もっとも、そうした恐怖は瞬時に揮発するし、その後は親密さの暖かい感情が回復されもするだろう。だから私は、そんな恐怖などまるで感じていないかのように振る舞える。それはたぶん成熟のおかげなのだが、しかしそれでも、私の成熟はこの恐怖を完全に消してはくれなかった。
デリダは言語的差異体系の根源にarchi-violence(原初の暴力)すなわち分割する作用を想定していた。ラカンも言語の根源に「否定」の働きを想定しており、この文脈で考えるなら、私の主張は決して過激でも荒唐無稽でもない。社会の現実が言葉とコミュニケーションから構成されるとみなす社会構成主義的な立場をとるなら、「臨場性の暴力」は、こうした言語の暴力性に根ざしているとも考えられる。
人と人が出会うとき、それがどれほど平和的な出会いであっても、自我は他者からの侵襲を受け、大なり小なり個的領域が侵される。それを快と感ずるか不快と感ずるかはどうでもよい。「出会う」と言うことはそういうことだし、そこで生じてしまう“不可避の侵襲”を私は「暴力」と呼ぶ。再び確認するが、この暴力はいちがいに「悪」とは言えないし、あらゆる「社会」の起源には間違いなく、こうした根源的暴力が存在する。暴力なくして社会は生まれない。
それでは私のような人たちは、この長いひきこもり生活の中にあって、再び人々と親しく交われるようになる機会をどれほど待ち望んでいたのだろうか。またあの日々に戻りたい? 親しい人に会えるのが楽しみ? それとも、ちょっと気が重い? あともう少しだけ、こんな日々が続いて欲しい? きっとどの感情も嘘ではない。そうしたあなたの「楽しみ」も「気の重さ」も、出会いの暴力性によるものだとしたらどうだろう?
何かを決めたい、依頼したい、説得したいと思うとき、人は会うこと、集まること、すなわち「臨場性」を求めがちだ。なぜか。そのほうが「話が早い」からだ。なぜ話が早いのか。それが「臨場性の暴力」の行使だから。これから述べていくように、暴力は欲望を加速し、関係性を強化する。臨場性という暴力には、人々の関係と欲望を賦活し、多様な意思をとりまとめ、決断と行動のプロセスを一気に前に進める力がある。集団の意思決定において、しばしば集まって対話することが必要とみなされるのはこのためだ。この効率化のおおもとに「臨場性の暴力」があるということ。このことに気づき、自覚できるのは、人類の歴史上、もっとも臨場性が剥奪された今をおいてほかにない。
② 臨場性と欲望。
われわれは、たった一人では自分の欲望を維持することができない。ラカンの最も良く知られたテーゼ「欲望は他者の欲望である」はかなり多義的な言葉だが、つまるところはそういうことだ。欲望の起源は他者である。人は欲望を他者から供給され続けなければならない。それは「他人が欲しがるものが欲しくなる」という意味だけではない。われわれは自分の欲望の形式や作法、そして対象までもことごとく他者から学ぶ。そのうえで自分の欲望を他者に見せつけそれを承認されたいと願う。しまいには「満たされない欲望を持ちたいという欲望」を持ってしまったりもする。つまり、人間の欲望のあらゆる過程に、他者が関わってくるのだ。コロナ禍でひきこもり生活を強いられた人々の多くは、大なり小なりそれを実感しているのではないか。
さきほどのテーゼにおける他者とは、言語システム(象徴界)の謂でもあるのだが、この点はひとまず措こう。他者との出会いがないままで過ごしていると、しだいに欲望が希薄になり、その宛先が曖昧化してしまうという臨床的事実がある。たとえば多くのひきこもり当事者が、そうした経験を語ってくれる。何年もひきこもり続けていると、自分の欲望がわからなくなり、まったく消費活動をしなくなってしまう人が少なくない。まれに過剰な浪費に走る人もいるが、購入品の包装も開けずに部屋に積み上げてあったりする。そうした浪費は、もはや欲望よりも依存に近い。
そこそこ快適にひきこもってはいるものの、何となくやる気がわかない、気合いを入れようにも踏ん張れない、という声をしばしば聞く。なにより私自身がそんな状態になっている。こうした無気力さの原因、少なくともその一部は「他者の不在」によるのではないか。これまでの議論をふまえ「他者の暴力の不在」と言ってもよい。
長い自粛生活の中でも、たまにはリアルな会議や打ち合わせ(もちろん三密を避けて)があったりする。正直、参加するのは気が重いこともある。ところが、思い切って参加してみると、少なからずやる気が賦活されたりする。そんな経験はないだろうか。個人的には、オンライン会議にはこうした効果が比較的薄いように思われる。安定した意欲の回復には、繰り返し「臨場性の暴力」に曝される必要があるのだろう。欲望の起源は他者であるとして、欲望の活性化をもっとも促進してくれるのは暴力だ。もう少していねいに言い直すなら、「臨場する他者からの、ほどほどの暴力」ということになる。
③ 臨場性と関係。
オンラインでは完結できない領域とは何だろうか。少なくとも「関係性」が重要な意味を持つあらゆる領域は、今後も臨場性が必須となるだろう。性関係はもとより、治療関係、師弟関係、家族関係、などがそれにあたる。言い換えるなら、関係性よりもコミュニケーションが意味を持つ領域では、臨場性を捨象するほうが効率化されるため、オンラインで完結できるだろう。おわかりの通り、関係性とコミュニケーション(情報の伝達)はまったくの別物であり、私からみれば、ほとんど対義語ですらある。
以下、この結論に至る理路を説明していこう。
あらゆる関係性は非対称である。これが前提だ。言い換えるなら、非対称性が想定されない場所には関係性も生まれない。そう、「対等な関係性」などは、誰かの政治的夢想の中にしか存在しない。どんな関係性にも上下関係、支配関係が埋め込まれている。相互承認を「主と奴の弁証法」に結びつけたヘーゲルを持ち出すまでもない。本当は専門用語で「攻め×受け」と言いたい。BL界隈の言葉ではあるが、私は真剣に、ここにこそ関係性の本質があると考えている。あらゆる関係は——そして対話は——「攻め×受け」なしには成立しない。
それが固定的か流動的かは問うまい。一対一の対話は、常にすでに非対称だ。どちらがより多く話し、話題を提供し、論点をリードし、結論の言葉を述べるのか【註1】。これを完全に均等にすることはできないし、すべきでもない。対話のダイナミズムは、そうしたミクロな非対称性の位置エネルギーの落差によって駆動されている【註2】。対等性に敏感な人ほど、完璧な対等性など幻想でしかないことを知っているはずだ。そして言うまでもなく、対話はすべての関係性の礎である。
対話と関係性が実現するため、すなわち非対称性を実践するためには、そこに身体を持ち寄ること、すなわち「臨場性」が欠かせない。なぜか。人間関係の非対称性は、身体抜きには成立しないからだ。よもや誤解する人はいまいが、それはたとえば「身体の大きさ」「力の強さ」「顔の美しさ」が優っている人が常に上位になる、という意味ではない。そこには常に「にもかかわらず」が介在してくる。身体的に優位である「にもかかわらず」、関係性において劣位になるといった事態が。繰り返すが、こんなことはBL界隈では常識以前の問題だ。重要なのは「差異」であって、差異は関係性にあっては「上下」や「攻受」に変換される、そういうことである。
そうした差異を前提として、苦痛や感情が共感され、文脈と意味が共有されること。そうした共振れは、有意味な対話の成立にはほぼ不可欠なのだが、オンラインではそれができない。オンラインで楽器のセッションがきわめて困難なのは、微妙な時差のほかに、音響空間が共有されないためでもある。それとほぼ同じ意味で、対話においても臨場性が強く要請されるのだ。
論点をまとめよう。対話と関係性が成立するには「攻×受」の非対称性が必須である。リアルな非対称性の成立には、身体を持ち寄ることがもっとも効果的である。身体的差異の効果は「臨場性」によって最大化される。よって関係の成立には臨場性が不可欠である【註3】。
それをなぜ「暴力」と呼ぶのか
繰り返し確認しておくが、私による「臨場性=暴力」というテーゼは、価値判断とはなんの関係もない。そもそも先述のように、正義もしばしば暴力的に実践される。例の「自粛警察」はそのパロディみたいなものだ。本稿での私の主張は、ひきこもり生活のもとで、多くの人々が出会いの暴力性に気づきやすくなっている今だからこそ、「臨場性」の持つ意義を適切に評価するとともに、どれほど価値のある臨場性であっても、そこに「暴力の痛み」を感ずる人々が一定数いるという事実を知ってもらいたい、この点に尽きる。
「元のような日常」の回復。私とてそれを望まないわけではない。そこには暴力的なまでの効率の良さがあり、暴力的な悦びがあり、暴力の痛みによって賦活される欲望があった。しかし、まさにそれが暴力であるがゆえに、「臨場性」に苦痛を覚える一定数の人々がいると言うこと。そして、その苦痛に対しても幅広い認容性のグラデーションがあると言うこと。だから、私にも共感可能なその苦痛を、異常で病的なものとして単に排除——治療対象とする、など——すべきではない。私は私の「痛み」を排除したくない。すべての痛みは哲学的に正当/正常である。
「臨場性」それ自体がはらむ暴力性をふまえ、ただ反動や惰性によってそれを回復するのではなく、そこに「いたたまれない」という思いにも想像力を巡らせてみよう。「オンライン」という選択肢をどの程度受け容れ、社会に「臨場性」をどこまで、どのように回復するべきか。もしそこでも、お題目以外の理由で「多様性」を称揚しようというのなら、そこではまずなによりも、人の多様な感受性と認容性のありようを尊重し配慮する態度が要請されるべきである。
【註1】 「まなざしの非対称性」を想起しよう。関係性においてまなざしの交換は不可欠だが、にもかかわらず、相手と対等にまなざしを向け合うことはできない。オンラインはそもそも「目が合わない」ので論外だ。
【註2】 このあたりの議論には異論もあろう。関係性の本質がなぜ「攻×受」であるのかという哲学的問題については、拙著『関係の化学としての文学』(新潮社)で十分に展開したので、そちらを参照されたい。ただし怪しからんことにはとうの昔に絶版なので、図書館などで探されることをお勧めしておく。
【註3】 お前の大好きなオープンダイアローグでは「フラットな関係性」が大事、とあれほど言っておきながら「非対称性が重要」とはどういうことか。そうした疑問にはこう答えよう。どんな対話にも非対称性はあり、とりわけ医師—患者関係はそれが最大化・固定化されやすい。オープンダイアローグとはそうした非対称性を最小化・流動化するための「仕組み」なのである、と。