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それが私です
どうせ死ぬから住んでみた
2 それが私です
さて、ここで私が誰なのか、お伝えしなければなりません。
私は、作家でもコラムニストでもミュージシャンでも、なんでもありません。
ただの、音楽が大好きな、ちはるさんの一ファンです。
平成2年の3月生まれで、平成元年生まれと同級生の、現在齢は31歳。
ちはるさんと一緒に住んだ頃は29歳でした。
普通に北海道の田舎の小中高を卒業し、
実家から札幌に引っ越して一人暮らしを始め、
普通に大学を卒業し、新卒で職が決まらず半年ほど就職活動をした後に、
正社員、販売員として、ある会社に入社しました。
そこは、多少なりともブラック企業でした。
詳細は省きますが、私は、その会社で働いているうちに、アルコールに依存していきました。
ちはるさんと出会ったのも、その会社で働いているときでした。
いつものように閉店業務を終え、帰る途中に、無料ライブでちはるさんの歌声が聞こえてきたのです。
その声に惹かれ、後ろの方に立って、最後まで聴いていきました。
その時財布に入っていたお金が少なくて、シングルCDしか買えずに悔しい思いをしました。
ファンクラブに入りたいと言ったら、そのCDに個人用のメールアドレスを書いてくれたことは忘れられません。
ちはるさんのファンになったのはそこが始まりで、もう7年ほどになります。
その仕事に限界を感じ、2年で職を変えました。
同じく販売員です。
そこは前職に比べると天国のような会社でしたが、配属された店舗には、店長と私しかいませんでした。
面白いくらいに店長と私は真逆でした。
店長の意見に合わせるように働いていくうちに、気付かぬうちにお酒を飲む量が増え、
自分で「あれ?」と思い受診してみると、私は立派なアルコール依存症になっていました。
当時、一番飲んでいた時期で、アルコール度数9パーセントのチューハイ500ミリリットルを1缶と、日本酒を5合、毎日飲んでいました。
私の昇格を含め、店舗に立て続けに変化が起こり、円形脱毛症を発症し、アトピー性皮膚炎が悪化しました。
こどもの頃からアトピー性皮膚炎でしたが、呼吸が苦しくなるほどの痒みは本当に久し振りでした。
生活環境がいけないと言われたので、食生活も栄養素を調べてできる限り改善し、
歩いて通勤することで、労働に加えて毎日1万歩以上のウォーキングをしました。
さらに1週間お酒を休んでみたところ、
7日目に飛び降り自殺をしかけて、パニックを起こし、気絶するように寝ていました。
次の日から、お酒が無いとご飯がまともに食べられなくなりました。
そして、職場で過呼吸を起こし、3ヶ月休職することになったのです。
休職中に治して復帰するつもりでした。
リフレッシュするために、小樽に一人で出かけて、海を眺めたりもしました。
しかし、その直後です。
いつものように、でも控えめに、1合だけ日本酒を飲んで夕食を摂っていたときでした。
私は突然、「人を殺してしまう」という妄想に駆られ、慌てておつまみを作るのに使っていた包丁を洗い、仕舞って、身分証明書とスマートフォンと家の鍵を持ち、近くの警察署に駆け込みました。
今思えば、人を殺す気なら包丁を持っていくべきであって、洗って仕舞うべきではないのですが。
けれどもそのときの私は、必死だったのです。
警察署には、誰もいませんでした。
「人を殺してしまいそうなんです」
そう、泣きながら警察署の電話を使って訴えました。
数分の後に警察官が3人も来てくれて、私を落ち着かせようとしてくれました。
けれど警察署は病院ではありません。
どうすることもできないので、救急車を呼ぶか、一人で帰るか決めることになりました。
救急車を呼んでもらうことにしましたが、お酒を飲んでいると精神科の救急にはかかれないことを知らされました。
緊急連絡先に入っていた友人に連絡してもらい、その友人に迎えに来てもらって、その日は友人宅で眠りました。
次の日、実家にいる母が私を迎えに来ました。
当然実家に連れて帰らされることになりましたが、その翌日に精神科の受診の予約をしていたため、母と一緒に受診しました。
私は、そこで入院の希望を訴えました。
通っていたメンタルクリニックには入院施設がありませんでしたので、主治医はすぐさま、入院施設のある病院に電話して、紹介状を書いてくれました。
入院の希望を出したのは、実家にいるのが息苦しかったからです。
両親は私を心配してくれましたが、その心配が、私にとってはとても、とても苦しかったのです。
何故、何が、どういう風に、苦しかったのか、説明するのは困難です。
それでも、とても苦しかった。
だからある日の朝に泣き叫んでしまいました。
母は大変狼狽していました。
入院後も、主治医とそりが合わず3ヶ月のところを1ヶ月半で退院しました。
泣き叫んでしまうこともありました。
お酒や薬物など依存物質をやめて1週間ほど経つ頃には、依存症患者はほとんど必ず情動不穏に襲われます。
ひどい場合は幻覚を見る人も少なくありません。
入院中はお酒を一切飲めないので、腕を殴りながら食事を摂っていました。
誰にも気付かれませんでした。
だって、もっと大変な人が、沢山、沢山いるのです。
私は食事も完食し、大人しく本を読み、運動療法や作業療法にも積極的に参加する、優良な入院患者でした。
そして私はアルコール依存症患者のミーティングで知るのです。
依存症は一生治らないことを。
更に、治療法は「患者同士で話し合う」ことしか無いことを。
大昔、アルコール依存症は「全世界の医者が匙を投げた病気」でした。
けれども、患者自身が考えて、同じ病気を持つ者同士で話し合い、解り合える場所を設けたのです。
それがAA(※アルコホリックアノニマス。患者同士で話し合う場を作る組織であり、全世界でその治療法が用いられています)の前身でした。
今や、ほぼすべての依存症の治療法として、この方法が使われています。
寧ろそれしか無いと言った方が適切かもしれません。
投薬も、依存物質への欲求による感情(不安、イライラ等)を抑えるためでしかありません。
私はその状況に絶望しました。
誰も助けてくれないのだと思いました。
今も、そういった思いは完全に拭い去れたわけではありません。
本来、アルコール依存症であれば、断酒(※一生一滴もお酒を飲まないこと)をしなければなりませんが、
私はそれに全く納得していません。
だから普通に飲んでいます。
医者にも断酒をしたくない旨は伝えています。
この文章も、主にお酒を飲みながら書いています。
疑問や猜疑がある中でも、お酒の量を記録することで、量を減らすことを試みています。
退院後1ヶ月は、お酒を飲むとき以外、すべてドリンクゼリーと飲み物だけで生活していました。
勿論栄養を考えて、水以外にも、牛乳、野菜ジュース、その他機能性飲料を選んでいました。
けれどずっと、寝込んでいました。
毎日死にたいと思いながら、それでもそんな状況が少しずつ、少しずつ改善してきて、傷病手当(※怪我や病気の為に仕事が出来なくなった人が貰える手当)もそろそろ終わりそうだから、受給を延長していた失業保険(※仕事をするのが可能な人が、就職活動をしているのに仕事に就けないときに貰える手当)に切り替えようか、というときでした。
もう死のうと思ったのは。
それが、一章でのお話です。
毎日、毎日、
「私は死んだ方が良い」
「そんなこと昔から解っていることだ、今更の話だ」
「けれども税金や親の金で何もせずこんな風に生きていて良いのか」
「そのために払っていた保険料だろう」
「それにしたって30も目前になってこんなことになるなんて」
「親が可哀想だ」
「可哀想」
「私に関わる人、みんな可哀想」
そういった声が、頭の中で木霊していました。
いえ、そんなことは15年も前からあることで、慣れていることでした。
しかしながら、何もすることが無く、そして何もできない状況で、
その声を受け止めるのは限度がありました。
「私が死んだらみんなこんな風に幸せになる」
そういった妄想をすることも、少なくありませんでした。
そしてその妄想は、何より幸せでした。
私が死んだ後の妄想をするのは、高校生頃からの趣味でした。
私が死んで誰も悲しまないとは思いません。
だけれども、人間は強い。
その強さが、私は好きでした。
だから、私がいなくなっても、5年か10年もすれば、
私の大好きな人たちが、私がいないだけの世界で、
きっと穏やかに過ごしていることだろうと考えました。
新緑の季節、小鳥が鳴き、朗らかな陽の光の中で、
私の大切な人たちが、私のいない世界で笑って過ごしている。
そんな世界を妄想することが一番、私にとっては幸せでした。
お酒を覚えた頃より、もっともっと、ずっと前から。
私がいない私の人生こそ、私の最大の喜びです。
それからの諸々は書く機会があれば書こうと思いますが、端的にまとめると、現在私は実家にいます。お酒を減らそうと試みつつ、依存症者のミーティングに参加し、就労支援事業所(就職をするための練習をする支援事業所)を利用して社会復帰を目指しています。
31歳、無職、自殺願望あり、実家暮らし、恋人無し、アルコール依存症、ちはるさんのただのファン。
一言でいえば「どうしようもないクズ人間」。
それが私です。