見出し画像

夜の果てへ連れ出して -aiko「あなたを連れて」読解-

aikoは人生な文章書く系&小説書くオタクのtamakiです。PNはおきあたまきといいます。
aikoのデビュー記念日の7月(前期)と誕生日の11月(後期)にaiko歌詞研究として2曲ほど読んで発表する活動をしています。
今回の読解は前期分です。本年度前期は2014年の楽曲「あなたを連れて」と2015年の楽曲「未来を拾いに」を読解します。

このくだりは恒例の前置きです。ほぼコピペ。もうちょっと先から本編。
2020年までは個人サイト「愛子抄」で掲載していましたが、2021年からnoteでの掲載に移行しました。マガジン「aikoごと」にこれまでの読解のnoteをまとめているほか、一部愛子抄からの転載もあります。

これもコピペですが、過去作について、こちらに転載していこうよ~~……と思いますが、思った以上に時間がかかるので現状全然出来てません。
それもあるけど昔の自分の文章が正直見れたものではないので、あんまりやる気がないです。

だいたいですねぇ! 数年前の自分なんて! もはや! 他人! 内容に保証が出来~ん! せいぜい2018年くらいまでがまあギリ保証出来るかな~くらいな感じです。今の書き方が定まったのも大体その辺なので…。

今時ビルダーで編集してる個人サイトなのでしぬほど読みにくいですが、もし他の曲が気になった方は是非「愛子抄」の方にアクセスしてみてください。「カブトムシ」はこっちにあります。
以上、全部アップルパイ読解から引き継いだコピペでした。

以降から本編です。先述したことを繰り返しますが、本年度前期は「あなたを連れて」と「未来を拾いに」を読みました。
本noteは「あなたを連れて」稿を掲載します。「未来を拾いに」は7/17の夕方頃に掲載予定です。



はじめに

「あなたを連れて」は2014年5月28日リリースのaiko11枚目のアルバム「泡のような愛だった」(以下、時々「泡愛」と略して表記)4曲目に収録されている楽曲である。
泡愛自体、私の感覚では新しい方のアルバムと言う感じなのだが、もうリリースから十年経っていることに正直おののいてしまった。あくまで個人的な感覚の話になるが「泡のような愛だった」からaikoの作風に新しいものが見えてきた、あるいは少し初期の頃を思わせるような作風でありつつも、新しい顔が見えるようになった、と感じているので、一種の区切りのような位置づけにある一枚である。
(これ以降、しまやんでお馴染み島田昌典氏のアレンジが少し遠のき、OSTER projectのアレンジが多用されることになった、というのも理由としてある。一時期干されていたようなのは、果たして何故だったのだろう。。。)

「あなたを連れて」は後述するが楽曲の構成が珍しく、短めの曲であるのでアルバムの中では小品のような存在であるが、それでいて歌詞は、いやむしろ小品ゆえと言った方がいいのか、なかなかに衝撃的で深いものがある。
読解でも焦点になるが、やはりサビの「どこかで心が繋がっていると勘違いしてるあたしと/最後は一人なんだと 冷めた笑顔の得意なやさしいあなたと」のフレーズに、多かれ少なかれ衝撃を受けたリスナーは多いのではないだろうか。

かく言う私も当然そうである。と言ってもこのフレーズだけで「あなたを連れて」は終わらない。楽曲全体に染み渡るaikoの哲学にその当時は勿論、今もなおとても影響を受けているとつくづく感じているのだが、やはりリリース当時としては実に衝撃的だった。
aiko本人も言っているが、一見すると冷たいが、ここに、そして楽曲全体で記されているのは「愛」そのものである、と今も思う。その当時は「17の月」の読解を書いていたのだが(2014年後期の話)(と言っても十年前なので、今とは大分やりかたが違っていて読解にもなってないような気がする)影響を受け過ぎて、最後にこの「あなたを連れて」を、下記のように引用したのを覚えている。

(あなたが見ている月とあたしが見ている月が違っても)別に違うものを見たっていいじゃないか。私達は違っていて当たり前なのだし、違うからこそ人と人は惹かれ合うことは、aikoを愛聴している読者諸兄らには言わずとも知れたことであろう。視点であれ認識であれ価値観であれ主義であれ、その「違い」を認めて、それを乗り越えてでも相手との関係を望むのなら、その心の働きこそを私達は本当の意味で愛と呼ぶのだろう。
「どこかで心が繋がっていると 勘違いしてるあたし」と「最後は一人なんだと 冷めた笑顔の得意な優しいあなた」を歌う「あなたを連れて」は、まさにその違いを暗黙のもとで受け入れて、なお二人が二人で在り続ける曲なのだと思う。

おきあたまき「あなたが見ていた違う月 -aiko「17の月」読解と解釈-

この文章と内容については本題ではないので触れないでおくが、「「違い」を認めて、それを乗り越えてでも相手との関係を望むのなら、その心の働きこそを私達は本当の意味で愛と呼ぶ」と書いた文章は今でも気に入っているし、aikoの考えにも通じているんじゃないかと勝手に思っている所存である。

当時衝撃を受け、今でもことあるごとに触れ、影響を受け続けている名曲「あなたを連れて」。のちのaikoの名曲にも通じるaikoの価値観で満ちているこの曲を、今回読解することでより深く理解していきたい。


資料を読む

「泡のような愛だった」収録曲は別冊aikoにライナーノーツがあり読解の手引きを得やすい楽曲となっている。早速ライナーノーツから参照したい。
別冊カドカワ総力特集aikoが正式名称なので別冊aikoはウソです。noteに下書き移してて初めて知った。でもめんどくさいので別冊aikoでいきます。

別冊aiko

アレンジャーの島やんに「暗いイメージがいい」とお願いしたらイメージどおりの“夜の海”のようなアレンジを上げてきてくれて。「島やんは本当にすごい!」ってあらためて思いました。

別冊aiko

歌詞の読解ではあるものの、楽曲の印象や構成、アレンジは軽視出来ない。中でも曲のアレンジをどういう風にしたいか、と言う注文はそのままaikoが歌詞に対して持っている世界観でもあり、大いに読解の助けになる。

この「あなたを連れて」はaikoの言うように確かに「暗いイメージ」の曲である。静謐であり、しっとりとしていて落ち着いている、まさしく「夜」を感じさせる楽曲だ。そうではあるが、一概にマイナスでネガティブなイメージというわけではなさそうである。単純な分け方で言うと、悲恋だったり悲劇ではない。
ただ、どことなくではあるが、秘匿されているものを開示するような一種のものものしさはある。うつしよは夢、夜の夢こそまこととは江戸川乱歩の言であるが、夜だからこそ真実や大事なことが明かされるような、そんな雰囲気である。
(ただ、オリコンスタイルで「他はアップテンポが多いので」と別の理由を語っていたので、単純に他の曲との兼ね合いでこういうアレンジになったのかも知れない。とは言え、この歌詞で明るいイメージはあまり想像出来ないが)

この曲は、ほんとに時間がない中でのレコーディングでした。(略)そんな中で、こだわったのはピアノの音です。深くて暗くて心に響くような音にしたかったので、古いマイクにこだわってレコーディングをしました。

別冊aiko

時間がない中でaikoがそれほどこだわるということは相当なことであろう、と言うのが伝わってくるし、音楽に妥協を許さないaikoの熱い姿勢も感じられる。この曲は演奏もシンプルでピアノが主体となっているが、それを録音するマイクにもaikoのこだわりが反映されている。「心に響くような音」にしたかったとのことだが、それもつまりは、それだけ大事な何かがこの曲に込められているわけである。

Aメロからサビにいって、そのまま大サビ→サビ→Aメロで終わるという、少し構成が変わった曲になりました。なので、歌詞も短いんです。言いたいことがたくさんあったので、短い言葉の中に思いをどうやって詰めようか少し悩みました。

別冊aiko

言いたいことは沢山あったけれど、それを全部は出せない。aikoもここで言っている通り、普段の曲の尺ではないし、と言って普段の尺に無理やり引き延ばすのもaiko的には何か違うと思ったのだろう。
その短い尺の中で歌詞と言う形をもって表れた言葉は、ひょっとすると普段の歌詞よりもずっと意味が込められたものなのかも知れない。私達が思っている以上に、大事なこと、aikoの言いたいことが凝縮されている歌詞なのだ。

特に気に入ってる歌詞はサビの<どこかで心が繋がっていると/勘違いしてるあたしと/最後は一人なんだと/冷めた笑顔の得意なやさしいあなたと>です。言葉だけそのまま受け取ると少し冷たいように感じるかもしれませんけど、私は愛の言葉だと思ってます。

別冊aiko

多くの人が衝撃を受けたフレーズへの言及である。aikoが「言葉だけ受け取ると少し冷たいように感じる」と言うように、ここには確かに絶対的な断絶と言うか、どうやっても埋められない、わかりあえない何かを感じさせる。あなたからのやんわりと置かれた距離と言うものを、聴くたびに感じてしまう。しかしそれは強い拒絶でも、勢いのある突き放しでもない。ただあなたがあなたとして、あたしがあたしとしているだけで生まれてしまう断絶、どうしても生まれるすれ違いである。
しかしそれをaikoは「愛の言葉だと思ってます」と断言する。まさしく「あんたほどの実力者がそういうなら……」そのものなのだが、勿論私も、最初に聴いた頃も今も、ここに表現されているのは愛だと思っている。
そもそも作者がそう言うのならば、読解する側としてはそうだ、と認めるよりない。aikoが言っている以上愛の言葉だし、この「あなたを連れて」も愛の歌なのだ。そのことを念頭に置いて読んでいくつもりである。

この歌がアルバム最後のボーカルレコーディングだったんです。(サウンドが薄くなって)ボーカルが裸になることが多い曲なので、素直に、シンプルに、優しくて強い歌を歌いたいと思って、そこを心がけました。

別冊aiko

シンプルに。まっすぐに届けたかったと言うことだろうか。難しい言葉を使わずに、と言う意味でもあろう。歌詞自体も短いので、aikoの信じている、こうだと思う「愛」と言うものも、多くの人にわかってもらいたかったのではないだろうか。
aikoがそれだけ伝えたかったものがこの一曲に込められている。この曲がアルバム最後のレコーディングだったことも、今となってはどこか示唆的なものを感じる。なにせ「泡のような愛だった」と、「愛」が掲げられているタイトルでもあるのだから。

オリコンスタイル(2014年6月9日号)

続いて、発売時のオリコンスタイルを見ていく。

──歌詞も大人の雰囲気ですね。
<どこかで心が繋がっていると勘違いしてるあたしと 最後は一人なんだと冷めた笑顔の得意なやさしいあなたと>というフレーズがあって。人と人とは100%重なり合うことはないけれど、だからこそ側に居たい、一緒に居たいという想いを詞にしたんです。それも、今、私の思っていることが素直に書けた感じなんです。こういう曲が作れて本当に良かったなぁと思っていますね。

オリコンスタイル

ここで語られているのは、aikoを追っていると度々見かけたり聞いたりする彼女の恋愛観と言うか哲学の一つである。「人と人とは100%重なり合うことはない」という見方については、なんだったら最新曲「相思相愛」へのコメントでも語られていることであり、十年経っても一切ブレていないことが伺える。
しかし「人と人とは100%重なり合うことはない」だけで終わっているわけではない。「だからこそ側に居たい、一緒に居たい」までが彼女の思想だ。この考え方については多くの人に愛される名曲「ストロー」でのコメントでも語られていて、以前の「ストロー」読解でも取り上げている(下記参照)

「一緒にいればいるほど<なんで?>と感じることが増えてきて。それが許せなかったり悔しかったりするけど、でもきっと、好きやから腹立つんやなとか、わかり合えないから一緒にいるんだなとか、そう思って自分を納得させようとする」

「音楽と人」2018年6月号

特に「わかり合えないから一緒にいる」が重要だろう。ただ個人的な印象では「わかり合えなくても側にいる」のが「あなたを連れて」だなと思っているので(あくまで個人的な印象の話、大事なので)いっそ「ストロー」よりも「あなたを連れて」に込められている愛は強度が高いのかも知れない。

それも、今、私の思っていることが素直に書けた感じなんです。こういう曲が作れて本当に良かったなぁと思っていますね。

オリコンスタイル

aikoの2014年当時に信じていた──そして今もきっと信じているであろう、愛とは何かと言うことが描かれているのであろう。その当時のaikoの愛の歌の最新版と言ってもいいかも知れない。2024年の今だと何だろうか。それこそ最新曲の「相思相愛」かも知れない(多少歌詞に言葉が足りてない感じはあるが……)
十年の時が経ってしまったが、しかし今でも「あなたを連れて」に描かれているものがaikoの考えている愛なのではないかと、私個人としては思う。この曲から発展した楽曲が、aiko三昧などのランキングでよく一位を取り、ライブでも頻繁に披露される、多くの人に愛されている「ストロー」なのではないだろうか。

OKMusic

って出典貼ろうと思ったらサービス終了してる!?!? そ、そんなー!!
本当にネットって……水物ですね…😭 だからローカル保存って大事でェ…。
インターネットアーカイブに突っ込めば読めるかも知れないのでURLは貼っておきます。https://okmusic.jp/news/179732  です。

この曲は構成が少し変わっていて、Aメロからサビにいって、そのまま大サビ→サビ→Aメロで終わる曲なので歌詞も短いんです。でも、言いたいことはたくさんあったので、短い言葉の中に想いをどうやって詰めようか少し悩みましたね。
言葉が少ない分、想いがギュッと濃縮されているからそれぞれのフレーズがより強く響いてきます。

OKMusic

ほぼ別冊aikoと同様のことを言っている回答である。改めて確認するまでもなく、本楽曲は短いゆえに込められているものは深くて濃い。フレーズの一つ一つがaikoの回答通りに強く響いてくる。

(全ての曲に対して言えることですが、今回の歌詞にはすごく大人っぽい印象があります。つまりそれは今のaikoさんの気持ちがストレートに投影されているからなんでしょうね。)
自分でも歳を重ねてきたんだなっていうのは改めて思いましたね。今の自分だからこそ書けたものばかりというか。

OKMusic

当時のaikoは39歳で、インタビューに答えていた頃は38歳。本人も言うように歳を重ねてきたから出せる境地で、二十代では出せていなかったのではないかと思う。四十を目前にした頃だと思えば、三十代前半でも難しかったのではないだろうか。そりゃ深いものがあって当然である。aikoと一緒に歳を重ねてきた三十、四十のジャン花ちゃん達にも刺さるものがある、と私は思う。やはりaikoの狙い通りに、当時心に響いた人は多かったのではないだろうか。

だから、読み返すとまだちょっと自分でも“う~”って苦しくなってしまうこともあるんですよ。曲を書いた時の想いが蘇ってきてしまうから。でも、それくらいほんとに思っていることだけを書けたっていうことなんだと思います。

ここを読んでいて、ああ、書く側のaikoには苦しさもあったのだな……と思ってしまった。あのフレーズを愛だとはっきり言う一方で、同時に苦しさや切なさも書く時には持っていたことを思うと、なんとも切ない気持ちになる。「100%重なり合うことはない」という、人間にはどうあっても乗り越えられない断絶に、なんてことなく「そういうものやし、それはもう仕方ない」と言う風に言っていたaikoもやはり、苦しさや悲しさや、ある種のやるせなさを感じていたのだ。
この件については最新曲の「相思相愛」のコメントなどでも話されている。aikoはこの人間が必ずぶち当たってしまう絶対的な断絶に、かなり長い間、今もなお切なさを感じているのが、こちらとしてもなんともやりきれない気持ちになり、身を切るような切なさを感じてしまうわけである。

歌詞の中では「あたしはあなたにはなれない」って歌ってるんですけど、でも、それぐらい思ってるんですよね。もう、全部を知りたい。全部を重なったらいいのになって言う。
体が疲れてるとか心が疲れているのも全部重なり合ってわかるくらい(筆者注:わかりたいくらい)その人のことを大切に想うからこそ、なれないことが悲しいっていうか、どこかすれ違ってしまうのが悲しい。
それくらい想っているっていうのを何か単語で表したいなって思った時に自分の頭に浮かんだのが「相思相愛」だったんです。

ROCK KIDS 802 -OCHIKEN Goes ON!!- 2024.4.15放送

この断絶はしかし、どうすることも出来ない。「絶対」という言葉が持つ乗り越えられない冷たさを、まざまざと感じるよりないわけである。

資料読み雑感

アルバムの他の曲との兼ね合いもあるが、アレンジャーの島田氏に伝えたのは「暗いイメージ」であり、お出しされたのは「夜の海」のような感じという、いかにも深い闇が立ち込めていそうなアレンジだった。
ともすると冷たくも感じるピアノの音と音の重なりから始まるこの曲は切ない感情が染み渡っていて、その切なさ、やるせなさはaikoが言うところの「100%重なり合うことはない」ということと、フレーズで言えば「最後は一人なんだと冷めた笑顔の得意なやさしいあなた」から漂っているのだろう。

それでも、そばにいたい-「ストロー」への布石

ただ、私としてもあのフレーズが示しているのは真理であるし、作者であるaikoも言っていたが「愛の言葉」でもある、と思っている。このことについては若い、特に十代のジャン花ちゃん達からすると「どうして?」「なんで?」と感じることもあるかも知れない。
そんな子達もいずれわかるのだろう、と思うと避けられない人生の苦みを感じてやっぱり心がキュッと切なくなるのだけど、それは置いておくとして、aikoがここに込めた愛、および彼女の持つ哲学は十年経った2024年の今も大きくは変わっていないと思う。

この四年後にリリースされる「ストロー」も、「あなたを連れて」を成したその考えが根幹にあるため生まれた、と言ってもいいだろう。少なくともそう無理な話ではなく、繋がりを感じられると思う。
それに既に前段落で引用したが、「100%重なり合うことはない」と言う点では、「あたしはあなたにはなれない」と歌う最新曲の「相思相愛」にもある通りなので、確認した通り長年に渡ってaikoにある考え方である。いつ頃からaikoがこの考えを持っているかと言うことも興味深いところである。少なくとも「あたしはあなたじゃないから全てを同じように感じられないからこそ」と歌う2010年の「戻れない明日」の時点では既にあっただろう。

それでも、あなたを諦めない-「だから」への布石

ところでこの曲は発売当時から遡ることもう8年も前の(8年も前の!?)「17の月」に萌芽があったのではないか、と私は考えている。「17の月」のCメロだ。

あなたはあたしよりうんと背が高いからこの道もきっと見晴らしがいいのだろう

aiko「17の月」

「17の月」は読解を書いたことはあるが何せもう十年も前のこと、今とやり方も大分違っていて内容に信用がおけないので、ここでは触れないでおく。

さてこのフレーズについてだが、私はこれは「好きな人とでも同じものを見ているとは限らない」「むしろ違うものを見ている」ことを端的に示した名フレーズだと思っている。
それは転じて、「愛し合う者同士だとしてもあなたとあたしは違う人間であり、重なり合うことは出来ない」という事実も表していて、ならばその先にあるものは何か? その先にどう言葉を続けるか? という問いの答えとして、この「あなたを連れて」があるのではないかとも思っている。

と言ってもaikoがそこまで考えているわけでもなく(勿論aikoがそんな問いを持っていたわけでもなく)単に研究者の立場から俯瞰して見るとそう思う、と言うだけなのだが、更にその先にあるのが「ストロー」であり、もう少しその先にあるのが、「ストロー」とほぼ時を同じくして世に出された「だから」だと思っている。

「だから」にも「あたしはあなたになれない」というフレーズがある。確かに人と人は完全に分かり合えないし、その人自身になれるわけでもないので、その人の持つ悲しみや苦しみを、その人が感じている通り完全にわかることは出来ない。
けれどaikoはその全てに、一種の諦観や苦しみや切なさを持つことはあっても、だからと言って全てを投げ出すような絶望は決してしていなくて、「あなた」をわかろうとすること、そばにいようとすることも諦めていない。諦めずに手を伸ばそうとするし、わからなくてもわかりたいと思うからあなたを知ろうとする。
それは全て、あなたが好きで一緒にいたいと想うからだ。

 一緒にいれば何が見えてくるの
 あなただけに話すから

 痛みを分け合えるメーターがあったら
 目を見る事を忘れ目盛り見て
 それはそれでうまくいかないさ
 だからあなたの肌を触らせてよ
 わからないから触らせてよ

aiko「だから」

つまりは恋だ。人を好きになる気持ちだ。aikoはその心の働きに一心に目を向け、心を傾けている。これも長い間変わらない彼女の良さと言うか、aikoの芸術の大きなテーマの一つなんじゃないかと私は思う。

恋であること

そう。「それでも一緒にいたい」という想いが愛であって、それと同時に──いやむしろ、その「愛」を飛び越えてくる、自分から生まれ出づる気持ちは「恋」の方がしっくりくるな、と思う。

そして「愛」ではなく「恋」という不安定でドキドキする、でも自分が求めているんだ、と言う要素をこの曲の見方に加えることで、ああやっぱりaikoの作品はこうでないとな、とようやくしっくり感じるようになった。aiko本人も度々言ってはいるが、「愛」ではなくて“「愛」の歌を歌う人”なのだから。余談だが、相思相愛のPRでゲスト出演したSCHOOL OF LOCK!(2024/4/18放送分)においても、DJのこもり校長から「愛と言うより恋の人」と言われていて、その通りと勝手に深く頷いてしまった。

自分の欲を出さないままなら、違いや分かり合えないことを認めるだけならば、それは「愛」に収まるものだろう。でも違う。この曲は「一緒にいたい」「それでも好き」という気持ちの方が主題になっているのだから。
そもそも「あなたを連れて」というタイトルなのだ。あくまでタイトルだけを見て話すのならあたしの方が主格になっているのである。あたしの想いが動き、あたしがあなたを希求する様を描いて曲として保存しているということを見るなら、この曲は愛の歌であると同時に(むしろそれよりも)やっぱり恋の歌でもあると思うのだ。

歌詞読みする前の時点の資料読み雑感としては、こんなところである。
実を言うと「いやいやあなたを連れて、最後に「あたしも連れていって」ってタイトル逆転してますが??」というツッコミもあるのだが(※ここで書くと面倒なので敢えてスルーした)その点はまあ歌詞を読んでいく時に(最後のくだりだが)考えていくことにしたい。

十年経っても揺るがないaikoの哲学が秘められている「あなたを連れて」。短いゆえに濃厚なものが込められている歌詞をこれから徐々に解きほぐしていこう。


歌詞を読む・一番

イントロは先述したようにどこか冷たい、ガラスの破片や氷のようなピアノの重なりから始まる。重なりは深まり、夜の底のような雰囲気の中でaikoの歌声が静々と浮かび上がる。

きっとあたしのいない頃

Aメロ、と言ってもAとサビしかないのでいっそ大雑把に前半と言ってしまってもいいかも知れない。

 ねえ 夢から また 持ってきた
 想い出の中で息をしているの?

実を言うと、こんな活動をしておきながらわりと不真面目なので、読解しようというタイミングでやっと歌詞を真剣に読む方……というaikoファンの風上にも置けない奴なのだが(無論何一つ全く読んでないと言うわけではないのでご容赦)今回「あなたを連れて」をしっかり読もうと向き合ってみたところ、出鼻をくじかれたように出だしから、ちょっと待て~い!? となってしまった。さすがにボタン押しちゃったよね。

「夢から また持ってきた」「想い出の中で息をしているの?」──「また」とある。また、なんて言うからにはこの歌詞に書かれる以前にもあった、それも複数回は、ということが読み取れるだろう。
なお「想い出」と言う表記についてはaikoの他の曲にも時折見られる書き方のため、ここではそれほど深く触れないでおくつもりだが、「思い」ではなく「想い」を使っているので、そこには何らかの人間模様を感じ取ってもいいのではないかと思う。
ただそれはきっと、あたしの知り得ないことなのだ。ひょっとするとこのあなたが夢の中から持ってくる「想い出」は、“あたしのいなかった頃”──要するにあたしと出逢う以前のこと、あなたの過去の出来事なのではないだろうか。

どうもここを読むに、「あなた側」には何らかの過去がある。これはaikoの曲では、少し珍しいような気がする。
これまでaikoを読んできた&聴いてきた経験上、あくまで私の体感であるが、あなた側の背景を匂わせるような描写はそれほど多くない、と思っている。そしてこの「あなたを連れて」は確認した通り短い尺であり、書く側のaikoも言葉を選んで綴っている。
そんな制約の中で、それでもこのあなたの「何らかの過去がある」「あなたは時折その過去に心を向けている」という情報を入れてきているというのは、読み過ごせないことではないだろうか。
その「想い出」なるものは、あたしの「知らないこと」である「出会う以前」であろうと私は読んでいる。過去の恋愛かも知れないし、恋愛とは関係ない別の辛い出来事かも知れない。更に言うと、それは「夢から」持ってくるのだ。

あたしの知らない夢の中

人の見る夢、と言うのは究極に孤独なもので、他人はどうあってもその夢を覗くことは出来ないし、体験することもなく、話してもらわない限り内容を知ることもない。
つまりは、あなたが夢から持ってきて更には息までしている世界のことを、あたしはどうあっても、どうあがいても知りようがない。どうしようもないのだ。それは過去にしろ幻想にしろ、きっとそこにあたしはいない。あたしは干渉する余地もなく、ただ違う世界にいるよりない。……ということを考えると、あれ、これ思ってたより“断絶”の具合が深いな……?? と読解しつつ思わず真顔になってしまった。

その想い出の中で息をしていると言うのは、遠い異世界で生きているようなものだ。
それならば、その世界から無理やりこちら側へ「連れ出す」よりない。だからタイトルの由来となっている「あたしはあなたを連れていく」が導かれるである。

何度でも連れていくから

 ああ それでも また何度でも
 あたしはあなたを連れて行くよ

前半にも、ここにも「また」とある。これが初めてではなくて、きっと何度目かの出来事だ。
しかし、あたしは繰り返されるその出来事に、自分が入り込めない領域のそれに、諦めるわけではない。唯一の手段として、“現在”の自分との「想い出」を増やそうとするのである。あなたに、あたしのいない頃の想い出の中で生き続けないように、あたしはあなたの手を引いて、今現在の世界に連れ出していく。
過去は増えることはない。未来と地続きの現在なら、想い出はどこまでも増やしていくことが出来る。あなたが生きているのは過去ではない。あたしと共に生きている現在のはずだ。
もしあたしが諦めているのなら、ある程度距離を置いているのなら、あたしもあなたのように「冷めた笑顔」を向けていただろうし、この曲はもっと冷たく寂しいイメージで奏でられていたことだろう。曲のメッセージも、全く別のものになっていただろうと思う。

そんなわけであたしは、見た通り一応は前向きである。しかし暗く切ない曲の雰囲気を拭うことは出来ない。あたしの懸命な努力を嘲笑うかのような、二人の間に横たわる決定的な断絶を思わせるように、冷たい切なさはずっと続いていく。
その理由はあなただけではなく、ひょっとすると、あたしにもあるのかも知れない。

諦観、さみしさ、勘違い

 どこかで心が繋がっていると勘違いしてるあたしと
 最後は一人なんだと 冷めた笑顔の得意なやさしいあなたと

「勘違い」と敢えて言うのが今回、読んでいて気になった。いや、聴いていた時から引っ掛かっていたかも知れない。
これはあたしが明確に「勘違い」だと思ってそう言っているのか、そうではなくあなたが「それは勘違いだよ」と言った所為なのか。それともあなたの目から見たら勘違いに映るのか。何通りかの読みが出来て、それによって意味も随分変わってくると思うのだが、ここはあたしが明確にそう思って言っている、もっと言うと“敢えて”そう言っていると読むことにする。

勘違い。それはつまり、「そうじゃない」と言うことだ。
まだ「信じてる」、と書いてくれた方がすんなり読めたかも知れない。だがそこを捻ってきている。ワードチョイスが絶妙すぎるし、これを選んできた辺りaikoの底知れなさと良い意味での冷たさに軽く怯えもした。

「信じてる」から少し外したその理由を考えると、あたしの「不安」や「恐れ」の表れゆえではないだろうか。
「心が繋がっている」──勿論あたし本人としてはそう思いたいのであるし、思ってもいるのである。そこはブレずにあると思う。
しかしここで「勘違い」と表したことで、あたしの中に密かに存在する「あなた」への──「想い出の中で息をし」がちなあなたへの若干の“諦観”のようなもの、本当は心が繋がってなんていないんじゃないか、という恐れがうっすらと読み取れる。それは最新曲の「相思相愛」へのコメントでよく語られているような、「好きな人でお互い想い合っているけれど、それでもすれ違ってしまう、全部を理解することが出来ない」という“寂しさ”でもあろう。

「勘違い」と言う表現には「運命」の「冗談まじりに運命を信じていた」ではないが、若干(それこそどこか)「冗談まじりに」感じなくもない。少し的を外しているような、いっそそんなことないよ、大丈夫だよと笑い飛ばして欲しい救いを求めているような、そういう心の不安も見え隠れしている。私にはそんな風に読める。
とにかくこの「勘違い」という表現、こうして歌詞をしっかり読んでみて改めて感じたのだが、憎らしいくらいに巧みである。複雑な心の動きを一言で描き止めるaikoに、相変わらず恐ろしい表現者だと冷や汗を流さずにはいられなくなった。

あたしはあなたのことが好きなのは間違いないのだが、あなたの振る舞いなどから100%信じきれていないように、私には感じ取れる。ここに込められているほんの少しの絶望感と諦観が、この曲の寂しさと切なさ、ほの暗さの正体なのかも知れない。

あなたはやさしい

一方で、対になっているあなたの言葉である。aiko曰く「冷たいけれど愛の言葉」と言うのはおそらくこのフレーズのことを指しているはずだ。

これは何らかの「別れ」を経験していないと言えない言葉ではないだろうか。すなわちあなたは何かの“別れ”を経て、「最後は一人」ということを痛感し、それをあたしに教えて「冷めた笑顔」を向ける。
だがあたしはあなたのことを冷たい、とは言っていない。そんなあなたのことを、彼女は「やさしい」と言っているのだ。

優しさを感じるのは、想い出の中で息をしていることが度々あるあなたでも、あたしのことをちゃんと想っているから、それをあたしも感じているからだろう。「最後は一人」という真理を教えるのも、曖昧に笑って誤魔化したりしないのも、あたしという人間を真に想うからこそじゃないだろうか。あなたは真剣にあたしに対して向き合っているのである。過去に囚われがちな自分のことを、あなたの方こそ申し訳なく感じているからなのかも知れない。
こう考えてみると、いっそ不安を隠しているあたしの方がまだあなたのことを想っていない……と言う言い方は乱暴すぎるけれど、あなたに対して負い目がある、と言えるような気がする。

一番まとめ・ねじれた二人

あなたは、あたしの知らない時間を生きている時があるようだ。あなたにはあたしの知り得ない過去がある。それは恋愛かも知れないし、恋愛とは関係ない、もっと別の辛い出来事かも知れない。たとえば災害や事故や事件、あるいは戦争で、家族や友人を亡くした、とか。
その中で息をすることの多いあなたに、あたしはなす術がない。届かない人だ。あなたは私達が考える以上に、あたしには遠く感じる人なのだ。

でもそれゆえに、あたしはあなたを外に、その「想い出」以外の、あたしとあなたが今生きている現実、あたしのいる世界に連れ出していくのである。タイトルの「あなたを連れて」の由来である。あなたに対して諦めるわけでもない。あたしは、あたしとの想い出を作ろうとするし、もっともっと増やそうともする。
あたしはこんな風に「一応は」前向きだ。しかし曲はあくまで切なく、静かで暗い。それは二人の間に横たわる、決定的な断絶を思わせるかのようだ。

どこかで心が繋がっている。しかしあたしはこれを、あろうことか「勘違い」と言う。
心が繋がっている。そう思いたいし思っているし、彼女自身諦めてもいないのだが、それでも彼女の心にわだかまるうっすらとした諦観や絶望のようなものがこの言葉の影に見え隠れしてしまう。この曲の寂しさや切なさ、ほの暗さはここに起因しているのかも知れない。

一方のあなたは、過去に恐らく何らかの別れ、あるいは終わりを経て、「冷めた笑顔」を向ける。
あたしはそんなあなたを「やさしい」と歌う。それはあたしを想っていることが──確かな距離を、冷たく置いておきながら──確かだからだろう。「最後は一人」という真理を教えるのも誤魔化したりしないのも、なあなあにお付き合いを続けようとしないのも、全てあたしをちゃんと想うからだ。

こうなってくると、どこか冗談まじりのような感覚で「勘違い」と言ってしまうあたしの方が、あなたを真に想っているとは言い難いような、そんな逆転まで起こってしまいそうである。

それではじゃあ、あたしが悪いのだろうか? あたしの想いはウソなのだろうか? 本当に?
勿論そんなわけはない。曲の後半を読み進めていこう。

歌詞を読む・Cメロ

磁石の時と同じように、Bメロはないが慣例(慣例?)に従って落ちサビまでの段落をCメロを書かせていただく。

心が繋がっている。そう信じているのではなく、敢えて「勘違い」と言うあたし。あなたへの不安を隠しきることが出来ず、どうしようもない距離を感じている彼女は、このまま諦めてしまうのが。この先に待っているのはやっぱり別れなのだろうか。
しかし、まだ希望はある。

好きを あなたを諦めない

 間違っていても ため息をついても
 毎日を繰り返して また見たことない顔を見せてよ 幾つも

ここ。ここである。「勘違い」と称してあなたのことを100%信じきることが出来なくても、あたしのやることなすことがあなたの心に届かず、響かなかったとしても、それに辛さや報われなさを感じても、あたしはあなたの心を追いかけることを、あなたが好きなことを、諦めようとはしないのである。

それはとびきりの恋じゃないか

不安定な二人の関係。うっすらと切なく、埋めきれない距離がある二人。常に寂しさがまとわりつく二人。あたしも、きっとあなたもそれを感じている。
でも、あたしは「それでも」あなたの見たことのない顔を見たい、あなたのまだ知らない時間を一緒に歩んでいきたい──そう、一緒にいたいわけだ。これを「愛」と呼ばずしてなんと称すればいいのだろうか。
いや。自分の気持ちが──こうしたい、欲したいと言う気持ちが上回っているので、やっぱりいっそ「恋」なのだ。
愛かつ恋。すなわち恋愛。その内側から湧き上がる想いが上回り続ける限り、あたし自身もこの恋も、二人の関係も大丈夫だと思うし、読解関係なく私個人の祈りとして、大丈夫だと思いたい。

気持ちを失わせてもおかしくない隔たりや障害を、それでも乗り越えていく想い。真に人を想い、人を好きになる気持ちの最たるものではないだろうか。

歌詞を読む・落ちサビ

大サビ前の落ちサビは(落ちているかはともかく落ちサビにさせてもらう)(ちょっと演奏が静まるところだから落ちサビのはず)サビのリフレインのように思わせて、その実大きく異なる。曲の印象もここで大分変る段落である。

安らかに、このままに

 どこかで心が繋がっていると 勘違いしてるあたしを
 このままにしておいてね あなたの笑顔がやっぱり好きなの

一番の読解では「勘違い」に隠されている不安というものをメインに読み取ったわけだが、Cメロを踏まえてこの落ちサビがあるのなら、この「どこかで心が繋がっている」は文字通り「そう」だと読まざるを得ない。心が繋がっている。そう信じている。

というか不安もあるが、当たり前だがそれだけではないのだ。心が繋がっている。「これってあたしの勘違いかも、アハハ」と冗談まじりに言っている面もあるが、でも、あたしはちゃんと信じている。それがたとえ100%でなくても。
ここでの“勘違い”は一番ほどの深刻なものがあるわけではない。「冗談まじりに」と一番サビの段落で書いたようにどこか笑い話……と言うと語弊があるので、子供が他愛ないことを信じるように、無邪気な気持ちで、楽天的な、とてもシンプルなあなたへの好意とまっすぐな信頼を表しているように、私は読んでみたいと思う。

そして、「このままにしておいてね」なのだ。あなたはそもそも、過度に干渉しなかったのではないだろうか。冷めた笑顔を向けるだけで、あたしの言葉を無理に摘み取ろうとはしていなかったのではないだろうか。

あなたが好きに勝るものなし

「あなたの笑顔がやっぱり好きなの」と、あたしは歌う。シンプルにして究極の答えがここにある。このワンフレーズがあるのだから、こんな読解なんて正直いらないくらいである。
いっそこの曲が言いたいことはこの一言に尽きるのではないだろうか? Cメロはこのフレーズへジャンプする為の助走ですらあったかも知れない。惚れた弱み、なんて言う風に書くと一気に低俗になってしまうが、あなたの笑顔、即ち「あなたが好き」に勝るものはないだろう。

心が繋がっている。そう思うことを、どうかこのままにしておいてはくれないか。いつかの未来でやがて「勘違い」は、確固たる「信じている」に変わる日も来るのではないだろうか。

歌詞を読む・大サビ

ところで、ここまで読んできたのは一番Aを除くと基本的にあたし自身にのみフォーカスしたことである。ではこの曲はそのまま、あたしだけに着目して終わるのだろうか。
そうではない。先述したように、珍しく恋愛対象のあなたの情報が描かれているのだ。それゆえか、あなた側の描写も最後に訪れる。

心が向かう先は君

 あしたもその手が愛していると強く強く抱きしめるなら

あなたも「こう」なのだ。「愛している」と「強く強く抱きしめるなら」とはっきり書かれている。
「最後は一人」と冷めた笑顔を向けながらも、あなたの中にもまたあたしへの想いが揺るぎなくあって、あたしに焦がれる気持ちを捨てきれない。というか捨てるつもりだってないのだろう。心が向かう先を遮ることは出来ないのだ。
こうして見ると、あなたはとても人間らしい人ではないだろうか。あなたの中にあるその確かな想い、その質量を、あたしが感じていないはずがないのである。

痛みと熱さを抱きしめて

 あたしも抱きしめ返すよ ずっと痛くて離れない熱い心で

だから、あたしもあなたのその想いを受け入れて抱きしめる。「痛くて」と“痛み”を敢えて書くのが実にaikoらしいと言うか、これもある種、aikoにおける肉体的表現の優位性なのだろう(aikoにおけるフィジカル表現の重要性また優位性についてはアップルパイ読解にて触れている)

「痛くて」。何に対しての痛みなのだろう。あなたの中にある冷たさや、埋まり切らない距離、あたしの知らないあなたの世界……様々なことに対しての痛みであろうか、と思う。
しかし、それでも離れない。あたしは離れることを選ばない。そういう障害や断絶、隔たりを受け入れ乗り越えて、なおあなたに手を伸ばそうとする。「愛」そして「恋」の度合いはあたしの方が強いと思うが、この二人はちゃんと、わざわざ言うまでもなく両想いなのである。

歌詞を読む・ラストAメロ

最後にAメロが来る構成の曲である。過去に読んだ曲で言うと「夜空綺麗」もこのタイプだった。
大サビまで読むと、なるほどじゃあHAPPY ENDだなと思いたいところなのであるが、必ずしもそういうわけでもない。
と書くと一気に不穏になるのだが、別に不穏ではない。ただ、切なさと狂おしさで曲全体をキュッと締め上げてくる感覚がとても良い。一抹の切なさをまぶして幕を閉じるところもaikoらしいな、と感じる。

傷つけるくらいそばにいて

 ねえ 少しずつ ああ 傷つけて

「傷つけて」に、またaikoさんそういうとこだよと言いたくなる(言った)やはり一度aikoにおける「傷」「痛み」についての研究もしっかりやるべきなのではないか、とつくづく感じる。
それは置いといて「傷つけて」、翻って言えばあなたはあたしのことを(最後は一人と冷たく言っておきながらも)傷付けているわけではない、ということだろう。あなたはあたしのことをとても大切にしているのかも知れない。

でもそれは、場合によっては距離を感じるものでもある。「傷つけないこと」はとても良いことだと思うし、当然そっちの方がいいに決まっている。でも、うっかり傷つけてしまうくらいの距離にいる方が場合によっては「愛」だと思うし、この人になら傷つけられてもいいと思えるくらいの信頼と絆があり、本音で言い合えることもまた「愛」だと思う。その方がずっと、真に相手を受け入れていると言えるのではないだろうか。
だから、度々書いているように二人には依然として距離がある。Cメロ落ちサビ大サビで十分な想いを確認してもなお、である。

いつかどうか、手を引いて

 少しずつでいい あたしも連れてって

一番では、あたしの入り込めない遠い世界に行きがちなあなたをあたしが現実に連れ出していったが、あなたの方から連れ出すこと──転じて、あなたの深奥にまであたしはまだ受け入れてもらえていないのだ。あなたにはまだ、それが出来るくらいの覚悟がない。まだそこまで許容は出来ていないのである。

この曲のあたしじゃなくても、好きな人に受け入れてもらいたい、好きな人のもっと深い本音を聞きたい、何でも話してもらいたい。そんなことはきっと誰しもが思うことだろう。受け入れてもらえたらそれは本当に幸せなことだし、そうすることで初めてその関係は真に両想いと呼べるのではないかとも思う。

それがまだ達成出来ていないことを、あたしはわかっている。さっきの段落で両想いなのだとか書いたが、まだその入り口──まだ、と言うかやっとその入り口にいる、くらいの段階なのだと思う。
そう考えてみると心がまだ不安に揺れるのも仕方ないし、心が繋がってるってあたしの勘違いかも……あはは、と自虐してしまうのも無理はない話というわけだ。

本当の意味での両想いが実現できるのは、もっと先の話だと思う。あたしがこうして祈っているくらいなのだから、まだまだ先なのではないだろうか。
でも、私はきっと実現するんじゃないかと思う。そう思いたい。もうここは読解関係なく私個人の気持ちとして綴らせて欲しい。あなた側にもちゃんとあたしを愛する気持ちがあるのは確認した通りなのだし、悲観し過ぎるのもよくないと思う。まだまだこれからではないだろうか。

夜の先にあるもの

「あなたを連れて」は、この先の二人は明るいです! と手放しに言えるわけではない曲と締めくくりである。
ところで、この曲のアレンジをaikoは「夜の海」と言う風に表現した。夜の海、ということは、もし波打ち際ではなくて海上だとしたら、深く濃い闇の中で自分達が一体どこにいるのかもわからないと言う、ただただ心細い、不安に苛まれる世界だ。だからあたしの切なる願いで、まだ届かない願いでこの曲は幕を閉じていく。

しかし“夜”ならば、その先には必ず朝が来る。そしてaikoはこの曲をただ切ないだけではなく「優しくて強い歌」とも言っていた。
切なさと寂しさと不安に揺られながらも、必ずどこかに続く、夜明けは必ず来ることを願いながら、あたしはあなたへの強い想いを抱き続けていくのであろう。
そんな姿を歌ったのが、十年経っても強く響き続ける、この「あなたを連れて」なのだ。

Cメロ・落ちサビ・大サビ・ラストAまとめ 
いつか辿り着く夜明け

曲後半まとめと書いた方がいいくらいごちゃごちゃしている。つくづく特殊な構成だなと感じる。

あなたのことを100%信じきれていなくても、不安があっても、あなたの心になかなか届かなくても、報われることが少なくても、それでも、あたしはまだ見たことのないあなたを見たいと望む。あなたと生きる未来を希う。一緒にいたい、毎日を過ごしたいと、そう願う。
これは疑いようもなく「愛」、ではなかろうか。そしてそれ以上に自分の「そうしたい」という気持ちが上回っている。即ち「恋」である。「恋」の気持ちが強い限り、あたしも、あたしの恋も、二人の関係も大丈夫──と言うか、なんとかなるのではないだろうか。
気持ちを失わせてもおかしくない隔たりを、それでも乗り越えていく想い。これこそ、真に人を想い、人を好きになる気持ちの最たるものだと、私は想う。

どこかで心が繋がっていると言う、勘違い。この裏に読み取れる不安は確かなのだが、でも、それだけじゃない。
心が繋がっている。あたしにはそれを無邪気に信じる気持ちも、同じくらい確かに存在しているのだ。それに対しあなたは特別否定するわけではない。「最後は一人」と冷めた笑顔を送りつつも、それだけだ。もしかしたらあなただってあたしに心を動かされているのかも知れない。あたしと過ごしていく内に別の考え方をする未来だって、この先にはあり得るのだ。

あたしは言う。「あなたの笑顔がやっぱり好きなの」と。いっそ冷めた笑顔だってあたしには愛しいものだったかも知れない。シンプルにして究極のこれ以上ない答えに、読解する側の私も手も足も出なくなる。なんだったら、あらゆる曲の答えもここに集約されてしまうように思う。とにかく恋愛において「あなたが好き」という事実に、勝るものはないのである。
心が繋がっている。あなたからしたら間違っているかも知れないこの想いを、けれども、どうかこのままにしておいてはくれないか。いつかの未来、少し二人が歩み寄れたら、その時は「勘違い」が不安のない、澄み切った「信じている」に変わる時だって訪れるかも知れない。

この曲はあたし側の気持ちの描写が多かったけれど、最後の最後にあなたの心の動きも描かれる。
あなたもまた、「愛している」と「強く抱きしめる」ことを選ぶ人なのだ。「最後は一人」と冷めた笑顔を向けながら、あなただって、あたしへの想い、焦がれる気持ち、つまりは「恋」を諦めきれない。自分の心に嘘はつけないのだ。あなたもとても人間らしい人であるし、こう歌われる以上、あたしがあなたのその強い想いを感じていないはずがないのである。

当然、あたしもその想いを受け入れる。埋まり切らない距離やあなたにある冷たさ、知らない世界、完全にはわかり得ないこと……そんな様々なことに感じる痛みを伴った、けれども、あなたをまっすぐ希求する、狂おしいほどの熱い心を隠さずに。隔たりを越えて、手を伸ばす。
二人の求め合う気持ちに、複雑ながらも透き通るような想いを見てしまう。この二人はいろいろありながらも、ちゃんと惹かれ合い想い合う二人なのだと、そう思う。

しかしながら、それでもまだ二人の想いは固まり切らない。二人には依然として距離が残っている。
あなたはあたしを傷付けないようにしている。つまりはそれだけ、隔たりがある。あたしは傷つけてもらったって構わない、それくらいの本音や偽りのない態度で接してほしいと思っているのに、あなたはそれをしないのだ。ここに何か理由があるかどうかは、それこそ読む人の自由に想像するところだろう。
あなたの深奥に──もっともっと深いところまで受け入れてもらいたい。そうしてもらえたら本当に幸せだ。その気持ちが表れたのがこの曲を締めくくるフレーズ、「あたしも連れてって」だ。あなたはまだそこまで、あたしのことを許容してはいないのだ。

それが実現出来るのは、もっともっと先の話だろう。まだ見えない先の話だ。夜の海は闇も濃く、海上にいるなら尚更、どこに辿り着くかもわからない。だからあたしは、本当はもっと、この歌で歌われるよりももっと途方もなく広がる不安の中にいるのかも知れない。
だが。想い合う二人ならばいつか、と思う。二人にとっての夜明けは、あなたが受け入れてくれる日は、いつか、いつの日か必ず訪れるはずだ。そう信じたいし、私はそう願っている。

おわりに -愛と恋と、人間と-

aikoはインタビューの中で「心に響くような音にしたかった」と語っている。即ち歌詞も含めたこの曲自体をそうしたかったと私は思っているのだけど、サビのフレーズを「愛の言葉」とも言っているし、優しくて強い歌を歌いたいとも語っていた。
aikoが込めた“強さ”は何だろう。ここは読み手によっていろいろな解釈があるところだろうけれど、私としては、人が人を想うこと、求めること、そういった強さなのかな、と思う。

構成は特殊ながら、短くて音もシンプルなこの一曲はそれだけとても大切なことが込められている。シンプルな形でaikoの思う「愛」、それから何よりも「恋」の形が表された作品。それが「あなたを連れて」だと思う。

ずっと変わらないaikoの哲学

なんというか、aikoの考える愛と恋の定義、を歌っているようにも思う。もし何かaikoの考え方や思想にわからないことがあったり自分の中でブレを感じたのなら、この「あなたを連れて」を聴いてみればブレは収まるのではないだろうか。迷った時は一旦ここに帰ってこい、みたいな感じである(よくわかんない表現だなとは書いてて思いますが…)

本作は今を遡ることもう十年も前の曲なのだが、込められているメッセージやaikoがどういう考えで書いたか等は今でもまだaikoの中で十分どころか全然現役で通用しているとも思っている。
今回ところどころで最新曲「相思相愛」について書いたりコメントを引用したのも、オリコンスタイルで語っていた「人と人とは100%重なり合うことはない(後略)」が「相思相愛」でも核になっているためだ(「相思相愛」についてもうちょっと言いたいことがあるが、それは少し後回しにさせてもらう)

資料読みの段階でも述べたことだが、この作品をベースに名曲「ストロー」が生まれたことは多くの人が察するのではないだろうか?
そしておそらく、「あなたを連れて」と「ストロー」の二曲を経てか、「ストロー」より前か同時期かに「だから」も生まれているんじゃないかと考える(※制作時期について明確な資料が見当たらないので全然見当違いなこと書いてたらごめんなさい。どこかで見た覚えがあるんだけど…)
「だから」は「ストロー」「あなたを連れて」の地点を更に超えている。あなたのことを全部わかってあげられないけれど、それでもあなたを理解するためにあなたに触れたい、わからないからそばにいたい、そういう、もっと踏み込んだ描写を加えているのである。

例えばとても好きな人がすごく泣いているとしますよね。その人がもう声をあげるほど泣いていたら、自分は触れるしかできないなと思うんです。隣で一緒に泣くこともできないし、気持ちをすべてわかってあげることもできない。明日になったら忘れてるかもしれない。でも今あなたのことを思っているこの気持ちを伝えるには、触れたいし、触れなきゃわからないと思ったんですよね。純粋に。何もしてあげられないけど、自分ができることはこれしかないって。ちょっと怖いけど、本当の心に触れたい。その気持ちに近づきたい。そういう思いを描きました。

音楽と人・2018年8月号

「相思相愛」との違い -aikoの瞬間描写性-

では最新曲の「相思相愛」はどうかというと、相手に触れる「それでも」の段階、それ以前の描写に留まっていて、「お互い想い合っている同士でも、相手のことを完全にわかることは出来ない」「どこかすれ違ってしまう」そのことから生じる“切なさ”に重きを置いて描写している。

無論「あなたを連れて」「ストロー」「だから」と比べて「相思相愛」が良い悪い、優れている劣っているという話ではない。そんな単純で乱暴な話では全然なくて、その曲それぞれで描きたいものが違っているということに過ぎない。歳と共にaikoの考え方が変わって急に悲観的に、退廃的になった……とか言う話でもない。
……と思う。思いたい。さすがに。そうだよねaiko!?

この件について、私は常々、aikoの歌詞は瞬間瞬間を描き留める点において俳句的だなあ~と感じているのだけど、その考えでいくと「相思相愛」は「完全には分からないし、重なり合えない」ことについての狂おしいくらいの切なさや寂しさをとことんまで追求して閉じ込めている楽曲、というだけである。

aikoは「人間」を諦めない

そうだよねaiko!? とさっき取り乱したのだが、多分aikoはそう簡単に諦める人ではないと思う。好きな人を少しでも理解しようと努力することも、隔たりがあっても追い求めることを、絶対にわかりあえない、重ならないとわかっていても、でも触れたい、わかりたいと思うことを、aikoはそう簡単に諦めないと思うし、そうあってくれたら、と私は願っている。

それは即ち、恋を諦めない、と言うことだ。もっと言うと「人間」というものを諦めないのだと思う。「ずっと恋愛の曲を歌っていく(作っていく)と思う」と各所でよく言っているのがその証拠となってくれると思う。
私もそんなaikoだからこれからもずっと追いかけていくのだし、聴き続けるし読み続けるし、これからもずっと愛していく。ここだけはきっぱりと断定の形で言わせてもらおう。

「あなたを連れて」から十年。それでもまだこの曲の持つエネルギーはとても強い。これまで出た曲も、これから出る曲だってきっとそうだ。
aikoの「愛」そして「恋」の定義そのもののような、痛くて強くて熱くて、心から恋焦がれるような曲を、十年後もずっとずっとその先も、心から楽しみにしたい。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?