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相手を思い相手を愛す -aiko「相思相愛」読解-

aikoは人生な文章書く系&小説書くオタクのtamakiです。PNはおきあたまきといいます。
aikoのデビュー記念日の7月(前期)と誕生日の11月(後期)にaiko歌詞研究として2曲ほど読んで発表する活動をしています。
今回の読解は後期分です。本年度後期は2024年の楽曲「相思相愛」と1999年の楽曲「恋人」を読解します。

このくだりは恒例の前置きです。ほぼコピペ。もうちょっと先から本編。
2020年までは個人サイト「愛子抄」で掲載していましたが、2021年からnoteでの掲載に移行しました。マガジン「aikoごと」にこれまでの読解のnoteをまとめているほか、一部愛子抄からの転載もあります。

これもコピペですが、過去作について、こちらに転載していこうよ~~……と思いますが、思った以上に時間がかかるので現状全然出来てません。
それもあるけど昔の自分の文章が正直見れたものではないので、あんまりやる気がないです。
そもそも最近の読解のフォーマットが出来てきたのもわりあい最近なので、古い時代のやつはもうそんなものすらないですから……消しはしないですけど恥ずかしいですね……。

だいたいですねぇ! 数年前の自分なんて! もはや! 他人! 内容に保証が出来~ん! せいぜい2018年くらいまでがまあギリ保証出来るかな~くらいな感じです。今の書き方が定まったのも大体その辺なので…。

今時ビルダーで編集してる個人サイトなのでしぬほど読みにくいですが、もし他の曲が気になった方は是非「愛子抄」の方にアクセスしてみてください。「カブトムシ」はこっちにあります。
以上、一部を加筆して全部あなたを連れて読解から引き継いだコピペでした。

以降から本編です。冒頭に書いたことを繰り返しますが、本年度後期は「相思相愛」と「恋人」を読みました。
本noteは「相思相愛」稿を掲載します。「恋人」は11/23に掲載予定です。



はじめに

「相思相愛」はaikoの45枚目のシングルとして2024年5月8日にリリースされた。映画『名探偵コナン 百万ドルの五稜郭』の主題歌として2月に発表された本曲は、シングルの発売に先駆け映画の公開日4月12日に配信で先行リリース・サブスク配信もなされ、老若男女を問わず多くの層に届くこととなった。

正直、近年のaiko楽曲の中で最も注目を集めている一曲と言っても過言ではなく、MVもリリースの僅か一ヶ月後に1000万再生を記録している。さすが、GW映画として毎年映画館が大いに賑わうコナンくんとのタイアップである。aikoも事あるごとにタイアップについて感謝を述べているので、本当に、””””ガチ””””で新規が増えたんだろうな……と感じるところである。やっぱりアクティブ増やそうとする施策って大事ですよね(aikoのアクティブとは?)
紅白歌合戦に5年ぶりだか6年ぶりだかに出場する運びになったのも、本曲のヒットがあったからかと思う。うれし~~~~!!ヤッタ~~~~~!!!!!(NHKだいすきっ子)

2月の情報解禁時の予告動画で聴いたのが、私と「相思相愛」との出逢いだった。「あたしはあなたにはなれない」──過去の名曲「戻れない明日」や「だから」を思い出すこのフレーズに、タイアップ先がどれだけ大きかろうと特に変わらずaikoの哲学が炸裂していることが何とはなしに嬉しかったし、バラードとミディアムの間と言った感じの曲調も、「相思相愛」というタイトルも好ましいもので、フルの解禁が待ち遠しいと期待に胸が膨らんだのを覚えている。

そして来る4月12日深夜、早速DLして聴いたわけだが、正直に書くと私は少し、うう~ん? となったところがあった。
果たしてこの曲、「相思相愛」なんてタイトルで歌われてもいいものなのだろうか。いや、そもそも「あたしはあなたにはなれない」の時点からほのかに危惧してはいたのだけど……一番AとかBとか、大丈夫ですか? この子……ってなるんですけど……。

いやaikoには何か狙いがあるはずで、でも歌詞だけ受け取るとコナンくん側のご新規さんに誤解されそう。aikoが誤解されるのはヤダー!
ということでaikoの新譜PR期間以外ではほぼ使わないRadikoプレミアムのエリアフリーとタイムフリーに火を噴かせてラジオのコメントを集めて回り、聴きとったものを掲載したのが以下のnoteである。

結局一番知りたかったところについてはわからんかったわけだが(わからんかったんか~い)「相思相愛」はaikoのコメント、というか作者のねらいを踏まえてでなければ、語義通りに受け取るとわりと誤解されやすい一曲ではないか……という懸念はやっぱりあるよなあ、と思った次第である。

せっかくラジオでのコメントも集めて回ったし、年に一曲は最新の曲を読みたいという気持ちもあったし、何より、自分でもわからないところの答えを見つけて納得したいなあと思ったので、このたび「相思相愛」を読むこととなったわけである。今後「相思相愛」に出逢う方にとって、本記事と私の拙い読解が何らかの参考になれば幸いである。


資料を読む

先述したが最新曲であるため、現時点でも資料にアクセスしやすいのはありがたいことである。WEBインタビューがすっかり主流になってしまったものの、掲載期間が終わったとか、記事掲載元のサービスが終了したり、そもそも期間限定公開だったりなどして記事が容易に消えやすい。そのため公開された時は即テキスト保存やスクリーンショットを撮る、場合によっては録音するのを強くおすすめする。
こういう時、やはり紙媒体に勝る情報保存媒体はないとつくづく思うのだった。雑誌、発売してくれるだけで本当に神。


オフィシャルインタビュー

私が最も難解に感じている一番Aについての言及はないが、一番Bについては言及されている。

「Bメロには“もう何もかも海の中 粉々になった言葉も指も全部”というフレーズがあるので、もしかすると失恋の曲と思う人もいるかもしれないですよね。でも、私としては好きな人に対して抱いてしまう、一生追いつけない片想いのような気持ちをイメージして書いていったんです」

オフィシャルインタビュー
(※掲載期間終了)

一生追いつけない。あたしはあなたじゃないから、どうあっても全部わかることは出来ない、ということで、ラジオのコメントでもインタビューでも繰り返し語られている、「相思相愛」における大きな真理である。両想いであっても、この点を思うと人というものは一生片想いなのかも知れない。

「どんなに好きな人であっても、すべてがパズルのように重なり合うことはない。そんなちっちゃくずれているところさえも気になってしまうくらい、あなたのことが愛おしいという感情を、“あたしはあなたにはなれない”の言葉に込めた気がします」

オフィシャルインタビュー

こう語っているように、一見否定的なあのフレーズは、aikoにとっては愛の言葉なのだ。言ってみれば反語のような感じであろうか。いや、それよりはある意味一種の撞着語法のように思う。
とはいえ、言葉だけ受け取ると非常に否定的というか後ろ向きな印象をどうしても拭いきれないように思う。要は言葉が足りていないのである。疑問に感じた人が各々調べてaikoの解説に行き着いてやっと理解出来るのではないか。と言って歌詞中でそれを説明し過ぎるのはおかしいし、芸術でもなくなってしまうだろう。

あなたへの愛しさ、好きと言う気持ちはあのフレーズにもちゃんと込められている。その説明は歌詞ではなく音楽の方が担ってくれているのではないか、と私は思う。トオミヨウ氏のアレンジがその重要な役割を果たしていて、勿論作者かつ歌い手であるaikoの歌い方もこの曲が伝えたいテーマの為に力を発揮しているようだ。

「最初は、ふっと歌って、ふっといなくなるような曲にしようと思ったんです」と言うように、aikoは元々、スロウなバラードとしてデモを作ったという。そこにトオミヨウがアレンジによるマジックをかけたことで、楽曲が放つ凛とした光はより輝度を増した。
「メロディや曲の構成がすごくストレートなので、いろんなアレンジの可能性があったと思うんです。だからトオミさんはいつも以上にいろいろ考えてくださったみたいで。結果、テンポを少し上げた、デモとは違う角度の本当に素敵なアレンジをしてくださったんですよね」

オフィシャルインタビュー

もともとは「ふっと歌って、ふっといなくなるような曲にしようと思った」とあるように、aikoが考える曲の意味するところもひょっとしたら変わっていたかも知れない。もっと言ってしまうと、この「相思相愛」ではなく別の曲がコナンの主題歌になっていた可能性もあり得たのではないかと思うと、トオミ氏は思っていた以上に曲の運命を大きく変えたと言えよう。

「夜中に好きな人のこと想っているような、どちらかというと内向的なイメージを持っていたデモから、少し前向きさを感じさせてくれる仕上がりになったのが私としてもすごく嬉しくて。自分の気持ちや考え方を切り替えるだけで、日常の景色がすごく変わって見えてくる。そんなことをトオミさんのアレンジに教えてもらえた気がしました」

オフィシャルインタビュー

「内向的なイメージ」とaiko本人が明かしているように、この曲は当初はややネガティブ寄りの意味だったのかも知れない。それがトオミ氏のアレンジが意味を塗り替えたのである。
これはシンプルにすごいことで、歌詞は詩文に属する文学である(と私は思っている)が、それ以前にあくまで“音楽”だからこそ、アレンジで歌詞の世界観が変容できるという特殊な文学なのだ、と言うことを改めて感じ入った次第である。

アレンジを「少し前向きさも感じさせてくれる」と話しているように、作者であるaiko自身もこの、一見すると絶望を表しているような「あたしはあなたにはなれない」から始まる歌詞も、少し前向きに捉えられるようになったのではないだろうか。
気持ちがプラス寄りか、マイナス寄りか。正直聴く側によってはどっちにでも取れる歌詞だが、作者たるaikoはアレンジによって最終的にはプラス寄りを採用した、と言える。よってこの曲は全編に渡って切なさがありつつも、トータルで見れば込められたものは前向き、と言えるのだ。それが出来たのはトオミ氏のアレンジが切なくも最後は明るく、しっかりと前を見据えているようなものだったからだ。
これが音楽の成せる業かと深く息をついてしまう。本当に、「アップルパイ」の件に続きありがトオミヨウ!(?)と思わず言ってしまいたくなるものだ。我々ジャン花はトオミ氏に足を向けて寝られない。

aikoの歌い方についての言及も、この後に続く。

普段だったらロングトーンにするところも、今回はあえて使わない歌い方をしてみました。“あなたにはなれない”の“なれない”をちょっと短めに歌ってみたりとか。レコーディングしながらいろいろ試したんですけど、そういう歌い方をしたほうが心の中で思っている台詞みたいになる気がしたんです。
心の中の気持ちが思わず漏れてしまったような最初の歌い出しが、最後のサビでは自分の意思で言葉になったという流れもなんとなくイメージしていました。自分でしかわからないことかもしれないけど、今までとはまたちょっと違う歌い方ができてよかったなって思います。これからも歌の勉強は続くなって感じですね(笑)

オフィシャルインタビュー

今回繰り返される「あたしはあなたにはなれない」というフレーズだが、あくまで「あたしが一人で勝手に思っていること」で、相手に知られるわけではない。

歌い出しはaiko曰く、心の中にあったものだったそうだ。だから少し寂しげというか、最初はあくまで「一人」なのだ。一人で思っているものだから寂しいのかも知れないし、曲にうずくまっている切なさも、最初はとても大きい。それこそ曲の世界を支配するレベル勢いで。
しかしそれが最後のサビで「はっきりとした言葉」になった。心の中にあったもの、ぽろっと零れてしまった気持ちの正体が何なのか、大サビに至るまでに確かめていって、最後にははっきりとした形を持った、あたしの中で何か明確な意志を持った発言になったのではないだろうか。

それはシンプルに書くと、「あなたはあなた、あたしはあたし。違うから、あなたにはなれないからこそ好きだし、あなたのことをこんなにもわかりたいと思う」ということだ。aikoがラジオなどで語っていたことそのものである。言ってみれば、あたしはあなたのことを、こんなにも「好きなんだ」「愛しいんだ」ということを声に出して確認するような大サビなのだろう。

アウトロが明るいマーチングのようなドラムで終わってるのも、その気持ちが確かに息づいている、心臓のように鼓動している、生きている気持ちであることを表現しているようでもあるし、前へ前へ進んでいこうとしているのを表しているようで、とても良いなと私個人としては最初に聴いた時から感じている。本当にトオミさん、素晴らしいアレンジをありがとうございます。

非常にメタ的な見方をすれば、劇場版名探偵コナンの曲で、更に両片想いのカップルである平次と和葉にスポットが当たる作品なのだから、失恋系の曲で主題歌を飾るのは避けた方がいいのではないかと思う。ラジオでの発言からaikoはタイアップのことを知って曲作りをしていたし、更には平次と和葉の話ということも知っていたので、この二人、ひいては主人公カップルの新一(コナン)と蘭のことも念頭にあっただろう。
だからもしちょっとでも悲恋を思わせるようなアレンジだったら、さっきも書いたがこの曲は主題歌としては採用されなかったかも知れない。ちょっと別の曲にしようかとaikoの中でしまわれた可能性はやっぱりあった、と言えるだろう。曲の運命を左右したどころか曲の命を救ったと言ってもいいトオミ氏にはやはり改めて感謝を伝えなければならない。ありがトオミヨウ!(だからなんだそれは)

しかし、映画でスポットが当たり予告編でも大きく取り上げられている平次と和葉のことを思うと、どうにもすれ違ってしまうことの多い二人だからこそ、「相手のことがわからない」「相手になってわかることが出来ない」ということを歌った「相思相愛」は、主題歌として非常にベストな選択だったのではないだろうか、と思う次第である。


Music Voice

――「相思相愛」は劇場版「名探偵コナン 100万ドルの五稜星(みちしるべ)」主題歌。すごく切なくて、愛らしい“相思相愛”だなと感じました。

このタイトルは曲が出来た後に付けたんですけど、とてもしっくり来た感じがしました。“相思相愛”という言葉は相手に対して好きという気持ちだけでなく、尊敬の気持ちがないと言えないような気がしていて。この曲が完成した時「あなたをとても大切で大好きで尊敬している想い」でいっぱいの曲だなって。

Music Voice

こう本人が語るように(そもそも語義的にもそうなのだが)「相思相愛」はあなたが愛しくてたまらない、という曲なのである。

――“好き”と”尊敬“はいつも共存している?
私はそうですね。「好きだな」と思うときって、必ず尊敬の気持ちが入っているので。

Music Voice

まさしくaiko学の基礎とも呼べる基本思想である(aiko学?)

ただ、どんなに好きでもすべてが重なり合って、分かり合えることってないじゃないですか。パズルの隙間があいてるような感じがいつもあって...。たとえば相手の人が「おなかが痛い」って言ったとき、「大丈夫?」って心配することはできるけど、どれくらい痛いのか、どんなふうに痛いのかまではわからない。そういう小さいことからはじまって、“一緒になれない”という切なさを描いた歌なのかなと。

Music Voice

これはまさに、「湿った夏の始まり」(2018年)発売時の「音楽と人」のインタビューで「だから」について語っていることとほぼ同じことを語っている。

例えばとても好きな人がすごく泣いてるとしますよね。その人がもう声をあげるほど泣いていたら、自分は触れるしかできないなと思うんです。隣で一緒に泣くこともできないし、気持ちをすべてわかってあげることもできない。明日になったら忘れてるかもしれない。でも今あなたのことを想っているこの気持ちを伝えるには、触れたいし、触れなきゃわからないと思ったんですよね。

「音楽と人」2018年8月号

私はこのインタビューでの発言がものすごく好きなのでことあるごとに引用しているが(そのつもりだけど、言うほど引用してないかも知れない)「だから」について触れるのはここまでとするが、「だから」には「あたしはあなたにはなれない」と酷似した、というかほぼ同一のフレーズである「あたしはあなたになれない」が出てくるので、まだ聴いたことのない方には是非聴いてもらいたい一曲である。

自分が相手になれないこと、相手ではないこと、それ故に完全には相手のことをわかりえないという絶対的な不理解については、今挙げた「だから」や「戻れない明日」など過去曲で既に扱われている題材である。
「戻れない明日」も「だから」もそれぞれに別のテーマがあり、違うものを描いている。では本作「相思相愛」のテーマは何か。それはもう、aikoがここで「切なさを描いた歌」と明言しているように、ずばりシンプルに「切なさ」なのではないかと私は考えている。ラジオのコメントを集めた記事の「相思相愛の証言」の最後の方にも少し触れたが、根本的な不理解への「切なさ」に特にフォーカスして描かれた一曲ではないかと、そう思うのだ。
「相思相愛」という曲の最も表層にあるものは「切なさ」である。そう言いたい。それ故に、両想いの曲であるのに、最初はどうしても切なさとそれに付随する寂しさや悲哀が拭えないのである。

Music Voiceのインタビューはまだ少し続くが、おおむねオフィシャルインタビューで言及したことと同じになってしまうので割愛する。是非読めるうちに全文のご確認をお願いしたい。


ラジオでのコメントあれこれ

せっかくラジオのコメントを集めて回ったので、今回いくつか引用していきたい。

ROCK KIDS 802 -OCHIKEN Goes ON!!-(4/15)

aikoの新曲フル解禁と言えばここ、と言ってもいいほどにすっかりaikoとジャン花ズ御用達のFM802の番組である。フル配信後、初の生放送でコメントを語ったのは確かここだったように記憶している。

歌詞の中では「あたしはあなたにはなれない」って歌ってるんですけど、でも、それぐらい思ってるんですよね。もう、全部を知りたい。全部を重なったらいいのになって言う。

ROCK KIDS 802 -OCHIKEN Goes ON!!-

aikoが語るように「全部を知りたい」だけど「なれない」でもそれがイコール、相手のことがものすごく好き、ということなのだ。

体が疲れてるとか心が疲れているのも全部重なり合ってわかれるくらい(注:わかりたいくらい)その人のことを大切に想うからこそ、なれないことが悲しいっていうか、どこかすれ違ってしまうのが悲しい。

ROCK KIDS 802 -OCHIKEN Goes ON!!-

自分が相手にはなれない、相手が自分ではないからこそ、恋愛であろうと友情であろうと家族であろうと、人はすれ違ってしまう。その悲しさと切なさをaikoは伝えているのだが、言うなればそれらがこの曲の一番上のレイヤーとなっているのだ。
だが、そもそもそうなるのは相手のことが「好き」であり「大切」であるが故なのだ。ここを忘れてはいけないのだけれど、既に書いたように歌詞の上ではその説明は省かれている。歌詞だけ(特に一番だけ)受け取っているとやはり失恋と誤解されそうである。
その為にラジオのコメントを集めてTwitterに聞き取りを載せて、それが少し回覧されたので多少は理解の一助になったかなあと思っているのだが……私が一番欲しかったのはAメロとBメロについての言及だったんだよな……と少し懐かしくなってしまった。

BRUNCH STYLE(4/17)

この番組は番組全体がコナン特集だったため、aikoのコメントもコナンについての言及が多めだった。タイアップ先を意識しての曲作りがなされたということも伺えたのだが、考えてみれば作品に沿ったものはあまり作らないaikoにしては珍しいタイプの曲だったのだなと今更思う次第である(まあ映画の内容と言うよりは平次と和葉のカプに合ってる感じか)

今回のコナンは和葉ちゃんと平次くんのお話でもあるんですね。蘭ちゃんと新一くんもそうなんですけど、分け合ってるけど(注:おそらく「わかりあっている」だと思う)なんかすれ違ってしまうみたいな。でも気持ちは絶対にお互いの心の中にあるっていう、この気持ちってすごく大切でピュアで、ドキドキして、めっちゃよくないですか。

BRUNCH STYLE

そう。お互いを想う気持ちを決して否定しているわけではない。すれ違うけど、切ないし悲しいけど、でも好きだよ、と、「相思相愛」はそういう曲だと言っているのである。aikoも「めっちゃよくないですか」と心情こもって言っているのがとてもよかったコメントだった。

私も和葉ちゃんと平次くん、蘭ちゃんと新一くんみたいな、何かこう、想い合ってるけどどこかですれ違ってしまう、切ない気持ちみたいな、自分の中にある気持ちを曲にしたいなと思っていたので(後略)

BRUNCH STYLE

なんかもうこのコメントに「相思相愛」の真相が凝縮されているような気がする。そうだね、aikoが一言で言っちゃってくれてますね、読解ここで終わってよくないですか?(よくない)
よくないので続けるが、でも本当に一言で言えばこうなのである。「想い合ってるけどどこかですれ違ってしまう、切ない気持ち」が歌詞を深く読み解く前からもなんとなくわかってしまう、「相思相愛」を端的に表している一番の言葉である。

SATURDAY A MUSIC ISLANDS AFTERNOON EDITION(4/20)

集めたコメントの中で一番深遠なものがあるなと感じたのがこちらの番組での発言だった。

aikoの思う相思相愛はどういう状態か→自分で相思相愛と思ったことはないかもしれない
そう思いたいなとか、傍から見てたら相思相愛に見える、そんな二人になれたらいいなみたいなんはあって、自分でそうなってるなと思ったことはない。

SATURDAY A MUSIC ISLANDS AFTERNOON EDITION

正直、お前……(^ ^)と思ってしまったところでもある。そういうところだよ!まあこういうところがaikoなんですけど(この文章、何?)(いる?)

なんかその人のことを思えば思うほど分かり合えないことがすごい寂しくなったりするっていうか。好きな人と全部重なりたいけど、きっと私はこの人にはなれないなーっていうので浮かんだんですよね。

SATURDAY A MUSIC ISLANDS AFTERNOON EDITION

「この人にはなれないなー」という言葉には相手への尊敬と自分への諦観が入り込んでいるなと、ふと感じた。「相思相愛」における「あたしはあなたにはなれない」は一旦置いておいて、相手が素晴らしくて立派に見えるが故に、自分がここまでなれそうもない……という気持ちを感じたことは人間生きてきて一度や二度はあるだろう。ここのコメントにはその類の気持ちが滲んでいるように、今この記事の下書きを書いている時点でふと感じたのである。

「相思相愛」の「あたしはあなたにはなれない」の方に戻るのだが、今まで何度となく確認してきた、相手になれない、わかりあえないことの寂しさや切なさがここでも言及されている。でもそれは、これも何度となく確認してきたことだが、裏返せば相手のことがものすごく好き、ということだ。

(相思相愛というタイトルだが切なさとか、あたしはあなたにはなれないというのは、すごく相手へのリスペクトを感じる)
そこから「あたしはあなたにはなれない」が浮かんだので、悲しい失恋の曲ではなくて、尊敬して向き合えてると信じてるからこそ、すれ違う瞬間に感じるはっ…みたいなそういう気持ちが曲になりました。

SATURDAY A MUSIC ISLANDS AFTERNOON EDITION

さっきの番組のコメントでも真相を凝縮したコメントがあってここでもう読解終わるかガハハとなっていたわけだが、ここで語られている「向き合えていると信じているからこそ、すれ違う瞬間に感じるはっ…という気持ちが曲になりました」も、まさしく「相思相愛」の真相が凝縮されている。
ここがこの曲における真の主題……はちょっと言い過ぎなので、もう一つの主題ではあるまいか。ということで読解ここで終わってよくないですか?(よくない)

でもaikoの言ったことには、誰しもそれこそ「はっ」となるだろう。恋愛だけに限らず、どんな人間関係においても永遠にある課題と言ってもいい。
違う人間で、相手になることは出来ないし、相手の考えだって、全てを完全に理解することは出来ない。「戻れない明日」ではないが、「あたしはあなたじゃないから」──つまりは誰だって違う人間なのだ。
違う人間だからこそ、相手を想う「思いやり」「想像力」が常に必要になってくるし、相手に自分の気持ちを「伝える」ことだって同じくらい大切になってくる。この不理解への「はっ」とした気付きを、常に忘れないようにしたいと改めて思う。

α-STATION SPECIAL PROGRAM 『aiko Drops』(9/13)

配信リリース時に集めたラジオコメントだけで先に進めようとしていた頃、「相思相愛」も収録されているニューアルバム「残心残暑」のPRでのラジオ番組を聴いていた時につい聴き耳を立ててしまったコメントがあった。
それがこちら、京都のFMで放送された特別番組なのだが、aikoをインディーズの頃から知るパーソナリティだからこそのコメントと、それに対してのaikoのコメントが心に残ったので、是非引用しようと思い書き取った。

(絶対に同じにはなれないというのはずっとaikoの中に(他の曲でも)あったけど、「相思相愛」において、不安でもあるけど、それを受け入れた感じがある、と言われ)
そうかもせえへん。絶対同じにはなれないっていうの、昔はそれを悲しいと思ってたけど、今は、だから相手に想いが届くように一生懸命、触れ合おうというか、言葉や仕草や、いろんなもので相手に自分の想いを伝えようって思うようになりました。

α-STATION SPECIAL PROGRAM 『aiko Drops』

短いコメントで「相思相愛」について何か画期的な閃きをもたらしてくれる発言をしているというわけではないが、作者たるaikoが“「同じになれない」こと、そのことへの不安を受け入れたこと”について「そうかもせえへん」と答えているのが私にはすごく印象的だった。
そしてその上で「だから相手に想いが届くように一生懸命、触れ合おう」「自分の想いを伝えよう」と答えていることも、とても前向きだと思ったし、私が好きな「音楽と人」の「だから」のコメントにも通じるものがあるとしみじみ感じ入った。
「相思相愛」もこのコメントのように、相手への愛や好きという想いを諦めたり、うち捨てたりするわけではない。「あたしはあなたにはなれない」から、あたしはあなたにもっと想いを届けようとするし、あなたの気持ちだって、わかろうと必死に心を砕いて努力する。きっとそうなのではないだろうか。

資料読みまとめ雑感

「あたしはあなたにはなれない」──違う人間同士であること。あたしはあなたじゃない。過去の曲「戻れない明日」や、既に書いたが、それこそ「あたしはあなたになれない」と同じフレーズが出てくる「だから」で歌われたモチーフが時を越えて再び登場した。それも今回は大ヒット確実の映画作品のタイアップとしてである。「戻れない明日」や「だから」以上に聴かれること間違いなしの曲に、aikoはaikoの哲学を、彼女独自の思想を思いっきりぶつけてきたわけである。

インタビューを読んできた限り、「相思相愛」は、強く想うからこそ完全には分かり得ないことへの「切なさ」を一番上のレイヤーに置いてる。そこに焦点を強く当てているようだし、この点は概ね理解していただけるのではないかと思う次第である。
「切ない」、は言うまでもなく、aiko曲のあらゆる場面にある感情である。作家としてのaikoが一番興味を寄せている感情でもあるんじゃないかと、個人的には思っている。
そんな、aikoが何度となく歌ってきた想いを、ここまで揺るぎなくキャリアを積み上げてきた彼女が歌い上げる。タイアップ先の映画のヒットに合わせて楽曲もヒットを記録し、老若男女を問わず幅広い世代の人々に聴かれた。収益面でも楽曲面でも、勿論歌詞の面でも、間違いなく至高の一曲になっていると思う。

aikoも言っているように、一聴するとネガティブな言葉のように聞こえるが、失恋の曲ではない。
確かに「本当の意味で全てを理解できない」ということは絶対に覆せないもので、悲しみと切なさ、やるせなさを生み出すものだろう。でもそう思ってしまうのは、aikoが何度も語っている通り、その人のことが好きで、尊敬していて、全てを理解出来たらどんなにいいだろうと思うからだ。それは間違いなく深い愛に他ならない。

一見すると恋が散ったようにも取れるフレーズや段落もあるし、aikoもひょっとしたら元々はそういう気持ちが強かったのかも知れない。トオミ氏の見事なアレンジがなければ、歌詞について語る時、その世界観に多少は後ろ向きな発言をしていただろうし、私もaikoに従ってそういう風に読んでいたと思う。

しかし、アレンジによって歌詞の方向性が変わったのである。これは一種の奇跡ですらある。トオミ氏がaikoの了承を得て前向きなアレンジに挑戦したことによって、元々歌詞にあった悲愴感を払ったのである。aikoが語る歌詞の世界や込めたものも一気に前向きなものになった。
これは歌詞が文学である前に「音楽」だからこそ起こった奇跡だ。aikoは「ライブで歌っていくことで歌詞に込めたものがどんどん変わっていく」と、思い出が蓄積されて曲の景色が変化していくことをよく話しているが、正式にリリースされる前でもそうなのだ。歌詞は確かに文字で書かれたひとつの文学であるが、やはり音楽の一部であることは見逃せない。私はそれほど音楽面に詳しいわけではないので深く語ることはないのだけれど、今後の読解の際はもう少し注目していきたいところである。

「名探偵コナン」における二組のカップルのことと、主題歌であるということについて

想い合っていてもすれ違う。ズレが生じる。
それはタイアップ先の作品のカップル(新一&蘭、平次&和葉)にも通じる。以前「相思相愛の証言」でも書いたが、新一(コナン)と平次が犯人や怪盗キッドと壮絶なバトルを繰り広げていても、それもある意味蚊帳の外である、一応は一般人の蘭と和葉には知り得ないことである。

そもそもにして、恋人の新一がコナンという少年となって蘭のそばにいる、という作品の根幹にある重要な事実も蘭は知らないわけで(コナンは私のメインジャンルじゃないので、私の知らない展開があって実は知ってたら申し訳ないですが……)コナンのことを伏せている新一の不審な言動に蘭が切なさを感じているのならば、この上なく「相思相愛」のあたしにリンクしていると思うのだが、どうだろうか。
そして、そういう不理解が横たわっていても、変わらず蘭が新一のことを信じて好きでいるのならば、最後には前向きな気持ちで終わっていく「相思相愛」という楽曲はやはりぴったりだったように思う。

映画でメインとなるカップルの平次と和葉にしてもそうだ。お互いに想い合っているのに付き合っていないという、いわゆる“両片想い”の関係であるのに、告白しないからこそ両片想いの状態で、はっきりとしたところがわからない二人なのだ。
ある意味、「相思相愛」に込められている「(こんなに)想い合っているのに気持ちがわからない」というテーマを一番に体現している二人とも言える。それを考えると「相思相愛」はものすごく作品、というか未だにすれ違っている平次と和葉のカップルにも相応しい主題歌だったのではないだろうか。

ところで、「相思相愛」をコナンの劇場版主題歌として出してきたのは、新一と蘭、平次と和葉のことを抜きにしてもある意味大正解である、と私は思っている。
「相手のことがわからない」──本当のところ、真意と言うもの、あらゆる感情、そういうものは、究極のところ本人にしかわからない。
というのは、見方を変えれば究極のミステリでもあるように思わないだろうか。ずっとずっと、解くことの出来ないミステリー。「名探偵コナン」は様々な思惑と人間関係が交錯する、スリルとサスペンスに溢れたバトルアクションである前に、そもそもは推理を楽しむミステリ作品ではなかっただろうか。
そういう意味で、実は「相思相愛」は非常に原始的なところで、実に作品に相応しい主題歌だったのではないか、と思う次第である。

さて、コナンのことも含めて長々と書いてきたが、最新シングル曲であり、ラジオでのコメントも沢山集めていたお蔭でここ最近では一番の資料の充実ぶりで、たっぷりと前情報を蓄えられた。
歌詞本編という未だに謎──ミステリがてんこもりの山に登って、この「相思相愛」の世界を自分なりに紐解いていきたい。


歌詞を読む・歌い出し&一番

ぽろりと落ちたひとかけら

 あたしはあなたにはなれない なれない
 ずっと遠くから見てる 見てるだけで

今更だが、この曲はこのフレーズからスタートして終わる曲である。この歌い出しについてはオフィシャルインタビューにて「心の中の気持ちが思わず漏れてしまったような」とaikoは話している。言ってみれば、出すつもりはなかったのにうっかり声になって、ぽろっと出てしまったような、そういう感じであろうか。

「ずっと遠くから」あたしはあなたを見ている。付き合っていても、それこそ相思相愛という両想いな状態でも、この、相手には「なれない」ということ、「違う人間」で「全部をわかることは不可能」という揺るがしようのない事実に気付く時、人ははてしない距離を感じてしまうのだ。
そういう状況において、あたしは「見る」ことしか出来ない。想像するしかないが、でも実際そうではないだろうか。こうなった状態で出来ることなんて、本当に呆然として見ているだけというか、一人立ち尽くすよりないのではないか。

この歌い出しの空間は、おそらくあたしが「一人」、ひとりぼっちでいる状態なのだ。どんな経緯があってこう思ったのかは、それは人それぞれ自由に想像出来るけれど、一見絶望にも思われるこんなフレーズを、心の内に留めることも出来ずにぽろっと零してしまうくらいなのだから、あたしが切なさの極みにいたのは間違いない。

今のあたしの話をしている

一番Aメロを読む。運の悪いことにaikoが何のコメントも残してくれなかったので(どっかで発言してたらごめんなさい)全て私の読解力(ぢから)に委ねられることになってしまった問題の箇所である。ここの段落は気に入らなかったら全然読み飛ばしてくれても構いません。

 どこかにある地球の
 違う場所で息をして
 どこかにある宇宙で
 キスをして泣いている

本当にこの曲で一番謎……どころか、近年のaikoで一番謎、と言ってしまってもいいかも知れない。何の手掛かりもないのだからどうしようもない。

ただ最初に聴いた時からなんとなく考えていたこととしては、「どこかにある地球」「どこかにある宇宙」という表現なので、ひょっとするとパラレルワールドのような場所を指しているのだろうか、ということだった。これはあくまで「仮定」であり「想像」ですよと、あたしがわざと曖昧にしてしまっている。そう考えた。なので、これは「もしもの話」です、ということだと思っていた。
ただし、当初は、である。そう、歌詞読みを本格的に行う直前まで、わりとその方向性で行こうと思っていたのである。

しかし、一番の歌詞を熟読していると、このAメロの部分だけを架空の世界として歌うことに何の意味があるのか、歌っても別に構わないが、どうにも不自然ではないか、と違和感が生じ始めた。
ではどう読めば無理がないのか。それは、架空でもなんでもなく、「現在の自分」の描写として読むことである。俯瞰で今の自分を見て淡々と描写している様子だと思うと、わりと腑に落ちるように読めるのだ(あくまで私には、であるが)

キスをするくらいの両想いが成立している仲でありながら、一方で相手のことを想い過ぎて、完全には理解することがどうしても出来ない、そんな僅かな隙間でさえ切なくて悲しくてたまらない。そう思って泣いてしまう。そんな自分もいる。これはどう考えても別世界にいるもう一人の自分とかではなく、「今ここにいるあたし」のことを描写しているはずだ。

何億光年向こうの”ここ”から

では何故わざわざ「どこかにある地球」「どこかにある宇宙」という表現を置いているのだろう。
それについては歌い出しの「ずっと遠くから」が唯一の根拠になると見ている。あたしの感じたこの「ずっと遠く」とは、それこそ(アンドロメダではないが)何億光年向こうにあるような、今ここで喩えに出しているような「どこかにある地球/宇宙」くらいの「遠く」ということなのではないだろうか?

それくらい遠くにいる。まるでここから遠く離れたもう一つの宇宙にある地球にいる。そう思ってしまうくらい、あたしは「あなたにはなれない」ことに果てしない切なさを感じてしまって、何もかも全て放り出しているくらい、呆然としてしまっているのだ。

これは、あまりにもとてつもないことではないだろうか。程度においてもそうだし、表現においてもそうだ。aikoが今までしてきた表現とは一線を画する、と感じている。一番Aメロというスタート地点がそんなにもとてつもない切なさの果てで、マイナスもマイナスに振り切ったところにしてしまった。少し話は逸れるがそんな曲をコナンの主題歌として提案したaikoどうなっているんだとも思うし、これにOKを出したコナン制作陣もとんでもない傑物だとも思う。aikoのことをものすごく信頼していないと出来ない話である。

ともかく、そんなくらいあなたと距離を感じてしまっているのだ。「宇宙」と表現されていることで、音もしない光も見えない冷たい空間にポーンと弾き飛ばされたようにも思う。
「仮定」の話をしていると見せかけて、その実今の自分のことを歌っていた。あなたになれないことが、理解出来ないことがこんなにも辛い。あたしが感じてしまった距離は、想像を絶するレベルであまりにも果てしない遠さだった。

一生追いつけない片想い

ここはaikoが言及してくれているので、それに沿っていこうと思う。

 楽しい事をあなたと沢山した
 苦しい胸も幸せだったけど
 もう何もかも海の中
 粉々になった言葉も指も全部

「一生追いつけない片想いのような気持ち」とaikoは話していた。それを読んで腑に落ちたのだが、両想いとはある意味究極の片想いのようなところがあるような気がした。
お互いがお互いのことを好きで、いろいろ理解もし合っているけれど、それでもまだわからないことがあったり、すれ違ったりもする。それは捉え方次第ではあるが、悲しく感じる人もいるかも知れない。「相思相愛」のあたしは、悲し過ぎる捉え方をしているのである。それがこの一番Bに表されている。

相手になれないし、相手のことがわからない。そういう絶対的な相互不理解を自覚することによって、これまで経験してきたいろいろな楽しいこと、嬉しかったこと、苦しかったことも含めて「幸せだったこと」(「カブトムシ」の「強い悲しいこと全部 心に残ってしまうとしたら それもあなたと過ごしたしるし そう幸せに思えるだろう」である)が、その「あなたにはなれない」という事実たった一つだけで全てが粉々になっていく。そんな極端な、と思ってしまうのだがどっこいaikoの曲は大体極端なのである(本人もまあまあ極端である)(※個人の感想です)

「もう何もかも海の中」とあたしは歌うが、最初に聴いた時から私には海の中でありとあらゆる思い出や大切なものが散り散りになっていきやがて消えてしまう、そんなイメージを持っていた。そんなのって、いくらなんでも切な過ぎるし悲し過ぎやしないだろうか。
大体こんな風に思ってしまうのは、心の中にあった不安をついうっかりこぼしてしまったように全部あたしが一人でいるから悪いのではないだろうか。そう、読む限りおそらくあたしは一人で、一人ぼっちでいるようなのだ。

というのは実は言い過ぎで

 あたしはあなたにはなれない なれない
 ずっと遠くから見てる 見てるだけで
 月と目が合って笑う

あなたにはなれない。その切なさがどれほどのものだったかを、AメロBメロに渡って表現した。正直私の想像を遥かに越えるもので、軽率に触れてしまってはいけないものだったように思う。
まさか「どこかにある地球」「どこかにある宇宙」を持ち出してくるレベルとは思わなかった。「どこかにある」は仮定と見せかけているだけ、と書いたが、それでもやっぱり、あたしはまるで別世界や異世界にでもいるように感じているのではないだろうか。

さてこのサビは歌い出しとほぼ同一なのだが、違う部分がある。「月と目が合って笑う」だ。
正直、「笑っとる場合か~~~~!!!!👊👊👊👊👊」と思わずツッコんでしまいそうなのだけれど、今回読んでいてふと閃いたことがあった。

と言うのも、ここで「月」が出てくることによって、どこにあるのだかわからない地球だか宇宙だかから、急速に地に足の着いた現実に戻ってきたような感じを覚えたのだ。
「どこかにある地球」ではなくて、今の、この天の川銀河太陽系第三惑星である地球にいるあたしに、意識がシュルシュルシュルと戻ってくる。思い出やいろんなことも海の中で粉々になっていないし、あなたから貰った言葉も指の感触も、全部覚えている。
まるで夢でも見ていたかのように感じて、あたしは現実をひとつひとつ確かめているかも知れない。大袈裟に考えて一人で勝手に落ち込んで沈んでいたそんな自分を、月が見下ろしているような、そんな様子が見えてくるサビ後半である。
「笑う」の主語がどちらにあるのか、それによって意味も若干変わってくるのであるが、月もあたしも二人とも笑っているように思う。でも主語的にはあたしの方に寄っているように思う。「何を大袈裟に考えているんだか」と失笑しているようなイメージであり、月もそれに合わせてふふっと笑うような感じだ。

雑に言ってしまえば、この一番サビの「月と目が合って笑う」を出すことによって、それまでは全部「考え過ぎただけです」という風に捉えられる。「というのは実は言い過ぎで」というフレーズで、それまでの全ての描写を一旦無に帰す表現を成した谷山浩子の名曲「意味なしアリス」と並ぶ手法ではないだろうか(「意味なしアリス」を知らない方は是非検索して歌詞をお読みください)(でも出来れば歌詞知らない状態で曲を聴いて欲しい~~!! その方が絶対びっくりするから~~!!)

サブスクがないので…YouTubeで見つけたもので…せっかくなんで聴いていってください、なおaikoとも相思相愛とも全く関係ありません。

永遠に続く未解決問題

だが、「考え過ぎました」だけで片が付けられる問題ではない。ここまで考えてしまうだけのものが、aikoがコメントしていた通り確かにあるわけだ。そのことは全然、笑い事でも何でもないのである。
そもそもにして、どうすることも出来ない問題だ。あたしがあなたになれるはずがないし、あなたの気持ちを全てわかることも不可能だ。絶対的な不理解について、横たわるその大きな問題から生じる切なさを、我々はどうしていくべきなのか。理解し合えないからと、全部諦めてしまうのは果たして正解なのだろうか?
それに焦点を当てていくのが二番なのではないだろうか。……それにしてもよくネタで言われる「ここから入れる保険があるんですか!?」とはaikoで言うならばまさかのこの曲か、とも思う。えっ!!ここから入れる保険があるんですか!?

一番まとめ・切なさの最果て

読んで字の如くここまでのまとめであり、しかしダイジェストというよりはちょっと真面目度を上げて書いた段落である。

「あたしはあなたにはなれない」心の中にあった想いがぽろりと零れてしまった。そんな思いがけないことから、この曲は始まる。
ずっと遠くから見てる。あたしは気付いてしまった。どんなに好きでも、想い合っていても、本当の意味で相手を──あなたのことを完全に理解することは出来ない。それは、なんとやるせない事実であろうか。
好きなのに。大好きなのに。あたしは立ち尽くすだけ。そんな状態で出来ることなんてただ、全てをわかり得ない愛しき人を見つめるだけだ。それもずっとずっとずっと遠くから。

呆然とし続けるあたしは、今のあたしを俯瞰するようになる。ずっと遠くからと歌ったが、彼女が考えるその「ずっと遠く」は私達の想像を軽く凌駕する。「どこかにある地球」「どこかにある宇宙」別世界にしろそうでないにしろ、それは何億光年先にある地平だ。キスをするくらいの両想いの相手がいるというのに、それなのに、それでも完全に理解し得ないことが──僅かな隙間があることが悲しくて、あたしは一人泣いている。
架空の場所を示しながら、今のあたしのことを歌っているのだ。それくらいあたしは、果てしない切なさを感じて一人途方に暮れているのである。

こんなに好きなのに、相手の痛みも悲しみも苦しみも、相手の思う通りに全部わかってあげられることが出来ない。そんな、どうしようもない絶対的な不理解は、作者のaiko曰く「一生追いつけない片想いのような気持ち」を生み出していく。それは楽しいことも、苦しくも幸せだったことも、全てこなごなになって海の中で散り散りになっていく。あなたからの言葉も、繋いでくれた指も、何もかも全て。
それはとても極端な現象である。きっとあたしは今“一人”でいるのだ。いっそ“独り”と書いた方が正しいだろうか。一人でいるあたしの果てしない切なさによる静かな圧迫は歯止めがきかない。
一人でいるから、あなたに聞かれない状態だから、全てのはじまりである「あたしはあなたにはなれない」が出たのだし、それが転がり出てしまったのも、寂しさや切なさと言う、一人だと余計に強まる感情ゆえではないだろうか。
一人の時間は、もう少し続く。

あたしはあなたにはなれない。その切なさがいかほどのものだったか。あたしは異世界か別世界かと思うくらいのとてつもない遠さを感じながら、一人莫大な切なさを持て余す。このまま、あたしは下り続けてしまいのだろうか。
しかしここで、あたしでもあなたでもない第三者が歌詞の世界に入り込んでくる。それは天上に浮かぶ月だ。まるで真っ逆さまに落ちていくあたしを穴から覗き込んでいるみたいに、それこそ世界に穴を開けるように入り込んでくる。

「どこかにある地球」でも「どこかにある宇宙」でもなく、今の、この地球にいるあたしに意識がようやく戻ってくるのである。
「笑う」は、思えばここま読んできた中では明確にプラス寄りの仕草である。月も笑っているように思えるし、あたし自身も笑っているように思う。
要は私も「極端!」「大袈裟!」と言っていたわけだが、現実に帰ってくることで深刻に考え過ぎていたことにあたしも気付くわけである。だから、その自分の大袈裟さにある意味軽く笑い飛ばすような、あるいは嘲笑うような……いや、自分を少し恥ずかしく思うような、そんな笑みだろうか。

しかし、あたしがまるで別世界に飛ばされてしまったくらいに考えてしまうだけのものが、両想いの、それこそ“相思相愛”な仲にも存在するのである。実際、全然笑い事でも何でもないのだ。
どうすることも出来ない、太刀打ちできないその問題を、我々はどうするべきなのか。全部諦めてしまっても、本当にいいのだろうか。


歌詞を読む・二番

そんな世界はどこにもない

 本当は無い世界に
 思い切り手を伸ばして
 本当は無い暗闇
 目を瞑り怯えてる

「本当は無い世界」「本当は無い暗闇」と、ある意味一番Aと似たような舞台が登場する。「どこかにある地球」も「どこかにある宇宙」も本当は無い世界であった。
だがここは言葉通りに受け取って読みたいと思う。あたしが望む「本当は無い世界」とはどこなのだろう。それは自ずから浮かび上がってくるだろう。「相手のことが全てわかる世界」だ。だがそんな世界はどこにもない。

でも、あたしは手を伸ばす。わかることが出来たらどんなにいいだろう。全部わかりたいと思うその理由はただ一つにしてシンプルで、あなたが好きだから、だ。ただそれだけだ。ここにあるのはひたすらに純度の高い想いである。

では対で歌われる「本当は無い暗闇」はどうか。こちらも言葉通りに読もう。
考えるとして、一番全体で歌われていた“不安”が挙げられると思う。いや、不安はあることはあるのだが、そこから考え過ぎて穴を掘り続けて、その穴の中に落ちたことで齎される闇、だろうか。そう私は考えている。

一人で勝手に考えて真っ逆さまに落ち込んで、別れだったり歓迎しない未来だったりと、あたしは勝手に作り出して怯えている。だが、これもある意味一番のように一人で俯瞰して冷静に状況を綴っているのだ。俯瞰して見ているあたしは、一番の最後で現実に戻って来たあたしである。

そしてあたしは、想像でも恐れでもない、「今」あるはずのものにようやく目を向け始める。それはあたしだけではなく、愛すべきあなたといる現実だ。

あたしの生きる全て

 次に逢える約束の日だけでいい
 あなたの隣で素直に笑いたい
 二人の夢は秘密だと言える事だけで
 あたしは生きて来たの

これまではほとんど一人で考えてドツボにはまっていたのだが、このくだりは曲中でほぼ唯一と言ってもいいほどに「二人」で語られた段落である。
「二人でいること」──あなたといる時間、ただそれだけでいい。そうすることで、一番で歌われたような切なさの果ての暗闇は全部帳消しの幻になってしまうのだ。

逢えればそれでいい。あなたの隣で笑えたらそれでいい。誰にも内緒にして二人きりで約束した、これからの夢や未来の話、それだけでいい。たったそれだけで「生きてきたの」と言えるくらい、あたしにはあなたが必要で、大切で、生きる全てだった。
そういうことを、今あたしは鮮やかに思い出している。それはまるで冷えた体に燃える熱い血が通っていくように、あたしが生きている今の現実を、はっきりと見つめ始めていく。

これらは全て、現実にあったことだ。こういう思い出を確かに積み重ねて、あたしは生きて来たのである。海の中に粉々にして放ってしまうにはあまりにも惜しいではないか。その思い出達だって、あたしの中で生きているのだから。
何もかも終わらせてしまうには惜し過ぎる。そんな「あたしはあなたにはなれない」如きで、恋が終わってよかろうはずがないのだ。絶対に。

今 こんな恋をしている

 あたしはあなたにはなれない なれない
 心を突き放す想いに暮れるだけで
 こんな恋をした今を

変わらない真理「あたしはあなたにはなれない」は、ここでも繰り返される。その真理は変わらず、あたしの心を突き放すものだ。
人間は究極、どこまで行っても一人であって、だから一人であれこれ考えて勝手に舞い上がったり、勝手に落ち込んでしまったりする。両想いでこれなのだから、やっぱり恋ってものは究極の一人遊びのようにも思えてしまう。一人でいる間、ああだこうだと悩んだり落ち込んだりして明け暮れて、不安に苛まれたり切なくなったりと、自分勝手に上がったり下がったりする。相手がいるにも関わらず、だ。思えば、この「相思相愛」という曲はその「一人で勝手に落ち込んだり不安になったりするさま」をたっぷり見せられている歌なのかも知れない(そうか?)

でも、そう出来るくらいの──いや、そうなってしまうくらいの、大きな恋なのだ。これは。
「あなたになれたら、全部わかることが出来たらいいのに」そう思えるだけの相手と出逢えたことは、間違いなく素晴らしいことで恋をしたことも好きになったことも、全部素晴らしいと私は思う。
それは、まさに歌詞上でも「こんな恋をした今」を見つめているあたし本人も、きっと同じように想っているのではないだろうか。

二番まとめ・あたしの生きること全て

月によって現実に戻って来たあたしだが、二番Aでも自分の有様を俯瞰して見つめている。
相手のことが全てわかることが出来る、そんな世界を夢見るが、そんな世界はどこにもない。それでも「わかれたらいいのに」とひたむきに手を伸ばしてしまう。そうしてしまうだけ、彼女は「あなた」のことを想っている。それがゆえに、“本当は無い暗闇”である、自分が生み出した不安やどうしようもない切なさに囚われたり、深く落ち込んだりしてしまう。

だが、あたしが生きているのは想像でも過去でもなく「今」であって、「今」にはあるはずのものが、当然ながらある。それこそ、「あなた」がいる現実だ。あたしは一人ではなく、あなたといる時間がある。

「次に逢える約束の日だけでいい」のだ。隣で笑えれば、二人の未来を語れれば、二人で夢を作れればそれでいい。あなたと共にいることだけで「生きて来た」と、そう言えてしまうくらいに、あたしの生きること全てであったと言ってもいい。そしてそれは今も続いているのだ。一番で歌った全てが、あっという間に消えてしまうくらいには。
思い出を積み重ねて、あたしは生きて来た。「あなたにはなれない」そんな変わらない悲しい真理一つで、全て粉々にして海に散らせてしまうのは、あまりにも短絡的ではないか? 思い出達だって、あたしの中で生きているのだから。

確かに、「あたしはあなたにはなれない」し、今でもあたしの心を、遠くの宇宙まで飛ばすように突き放してくる。人間はどこまでいっても一人だ。相手のことはわからないし、恋はどんな時代でも一人で勝手に悩んで狂って落ち込んで、本当に散々な現象だ。だけどそう出来てしまうくらいの、これは大切で大きな恋なのだ。
むしろ、こんな風になれない程度の恋なんて「女には暇つぶしにもならない」(吉本ばなな「ムーンライト・シャドウ」)そうなれるくらいの相手と出逢えたことは間違いなく素晴らしいことで、恋も好きな気持ちも思い出も苦しみも何もかも、私には全部素晴らしいと思う。

そう思えた全てのきっかけは何だっただろうか。
それは歌い出し、そして全てのサビで繰り返される、あのフレーズにある。


歌詞を読む・大サビ

「あなた」に「なれない」からこそ

 あたしはあなたにはなれない なれない
 ずっと遠くから見てる 見てるだけで

あたしはあなたにはなれない。結局このことには一つも変わりなく、「なれる」日など永久に来ることはない。
しかしあたしは、その事実を受け入れたというか、「ああ、あんなことを思ってしまうほど、そしてあんなに恋しくなってしまうほど、あたしはこの人のことが好きで、この人があたしの全てだったんだ」と、一番二番を経てようやく理解したのである。

こんなにも好きなのは、「あなた」に「なれない」からこそ。
だからあたしは、この大サビで全ての発端である心の欠片を今こそはっきりと口に出す。不安と共に漏れ出た小さな呟きだった歌い出しとはもう違う。明確な気持ちとともに、今こそあたしは唱えていく。
確かに一見すると矛盾というか、どうしてこれが愛の言葉たりえるのか、という困惑はあるが、実のところはこの上ない、相手への好きの気持ちの表明であったわけだ。

約束を沢山結ぼう

一字一句まったく歌い出しと変わらない。しかし大サビはここまで紡がれてきたことの上に成り立っていて、あたしの心がどのように変化していったか、どう綴られてきたかを踏まえれば、かなり心境が変わっていることに気付くだろう。
加えてあたしを包むサウンドの点でも変化がある。歌い出しはピアノと少しのドラムの音と控えめで、それこそあたしの心の寂寥感を仄めかしていた。が、大サビではどうだろうか。ぐっと盛り上がった伴奏になっているし、aikoも歌い方に変化をつけていることはインタビューで語っていた通りである。
いろいろあったが、あたしは、きっと大丈夫なんじゃないだろうか。違う人間であるあなたと過ごす。次に逢える約束を沢山結んで、沢山笑って……そんな思い出をまだまだ沢山積み重ねる。唯一無二の恋と共に、あたしはこれからも生きていく。生かされていくのだ。

大サビまとめ・変わる見方ひとつの真実

あたしはあなたにはなれない。この曲の始まりでも同じことが歌われていた。その時のあたしはとても後ろ向きで、一番は全体的に一人で勝手に沈んでいって、何もかも手放してもおかしくない静かなる勢いがあったとも言える。
しかし二番で、それこそ坂を上っていくように、あなたといることで生まれたあらゆることを一つ一つ確かめて、あたしはスタート地点に戻ってくる。二番を経たあたしは、シンプルに言うと前向きになっているのである。「あたしはあなたにはなれない」この悲しき事実を肯定的に受け止め──いや、受け入れられるようになった。

あなたとあたしは違う人間で、なることは出来ない。でもそれゆえに、こんなにも切なく狂おしく相手を想い、相手を愛し、もがけるのだ。だから好きになれるのだ。これは恋愛だけじゃなくて、友情や家族、あらゆる人間関係に言える話である。

違う人間だから、こんなに想える。
要は捉え方なのだ。「こんなに愛しているのに、好きなのに、違う人間で相手になることは出来ないから、全部わかることが出来ないのが悲しい」と書くか、「全部わかることが出来ない違う人間で、だからこそこんなに愛してるし好きなのだ」と書くか、その違いである。言ってみれば、「相思相愛」は曲の中で向きの転換をしている曲なのだ。

タイアップ先と絡めた書き方をすると、まさに「真実はいつも一つ」なのだが、見方を変えることが出来る。あたしは変えられるだけのものを、あなたと育んでいけたのだ。
あなたへの愛は生きている。息づいている。こんなに好きなんだ。その気持ちがこの先も続いていくような、その命の鼓動を感じさせるようなアウトロで、この「相思相愛」という間違いなく愛を歌った曲は密やかに幕を閉じていく。


おわりに -相手を思い相手を愛す-

以上、2024年を代表する名曲「相思相愛」を読み解いてきた。特に一番Aがわからなくて、出来ることなら読むことは永遠に避けたい曲だったのだが、一番Aも含めて一応は自分なりに読みや答えが掘り出せたのではと思う。

ラジオのコメントも沢山集めたし、近年の曲では最も注目された曲だったこともあり、aikoをこれで知ってくれたり、他の曲も聴いてみようと思った方も多いだろうことを思うと、こうやってしっかり読んだ記事をここに公開することは、より多くの人にaikoの深遠な世界を届けられるのではないか。そう前向きにも思っている。本読解がきっかけで他のaiko曲への興味も湧かせられたのならば、書き手冥利に尽きるというものだ。
ていうか……読解中にも書いたけど、こんな一見(一聴)して誤解されそうな曲を主題歌に持ってくるaikoもそれをOKした制作陣も本当に大物だとつくづく感じた。コナンくんほどになると懐がデカすぎるのかも知れん……。来年の主題歌アーティストも誰になるのか、楽しみですね。

ところで、相思相愛の辞書的な説明は「互いに慕い合い、愛し合うこと。両思い」(デジタル大辞泉より)ということであった。「相」が「互いに」という意味だからこのような意味になるわけだ。

しかし説明を眺めていて、ふと思いついたことがある。それなら、この本来の意味にある「互いに」を取り払って、あくまで自分に即して、そして字面だけを見て言うならばどうなるだろう?
それは、「相手」を「思い(想い)」、「相手」を「愛する」ことで──まさに「相思相愛」で描かれていた、あたしの苦悩と幸福の全てである。やや反則であることは重々承知だが、その意味で言うとこの曲にとって、「相思相愛」とはこれ以上ない名前なのではないだろうか。

すれ違うこともわからないことも、それで切なくなることも悲しくなることも、相手が愛おしいからこそ。相手のことを、ひたすら好きだと思うからこそ。古語で“愛しい”という意味の言葉は、そう言えば「かなし」とも言うのであった。
だからなんだという感じの締めであるが、私もまた何度となく、そんな切なさと悲しさと愛しさを塗り重ねて、aikoを想い続けていくのであろう。

願わくばaikoも、私のことを想っていますように。そして「相思相愛」が来年も再来年も歌われていくことを願って、本稿を閉じさせていただく。


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