それでも君のいいことを -aiko「ストロー」読解-
2022年aiko歌詞研究・前期は「運命」と「ストロー」の読解で、本noteでは「ストロー」稿を掲載します。簡単なごあいさつと説明は「運命」読解の冒頭をご覧ください。
はじめに
「ストロー」はaiko38枚目のシングルとして2018年5月2日にリリースされた曲である。
近年のaiko曲の中では曲のコンセプトのわかりやすさと、メロディーの明るさやキャッチーさから一番有名かも知れない。ラジオでもよく流れている印象だ。スペースシャワーTVの特番で「渋谷の街で聞いたaikoの曲ベスト5」という企画があり、その三位にストローがランクインしていたことにaiko自身驚いていたことをaikoの詩。発売時の「音楽と人」で語っていた。
YouTubeでは上記に上げたパオパオチャンネルさんによる素敵なオリジナルダンス動画もあり、TVでの歌唱も多いと感じている。近年のaikoの代表曲というのならまさしく令和のaikoソング!とか思ってしまいそうになるが、発売は平成最後の年である2018年(平成30年)なのでちょっと惜しい。
先述したように、「君にいいことがあるように」のフレーズからわかる通り、相手の幸運や幸せを願う曲というわかりやすさのある作品だが、ならばこの曲はじっくり読むとどういうことを描いているのか、かえって気になる曲でもある。少し真面目に読んでみるとしよう。
資料を読む
2018年の曲なので、Webインタビューがさぞや豊富だろう、だから資料集めも楽~、したがって材料が揃いやすいので読解しやすいやろ、というまったくけしからん魂胆が選曲の理由の一つにあるのだが、そんな私への天罰かとばかりに、意外と見つからなかったのである。ものぐさするのはイカンというやつだ。
探し方が下手なだけだとは思うが、やっぱりこういったものを残しておくのは紙媒体が長期保存の観点においてベストなのだと思う次第である。今回あたる資料は二つあるが、どちらも雑誌のインタビューである。
好きな人にもたくさん起こったらいいな
まずは一つめ、ストロー発売時の「mina」でのインタビューだ。
こちらは音楽を専門としない女性ファッション誌である。aikoインタビューご用達と言ったところのあった雑誌であり、少なくとも2006年の「彼女」くらいの頃からお世話になっていたのだが(バイトし始めお金に余裕が出来たので、高校生の頃は買い集められなかったaiko掲載雑誌をなるたけ買うようにしていたのである)Web全盛となり雑誌冬の時代な昨今となってしまっては、掲載が随分久しいような気がする。
まあ単純に読者の年齢層とaikoが合わなくなってきたという背景もあるだろうけど……そういえば「食べた愛」も「ねがう夜」も、全然雑誌掲載なかったなあ。なのでWebインタビューページはちゃんとローカル保存、またはスクショしてます。いつ必要になるかわからんからね……。
「いつものことが特別なことに変わるような気がして」ストローを使って飲んでみるようになったと話すaiko。彼女らしい遊び心と、ちょっとでもいいから楽しさと面白さを追究したい気持ちに、ああ、aikoやなあとほのぼのしてしまう。
そして、曲が出来たきっかけとしてあらゆるところで語られてきたエピソードがここで語られている。「私にとっては元気の出る色だから」と赤色への想いを話すが、私が「aikoのメンカラは赤がいいな」(メンカラではない)と思うのは彼女がそう話しているからなのもある。し、単純に赤が似合う。あとこれは完全に個人の思い出だが、aikoファンになってから私はそれまで全く選ぶことのなかった赤やピンクといった暖色をよく選ぶようになったので、大分無意識のうちにaiko=赤というイメージがあったようだ。
そして次に語ったことは、ストローがどんな気持ちによって生まれた曲かと言うことで、いきなり核心を突いている。
もうこれだけで終わってよくない?(よくない)まさに、ストローを一聴したのちにどんな曲だったかと問うた時、このaikoの言葉を伝えれば百点満点である、というくらいにストローのテーマを簡潔にまとめているコメントである。
minaはファッション誌なので、表向きであり、aikoをよく知らない人にも向けられている、いわば対外向けのメッセージという感じである。歌番組でもこうやって紹介され、あるいはaiko自身が言っていたので、ストローの“表向き”のコンセプトとして、パッと浮かびやすい。
このaikoの語った「すごく小さなことだけど、ふとこういう前向きになれる瞬間が好きな人にもたくさん起こったらいいな」というコメントを、本稿では①とする。以降何度か①と書いて引用するので、覚えておいてもらいたい。
わからないから一緒にいる
続いて「音楽と人」2018年6月号を見ていこう。
こちらはご存知音楽誌、つまりaiko的に見れば専門誌である。minaのようなファッション誌とは違い、曲についての深い話は勿論、aikoの音楽活動から人生観についても話題が及んでいて、ストロー研究は当然のことながら、aiko自身を深く知る上でも必読と言うべきインタビューである。
というかこの「音楽と人」のインタビューだけで「ストロー」は大体のことがわかってしまって、本読解、ぶっちゃけいらない(ええ…)
なんでや!!緑いいやろ!!徳川まつりの色やぞ!!(迫真)……とうっかり関係ないことが飛び出てしまったが、「赤が出るとうれしいんですよね」「こういうちっちゃな幸せって、自分の気持ちひとつだと思うんです」という言葉から思うに、ストローで描かれていることは相手の幸せを願うこと以外に「小さな幸せ」もあるのではないだろうか。
少し後に、インタビュアが「ストロー」についての深く踏み込んだ問いかけを投げかける。この問いを見た時、お恥ずかしながら「えっ…そうだったの…?」と少し驚いてしまった。私がいかに歌詞を普段から意識しないでいたかがバレてしまったが、とても大事なことを語っているため、しっかり見ていこう。
わかりあえないから、一緒にいる。一見すると矛盾する状態だが、相手のことを知りたい、少しでもわかりたい。それこそが「好き」の一つの形だろう。
aikoはこれとほぼ同様のことと、もっと踏み込んだことを同年の「音楽と人」8月号でも述べているのだが、それは「湿った夏の始まり」の最後を飾る曲「だから」についてのコメントであった。「だから」は「ストロー」よりももっと踏み込んだ先に出したaikoの解答の曲なのだと感じる次第である。
本稿は「ストロー」についての読解なので「だから」についてはこの程度にするとして、「音楽と人」は既に述べた通り専門誌であるので、楽曲の持つテーマや世界観をより深く知れる媒体である。aikoのコアなファンも当然読むので、TVやファッション誌では語りづらい、こういった踏み込んだ話──言い換えるならば裏テーマも明かされるのである。ここで話されたことは「ストロー」の本質といっていいだろう。
ここでaikoの話したコメント、「一緒にいればいるほど<なんで?>と感じることが増えてきて。それが許せなかったり悔しかったりするけど、でもきっと、好きやから腹立つんやなとか、わかり合えないから一緒にいるんだなとか、そう思って自分を納得させようとする」を本稿では②とし、①と同様に何度か引用させてもらう。
打算のない愛
「ストロー」の代名詞「君にいいことがあるように」について、「音楽と人」ではこんなことも語っている。
いやめちゃくちゃ打算wwwと思わず腹を抱えたくなるし、この「そうやって思ってることに気づいて、ちょっと優しくしてほしいよ、みたいな(笑)」の心理が実にaikoだな……と思ってしまうのであるが、ところが「ストロー」はそうではなく「本当に心から思えるようになったんだな」と、打算的に思ってきたaiko自身驚いているようでもある。
まさしく、純粋に相手を想う気持ちであるし、それが広く「愛」と呼ばれるものではないだろうか。
これはまさしく、「ストロー」落ちサビ部分そのものではなかろうか。落ち込んだり悩んだり、わかりあえないことに苦しみ悲しむけれど、それで終わりでは無いし、ましてや二人の関係がなくなるわけでも、許されなくなるわけでもない。それ以上にあるのが、相手を心から大切に、愛しく想っている、ということだ。
二つの媒体、それもたまたまだが畑が違う雑誌を参照したわけだが、「mina」で語られた①と「音楽と人」で語られた②が合わさった曲がすなわち「ストロー」なのだろう。
①が表向きかつ、外に向けて発信される「ストロー」の表テーマであり、②がその裏側で語られる、①だけではないストーリーやテーマ、すなわち本質である。
しかしながら、少し前に見た通り、②がありつつも、どちらかといえばそれが「ストロー」で重視されるべきものでありつつも、全体的に見ると、やはり①が優先されているのである。
そうなる理由がなんなのか気にかけつつ、歌詞本編を見ていこう。
歌詞を読む・一番
開幕即ストローのサビ
本曲はサビから始まる。のっけからストローお馴染みと言っていい「君にいいことがあるように」のフレーズが繰り返される。資料参照の段階で少し書いたが、もはや「ストロー」の代名詞と言ってもいいだろう。
なんだったらこのフレーズがいっそタイトルであってもいいくらいだ。それが頭サビになってまで、冒頭から四回も繰り返されている。ちなみに計十回歌われるのだが、まさに「ストロー」の“サビ”以外の何物でもないだろう。それほどまでに歌うということは、“それだけ本当に思っている”ということに他ならない。
そして曲が出来たきっかけである赤いストローのエピソードもシンプルに盛り込まれている。赤いストローだったことが嬉しいと思ったこと、それが本作誕生のきっかけであるが、そうやってちょっとしたことにも嬉しいと思ったり、気分が上がったりすることも、おそらくは「いいこと」にカウントされているのだろう。
あたしが願う「いいこと」はラッキーなこと、ちょっと嬉しくなること、気分が晴れやかになること……といった、大袈裟ではない「小さな幸せ」と言っていいだろう。
その、決して大きくなくてもいい、小さな幸せの充実を相手にひたすらに願うのである。ファーストアルバム一曲目「オレンジな満月」に歌われ、アルバムタイトルにもなった「大きくなくていい小さな丸い好日」を何となく思わせてならない。
ところで、今回一人称が出てこないのだが、大半のaiko曲に従い「あたし」であると仮置いて、稿を進めさせてもらう。
今は二人でいるこの部屋
「初めて手が触れたこの部屋」からわかるのは、二人の関係の初期の頃からこの部屋で過ごしているということだ。そのままお付き合いは進行し、好き合っていた二人は朝食を一緒にとるまでになった。同棲か結婚かはわからないが、要は二人が一緒に暮らすようになったということである。
「何でもないいつもの」という言葉遣いからは、一緒に過ごすようになっても特に気取ることも格式張ることもなく、肩ひじ張らず、いつもの自然な二人としていることがお互いの求めるところであり、何より居心地がいいということを感じられる。
一方で、「喉を通らなかったこの部屋で」ともあるが、かつてのあたしはここで独りで過ごしていたことを思わせる。
孤独や悲しさ、あるいは悲しみや苛立ち、虚しさなども一人で抱えて、時に任せるしかなかった。それは部屋に息づいている記憶であり、刻まれた時間である。確かに起こったことは時間の中の過去となり、良きにしろ悪きにしろ永遠に残り続けるのである。
しかしだ。今はあたしと君の二人で、その孤独と悲しみが刻まれたはずの部屋で幸せに暮らしているのである。これが過去のあたしを癒している何よりのものとは言えないだろうか。嫌なことの満ちていた日陰の道の先に、ひだまりに満ちたひなたの道があり、それはあたしと君の日常だったわけだ。ここで孤独だったあたしは慰められ、今を生きるあたしは君と共に日々を生きていく。
一番AはMVでも歌詞の通りの映像が展開され、aikoの夢女子になれること請け合いの一品となっている。その男誰よ💢💢💢💢💢!!!!!!!
にしても、ここを読んでて改めてしみじみ思う……aiko~~!!結婚おめでとう~~ヽ(;▽;)ノ
それはおいといて、一番Aは一日の始まりの描写であり、歌詞の通り「何でもないいつもの朝食」の風景が描かれる。この何気ない日常の一つ一つに、大きくはないが、愛おしい小さな幸せがそこここに煌めいている。
あたしの中のいいこと
寝ぐせをからかったり、行ってらっしゃいと出発する相手を見送る。きっと満ち足りた気持ちで彼女はこう思う。「明日も君の笑顔を見られますように」 そう、あたしは願うのである。こういう願い事一つとっても、おそらくあたしの中のとびきりの「いいこと」であり、幸せである。
一番A・Bは共に朝の風景で、どこにでもある何気ない日常が描かれてきたわけだが、それこそが類い稀なる幸せであることが、強く主張せずとも伝わってくることだろう。
ここは頭サビの繰り返しとなる。「君にいいことがあるように」は頭サビと同じく四回繰り返され、同じことを書くが名実共にストローのサビになっている。
A・Bは既に書いたように、「人と人が共に暮らすようになる描写」に集中し、本当にaikoなのか…? と疑いたくなるレベルで(ひどい)純粋に幸せだけを描いているし、なおかつ願っている、泣きたくなるレベルでの打算のない清らかさだ。「君にいいことがあるように」とは祝福の言葉なのである。本当にこの曲のサビなのである。
善のaiko
ざっとまとめると、一番はminaでaikoが話していた①が全面に出ている箇所とも言えるだろう。歌番組でも歌うのはこの一番がほとんどであるし、他に余計なことは盛り込まず、伝えたいところだけをまっすぐに表した、と言えるだろう。aikoにしては珍しく(すまん)善性を突き詰めていった、実に平和なセクションであった。
しかしそうなると、気になるのは後に続く二番である。aikoの作詞方法としては二番は曲の採用が決まってから書き出すわけであるが、この一番でありったけに出した気持ちとは異なることを綴っているようである。
歌詞を読む・二番
一緒に生きていくということ
少し細かく見ていく。朝には無くなるものがある。匂いもいつしか消えてしまう。考えてみれば、一番Aに書かれた朝食も食べればなくなるし、お味噌汁の匂いも消えてしまう。この二番A前半で書かれていることは、移り変わっていく日々であり、時を経ることでどうしても変わっていってしまうこと、なのであろうか。
消えていくもの、儚いもの。しかし、それは決して虚しいことではない。むしろそれこそが、“一緒に生きていくこと”の表れではないか。メロディはポジティブに明るく、歌詞も次につなげるのは逆接の助詞である。
花火と雪。この短いフレーズに表されるのは夏と冬の描写だ。これはあたしと君が一日ではなく、「一年を過ごす仲」になっていることを示している。そんな、揺るぎない仲になった二人には、消えゆく者を見てきてもいるのだが、それだけではない。
時と共に増えて重なっていく「思い出」が、二人の間の共通の宝物になっているのである。「指先だけに残る花火」という表現がまことに秀逸だ。花火は消えてなくなるが、二人で手に持って花火を楽しんでいた夏の思い出は指先に永遠に残り続ける。それが思い出というもので、消えずにいるものだ。
時は過ぎていく。なくなってしまうものでもある。けれどそんなものであっても、二人でいることで、そして自分の中に残していくことで、思い出としていく。二番Aもやはり、「人と人が共に生きていく、暮らしていく」ということを示しているのだろう。
すれ違っても、見えなくっても
しかし一方で、幸せや尊さだけではない変化もあるようだ。
おそらく、二人が一緒に暮らして生きていく中で、何かちょっとした違和感を抱くようになってきているらしい。
瞳を閉じて書いた日記。瞳を閉じる……という表現は“あえて見逃していたこと”もしくは“見て見ぬ振りをした”“目をつむった”ということを言いたいのだろうか。
ぶっちゃけると、二番はここからずっとaiko恒例の「わからんゾーン」に入っているので、単なる憶測が進む。どうせaikoなので私が考えているようなことではないんだろうな……絶対何か別のことなんだろうな……と正直思っていたりもする(ひどい)が、解き明かせるだけの材料がないので敢えて黙っておこう。
薄くて強い覚え書き。何だろうか。ちょっとしたことにイラッときたり、不快さや不都合を感じたりするようになったのだろうか。あるいはそこまで行かずとも、なんとなくのズレを感じたりするようになったなど……いろいろ考えは浮かぶ。付き合っていただけでは見えないことが出てきたようだ。それは日記に書きつける程度には気にしてしまうものらしい。
ここだけ見れば不穏の種ではある。数多くのaiko曲はこういう小さな綻びから崩壊に向かい始めていくのだが、「ストロー」はどうやらそうではないらしい。
見えない心。それは間違いなく、“あたしにはわからない”「君」のことだろう。
抱いてしまったちょっとした違和感からわかる通り、あたしも君も、歳を重ねることで、一緒に過ごしていく中で「色が変わった」のだ。変化している。その中で、見えないもの、感じ得ないことも明らかになっていく。それは不愉快や不都合を招くことも多々あるだろうに──何だったらさっき書いたように別れの萌芽になったっておかしくないのに、ここでは「愛おしい」と思うのである。
そんな感情の動きを、愛情以外に何と呼べるというのだろうか。
二人なら越えられる
白い夢。とは。本作のわけわからんゾーンでもトップクラスのわけわからんゾーンである。
しかしそれにしたってわけわからん過ぎるだろう、と思って「aiko ストロー お皿に残る白い夢」で検索したところ、私が四年前に書き残しておいた自分用音楽記録のブログ記事が見つかった。それによると、ソースは明示していなかったものの、この「白い夢」は「目玉焼き」のことなのだそうだ。
へぇ~~!! そっか~~~!!!
わっっっかるかボケ!!!!!!!!!! 下書きのルーズリーフに(歌詞研究はほとんどの作業を、おそろしいことだが手書きで行っている)(手書きでしか出せないパッションがあるので)この「白い夢」とは一体何なんか、およそ数行に渡って考えを綴っていたのだが、とんだ骨折り損になってしまった…嗚呼……南無三……。
マジでaikoの歌詞、特にフレーズのわけわからない箇所については正体がありえんくらいしょうもないものだったりするので、真面目に考えるの、やめた方がいいと思うナ……。
みんな!aikoの歌詞、真面目に考えるのやめよう!(戒め)
いやしかし、目玉焼きを「白い夢」と喩えるのは詩人過ぎるのでその点はマジで脱帽である。美し過ぎるんよ。何食べたらそんな暗喩が出来るんだ……。
さて閑話休題。白い夢は目玉焼きだったわけだが、「お皿に残る」そして「君の口に入れて」なので、残された状態が示すものは、あたしが食べられないものやこと、、嫌いなこと、と言ったあれこれの暗喩なのかも知れない。言い換えるなら、「受け入れられないこと」「わからないこと」だろうか。
しかし、そう言ったものを、君だと肩代わりして引き受けて食べてもらうことが出来る。ごちそうさま、と終わらせることが出来る。あたし一人だとどうしても越えられないことが、君がいることによって、君が助けてくれることで出来る。次に進むことが出来るのである。これはおそらく逆もしかりで、人が生きていくということは、こういうことも繰り返されているのだろう、と思う次第である。
ひとりよりふたり
「大きな小さい半分」──とは、当然、あたしと君による“ふたり”という共同体だ。その片方に、あたしはもうすっかり馴染んでしまっている。
それくらいの時間が経ってしまっているのだ思うと、一番の初々しさや微笑ましさがいっそむせ返るくらいに懐かしく思えてくるものだ。そんな、二人でいることが自然になっている今の状態であたしが思うこととは何なのだろうか。ここではまだ文字化されない。おそらくこの先の落ちサビに表されている。
わからなくても愛おしい
一番は人と人が一緒に暮らしていく日常の描写と、そこに満ちる何気ない幸せだけに焦点が当てられていたが、二番はそこから数年ほど月日が経ったように思われる。
移り変わっていく時の中で消えていくものと、思い出として残っていくものを歌ってから、今度は君とあたしの変化に着目する。人と生活していく上でどうしても生じてしまう擦れや違和感、ちょっとしたすれ違い。違う人同士が生活していくのだから、好き合っているとは言え何らかの不都合は多かれ少なかれ発生するものだ。
aikoは、本作の中でそこに不穏の種は蒔かなかった。それどころか、その変化や不都合や不理解を「愛おしい」とまで言うのである。そして二人はまだまだ共に生き続ける。生活を続けていく。
まだ明確と言うほどではないが、一番とは打って変わって、今度は「音楽と人」で話していた②──裏テーマであり、「ストロー」の本質でもある面が表れてきている、そんな二番である。
しかしそれでも曲自体が明るく、歌詞も至って普通にピンピンしている。落ちサビとラスサビにかけて語られることも、悪しきことではないと思えてくる。そこでは一体、何が語られているのだろう。
歌詞を読む・落ちサビ
あたし達はわかりあえないけど
二番でうっすら見えてきていたが、落ちサビでは「音楽と人」で話されていた②が、くっきりと表されている。というかもうほとんどaikoの言葉そのままと言ってしまってもいいかも知れない。
二人で生きていく、一緒に暮らしていく中で見えてきたものとは、あたしの思うこととは何なのだろうか。
延長線を繰り返して、見えてきたもの。本当の痛み。
それは、aikoの語ったことを材料にして考えるなら、こういったことだろうか。
──もしかしたら、わかるようになるかも知れない。君の思っていること、考えていること、感じていること、あたしに向けられる想いも。何回も何回もすり合わせていくうちに、相手のことが、全部把握出来るようになるかも知れない。
だって、少しでも通じ合えたなら、すごく嬉しいから。少しでも君に近付けたと思えて、嬉しくなるから。だから、いつか、全部わかったら。
でも、そんなことあるわけがない。何回も経た先にあったのは、辿り着いてしまった答えは「相手のことがわからない」ということと、「自分のことは完全にはわかってもらえない」ということだ。
100%思っていることもわからないし、わかってもらえない。感情も掴めないし、掴んでもらえない。どんなに好き合っていても、完全に共感は出来ない。だって「戻れない明日」で歌われているように「あたしはあなたじゃないから」だ。
悲しいけれど、人と人はどこまでいってもわかり合えない。痛みも悲しみも、完全に完璧に分かち合うことは出来ない。それ以外にも、むしろ不都合なことの方がずっと多い。合わないところなんて無限にあって、いらっとすることも、うんざりするくらいあるだろう。
これらが、「ストロー」の落ちサビで表れた、「本当の痛み」の示すところだ。
……ここだけ読んでみると、なんだか虚しくも思えてくる。世界で起こっているいろいろな悲しく痛ましい事件や争いも、人間と人間が互いを完全に理解出来ないがゆえの結果のようにも感じられる。
いささかスケールをでかくして捉えてしまって勝手にまいってしまっているが、つまるところそういう話でもあるのだ。しかし、それで嫌気がさして、人間関係を全て無に帰してしまうのも行き過ぎた話で、歌詞には見た通り続きがある。
わかり合うことの出来ない痛み。わかってもらえないことへの悲しみ。
しかしそれを、時を経た今、あたしは悲観し過ぎることもなく、肯定的に捉えることが出来るようになっているのである。
「出会った頃より悲しくて寂しくて大切で」──多分、深く知り合えていなかったなら、それほど悲しくも寂しくもなかった。好き合っている者同士だから、完全なる理解が出来ないことや、合う合わないのいろいろなことに、否応ない悲しみを、寂しさを感じるわけだ。それは一緒に生きてきた──暮らしてきたからこそ、感じることだ。
でもそれ以上に思うことは、そんな相互不理解でさえも、相手を「好き」と感じる、「大切」と想うゆえの作用であり、反応である、ということだ。
言ってしまえば「そんな程度」なわけである。そしてそんな悲しみも寂しさも乗り越えてしまう、度外視してしまうくらいに、あたしの想いは深く果てしない。「好き」の具合が、遥かに大きい。
相手のことを大切に想い、深く愛することにおいては、いっそそんなものは些細なことだと思えるくらいに、もう今のあたしには──大きな小さい半分になっているあたしには、出来るようになっているのだ。
歌詞を読む・ラスサビ
それでも、君にいいことを
それだけには留まらない。ラスサビはストローのサビ中のサビである「君にいいことがあるように」の繰り返しであり、一見すると普通の終わりのように思うが、二番や落ちサビを踏まえると、何気なく聴いていたこのお馴染みのフレーズに隠された偉大さに気付く。
100%わかり合えないし、共有することも出来ない。どこまで行っても違う人間同士の二人は痛みも悲しみも、全部はわからない。
それでも、あたしは君を大切に想うし、さらには「相手の小さな幸せすらも願う」のである。
そんな尊い、慈しみの気持ちが、この曲では十回も現れる。頭に現れ、曲の終わりにも表れる。不理解のさだめを乗り越えて発されるこの想いを、「愛」と呼ばずして一体何と呼べばいいのであろう? そしてその歌い手は、この曲の作者は、“愛”を冠した申し子、aikoなのである。
おわりに -君にいいことがあるように-
以上、ストローを読解してきたわけであるが、いかがだっただろうか。
私は読解にあたるまで(歌詞研究をライフワークにしながら)実は歌詞をそこまできちんと読んでいるわけでもないという、aikoファンどころか歌詞研究の民の風上にも置けない奴だったのだが、ストローを最初に聴いた2018年の春頃には思ってもいなかったような読みをしたことに、いささかどころか結構驚いている。
ストローで描かれているのは日常の幸せであり、生活だ。人と人が暮らしていくことで生じる様々なことも描いているし、さらにはそこを深堀して人間と人間の悲しき命題にまで至っている。もう全部ひっくるめて「人生」を歌っている。とまで言ってもいいかも知れない。
いや……ストローでこんなことを言えるようになるとは思いませんでしたよaikoさん。「君にいいことがあるように」というわかりやすいテーマがありながらもこうなるのだから、aiko曲に軽いものなし。その全てが深いのだと、毎度毎度のことながら感服する次第である。
と、何となく終わりムードを漂わせているが(実際終わりだが)もう一つ大事なことを書かねばならない。
「音楽と人」で話されていた②が、それが表される二番と落ちサビが「ストロー」という楽曲の本質であることは間違いない。なのだが、それよりも先んじるのが、一番上に表れるのが──もっと言うと、それよりも大事なのは、「mina」で語り、aikoがあらゆる媒体で話してきた①なのである。曲中で十回も繰り返され、頭と終わりに配置されたフレーズが、当たり前のことではあるが、大事でないわけがない。
確かに、人と人は完全にわかり合うことは出来ない。aikoが言うように許せないこと、悔しいことも沢山ある。合わないところだって沢山あるだろう。
だけど。だけどだ。そんなことは相手を好きになってはいけない理由にはならないし、諦める理由にもならない。そんなこと程度で、人が人を想うことを、幸せを願うことを断つわけがないのである。
aikoは「ストロー」発売時、自身の有料Webラジオ「あじがとレディオ」第13回でこんな風に話していた。
だから、冗談でも何でもなく、「ストロー」で一番に言いたいことは、「君にいいことがあるように」なのだ。
何の打算もない、真心の愛と祈りの唄。それが「ストロー」という曲である。
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