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午前5時の愛言葉 -aiko「朝の鳥」読解-

aikoは人生な文章書く系&小説書くオタクのtamakiです。PNはおきあたまきといいます。
2023年aiko歌詞研究・前期は「歌姫」と「朝の鳥」の読解で、本noteでは「朝の鳥」稿を掲載します。簡単なごあいさつと説明は「歌姫」読解冒頭をご覧ください。


はじめに

「朝の鳥」はaiko21枚目のシングル「シアワセ」のカップリング(3曲目)として2007年5月30日にリリースされた一曲である。
朝、と冠されていながらジャジーで大人っぽい曲調なので、初見では夜のイメージもあると思う。だがそれで夜の余韻を少し残している雰囲気となり、ゆったりとしたテンポは体に残る(あるいはやっと湧いてきた)眠気の表現ではないかと思うくらい格別だ。夜と朝の境目の曲調としてこれ以上のものはないのではないか、と思っていたりもする。

しょっぱなから余談・筆者の思い入れ

本曲、というか「シアワセ」がリリースされたのは2007年。2007年は筆者が現在も続けているブログ「たまきはる」を始めた年であり、個人として何かを発表していく場所を得た年であった。
(ところで2007年、ということは、おそろしいことに15年以上続けているのである)(更におそろしいことに月20件は書いているのである)(そのかわり全媒体の中で一番緩くて猫被っていない場所でもある)

Twitterは存在してはいたが、まだSNSなんて言葉が広まっていない時代、振り返ってみれば個人ブログが一番賑やかに栄えていた頃のように思う。私がネット環境を得たのは2006年からだが、ブログという場をこさえ何かを自主的に書いたり載せたりしたのは2007年からだった。
そして「シアワセ」が出るまでにaikoが出したのはLLP10追加公演のDVDソフトとデビュー曲「あした」の12cmシングル盤のみ。要するに、弊ブログ開設以降に純粋な新譜として出た最初の一枚が「シアワセ」だったわけである。なので私の中ではちょっと特別な一枚であり、「朝の鳥」もまた特別な一曲なのである。

まあ、長くアーティストのファンやってると人生の節目節目と紐づいてるシングルとかアルバムとかありますよね~という話です。個人的なエモの話。ちなみにTwitter始めてから最初に出たシングルは「戻れない明日」でした(新曲的な意味で言うと「あの子の夢」だけど)

「死」のフレーズ

そんな特別な一枚の中の「朝の鳥」だが、読解上でも触れるがやはり「死ぬのはやめよう」という、「死」をダイレクトに表した赤裸々なフレーズに、私はいささか衝撃を受けた。今から15年以上も前、大学生らしい自由で楽しい生活を気ままに送りながら、専門課程に入り文学研究をようやく学び始めていた初夏の日のことである。

ショック、というほどではないが、ひゅっ、とaikoに寝首をかかされたような……なんか違うな……それこそ彼女が好きないたずらを不意に受けたような、そんな感覚である。
このようなことは過去にもあった。私がまだaikoを深く知る前に聴いた「悪口」に、aikoに深く入り込み始めた頃に聴いた「September」に、「夏服」に、──そして未来にもある。「ずっと」に、「運命」に、「ラジオ」に、「あなたを連れて」に。aikoの深淵のような、明るく見える彼女にある深い煩悶と孤独の片鱗を垣間見た時、不意に触れた時、私は彼女のことをもっと知りたいと、そう思ってしまう。

それらの行き着く果てにある“死”を、何の比喩も婉曲もなく、そのままの姿で出してきているのが「朝の鳥」である。その時も、読解する2023年の今も、aikoが張りつめるような夜にどれほどのことを真剣に、深刻に考えているか、どれくらいの孤独を感じているのかと思うと、どうしても手を伸ばしたくなるし、少しでもそばにいたいと、そう思ってしまう。
とはいえそれは単なるファン心理であるが、直接的過ぎる言葉を使ってしまうくらいには彼女はここに、「朝の鳥」の歌詞に真なるものを込めているのだろう。私にとっては、だから「朝の鳥」は畏れ多い曲でもあるのだ。

そんな「朝の鳥」であるが、実は去年のBaby Peenats会員向けのクリスマス生配信にて歌唱されている。しかもトリでの披露である。なんで!? 鳥だから(ドッワハハ
はともかく、もうその時点では来年の前期は「朝の鳥」を読むと決めていたので当然ながらドヒャ~!? となってしまったのであるが、それ故にきちんと読むぞ、と気合が入ったものであった(そのわりには手をつけるのが遅くなったのは全部ISF10のせい)(ISF10で出した本もaikoの曲使ってるだろ!)

ちなみにその生配信で歌われた「朝の鳥」は最新アルバム「今の二人をお互いが見てる」初回限定盤A・Bに付属するDVD・ブルーレイに映像特典として収録されているので、気になる方は入手してご覧になっていただきたい。

発売当時はまだただ聴くばかりでふんわりとした印象でしか捉えていなかった「朝の鳥」。まずどのような意図がaikoにはあったのか、早速資料に当たっていこうと思う。

資料を読む

「朝の鳥」の資料について、せいぜい「シアワセ」発売時に表紙になった際のオリスタ(オリコンスタイル)くらいしか手持ちがないなあ、と思っていたのだが、その前の週のオリスタでも言及があったし、切り抜きで所有しているインタビューでも言及しているのが見つかった。なので思っていたよりも解像度を高くして読めるかも知れない。

オリコンスタイル 2007/6/4号(シアワセ発売時)

2ページ分の特集で、主にMVの紹介があった号だったと記憶している。さらっとだが、aikoは「朝の鳥」についてこんなことを述べている。

これはみんなが起き出す頃に寝るっていう逆朝方人間のaikoだからできた曲やなぁって。空気がきれいで、すごく静かで、クルマもほとんど走ってないような時間を、私は好きな人ともこっそり共有したいなぁって思いながら作りました。

オリコンスタイル 2007/6/4号

aikoファンならば実に想像が容易というか、彼女のライフスタイルだなあ、と微笑ましく思ってしまうような書きだしである。

余談ながら私も一日の内で早朝の空が一番好きである。aikoほどではないが私も相当な夜型人間であり、登校拒否をしていた頃も、無職でいた頃も深夜は平然と起きていて小説を書いたり色々やっていたことがある。
特に小説執筆に熱中し、ゾーンを抜けきってものすごい文量を書いたのちに見る朝の光景が好きだ。あるいは最近で言うと、ゲーム(アイドルマスターミリオンライブシアターデイズ)の周年イベントで、それこそ眠らずに夜を徹してひたすら稼働してポイントを稼いでいるのだが、大体朝4時半を過ぎた頃にふと外を見ると、非常に美しい朝焼けが広がっていたりする。
その時ばかりはスマホから手を離し、清らかな朝の気配と夏と梅雨が混ざりあう空気を満喫するのである。そして、aikoはぼちぼち眠る頃だろうか、と想いを馳せたりもするのである。
ちなみに今年は悪天候が多くて、朝の綺麗な空は全然拝めなかったヨ…

今年も無事15(aiko)位取得 aiko25周年の"25"もpt数に入れました
来年からは順位にこだわらずのびのび走るぞい

aikoが眠る頃の、夜を越えた先にある、aikoの愛する時間。彼女と同じ時間帯を好きでいれるのは嬉しいものであるが、aikoもまた「好きな人ともこっそり共有したいなぁって思いながら作りました」と語っているように、「朝の鳥」は広義のラブソングでもあるのだ。
朝にしか逢えない、あだ名しか知らない「朝の鳥」と、一切顔を合わせることもなければ声も交わすこともないが、しかし共有している。この密やかな感じが程よく甘くてたまらない。言ってみれば「名も知らぬ人へのラブソング」だろうか。曖昧であやふやな感じではあるが、それこそがこの曲を解するポイントになっているように思う。

──サウンドは夜っぽいけど朝方の曲だし、ちょっと不思議な感覚もありますよね。歌詞にはドキッとする言葉が使われていたりもするし。

自分にとってはいろんなことを考える時間帯っていうこともあるので、サラッと軽い曲にはしたくなかったというか。だから、いろんな要素を入れてみて、いろんな気持ちが入れ代わり立ち代わりしてる感覚をちゃんと伝えたいなと思ったんです。

オリコンスタイル 2007/6/4号

自分にとってはいろんなことを考える時間帯──という文章に見覚えがある。
そう、今年の頭に配信リリースされ、最新アルバム「今の二人をお互いが見てる」にも収録されている「あかときリロード」のインタビューでも、aikoは似たようなことを言っているのである。オフィシャルインタビューを少し引用しよう。

“あかとき”は昔の言葉で“夜中から朝方にかけての時間”のことなんですけど、私はいつもだいたいその時間に勉強机に座っていろいろ考えたり、反省したり、気持ちを整理したり、“リロード(更新)”してるんですよね。

あかときリロード オフィシャルインタビュー

てゆ~か「あかとき」がそもそも「朝の鳥」の“朝”やん! と引用してから気付いた(遅い)あくまで引用なので深くは読まないが、15年以上前から今も変わらず存在するaikoの大切な時間帯なのだ。少し言い方を工夫するなら瞑想の時間、と言えばいいだろうか。

欠かせない大切な思考の時間だからこそ、サラッと軽い曲にはしたくなかったとaikoは語る。インタビュアも「ドキッとする言葉」と言っているが、当然ながらこの曲で一番ショッキングなフレーズである「死ぬのは止めよう」のことであろう。
aikoが「軽い曲にはしたくなかった」とまで言うのである。それは即ち「本気」だった、ということだ。本気でaikoは死を考えたし、望んだのである。脅しでも何でもない。本当にそれくらいのところまで、aikoは深く深く自分自身を見つめていたのである。

しかしながら、その本気の死への希求が、朝が訪れることで生へと転ずるのである。本気で思っていたはずのことが、朝が来て、朝にしかない時間と存在で覆される。それこそ夜が明けて朝になるくらいの鮮やかな変化で、生の方向へと転換されるのだ。そこを切り取ってくるのがaikoにある希望の美しさであろうと私は思うし、aikoが多くの人に支持される所以でもあるように思う。
そう。過去に読解や解釈を通して何度も書いているけれど、aikoは、恋愛における複雑な心模様も勿論なのだが、それ以上に普遍的な希望を描いていることにこそ、甚大な魅力があると思う。私がずっと追いかけている理由もここにあるとすら言ってもいい。少し脱線しても述べたいくらいには、私は彼女にある希望を多くの人に伝えていきたいのだ。

オリコンスタイル 2007/6/11号(シアワセ発売時・aiko表紙)

こちらは表紙として登場した数ページ特集のある号である。「シアワセ」についての話がメインだが、前回の号と同様「朝の鳥」にも言及している。

「朝の鳥」は夜更かししまくったがゆえに生まれた曲(笑)。明け方5時くらいにゴミ捨て場に行こうと外に出たら、向かいのマンションの部屋にフルート吹いてるお姉さんがいて(笑)すごい不思議な光景やけど、これを知ってるのは私だけなんだと思った時に何かいいなぁって。車も人通りもなくて空気が静かに澄んでいて……1日のはじまりのすごくキレイな時間を、内緒で好きな人と共有してみたいなって。

オリコンスタイル 2007/6/11号

百合!??!?!!?ガタガタドッタン すみません取り乱しました。いや……実際その女性の存在がきっかけとなって曲が作られたので、こう、その……いい感じに百合だなって…モゴモゴ

冗談はさておき、「向かいのマンションの部屋」にいる「フルート吹いてるお姉さん」を“朝の鳥”と表現するのは実に詩的であるし、「これを知ってるのは私だけ」という密やかな特別感は実に甘美なものがあると思う。良い……すごく良い(深く頷く)

実際のところを知ると、本当に名前どころか、あだ名しか、ではなくてあだ名すら、と言った方が的確なくらい相手のことを何も知らない状況である。その存在しか知らない、というある意味究極の無知の状態で、ラブソングの対象としてどうなのかといちゃもんを付ける人もいようが、作者のaikoの中では「秘密を共有する人」「すごくキレイな時間を共に過ごす人」として“ときめき”を与えているのだ。たとえ名を知らねども、それは立派に恋の相手である。

既に引用したが「1日のはじまりのすごくキレイな時間を、内緒で好きな人と共有してみたい」とのaikoのコメントは本当にロマンチックで甘美である。そういう背景があったのだと思うとなおさら納得だし、リスナーの私達の生活にも、そのフルートを吹くお姉さん、まさしく「朝の鳥さん」のような存在が思い浮かぶ人もいるのではないだろうか。
名前も知らないし姿も知らない、でも音だけはする、聞こえてくる、そこに存在していることだけを知っている。そんな、本当にささやかで小さな存在に、aikoはときめきを発見した。

朝の鳥コメントはもう少し続きがある。

──たしかに、あの時間って不思議な空気がありますよね。

そう。いろんなことをリセットするような瞬間にも感じられるし。夜中って起きてるとマイナスに転ぼうと思えば、どんどん転ぶんやけど。あの時間、世の中で私しかいないかもって思う瞬間、何かもうちょっと頑張ろうっていう風に思えたりもするから。

オリコンスタイル 2007/6/11号

リセット。そう。もう、いろんなものを引きずっていた昨日ではない。明日という未来が今日になっていて、それも朝なのだ。一日の始まりで、晴れていたらもっといいだろう。新しい朝が来た希望の朝だ……とラジオ体操の歌ではないが、一日の区切りと始まりの時として相応しい時間帯なのは疑いの余地もない。陰鬱なことを考えていた思考だって、輝きが滲みだすような暁の空に少しは陰が晴れるかも知れない。

マイナスに転ぼうと思えばどんどん転ぶ、とaikoは言うが、歌詞にある「死」のことを意図しているのだろう。しかし朝という清らかな時間がその追い詰められた思考をすんでのところで助けるのは、既に書いた通りだ。
死に傾きかけていた矢印が、すんでのところで生の方向へ向き直す。というと去年読解した「運命」も思い出すわけだが、aikoは死から生に振り返すその瞬間をこの曲でも描いている。
別に、ものすごくドラマチックなことが起こるわけでもない。描かれているのは「朝に自分以外の誰かがいる」ということだけだ。しかしそんなありふれた、本当に些細なことが、限界の向こうに行きかけたギリギリの思考を、まだ少し眠気が含まれた、朝の柔らかく清らかな空気の中でふんわり、と助けてくれるのである。

曲、というか作品にある雰囲気もそうだが、その「小さな出来事」が人を助ける、という描写が、私にはたまらなく好きで、すごく良いなあ、としみじみ思うのである。なんだか人間ってこういうことの繰り返しで生きているんじゃないだろうか、とも思ったりするのである。

雑誌インタビュー

切り抜きで所有していたため雑誌名は不明だが、これも「シアワセ」発売時のインタビューである。

私はよく昼夜逆転して朝5時くらいに寝たりするけど、その時間には鳥の声も聞こえるし、だけどまだ多くの人たちは眠りの中にいて世の中はシーンとしてて、この世界にはあなたと私しかいないんじゃないかって思えたりする。私はその時間帯がすごく好き。イヤなことや悲しいことがあっても、また頑張ろうってリセットできる。〝おはよう〟と〝おやすみ〟が私の中で一緒に存在してる時間が朝5時なんですよ。

「この世界にはあなたと私しかいない」という文言にどこか見覚えと聞き覚えがあって、何かと言うとさっきも引用した「あかときリロード」のまさしくサビの部分である(二人の世界 誰もいない だから誰も知らない世界)そして朝とは真逆の時間帯であるが「ラジオ」のサビにも近かったりする(小さい頃はこの世界に生きてるのはあたしだけなのかもと/不安に思った時に必ず「違うよ」とノイズまじりに叱られた)

「ラジオ」は対象がより多くの人々(ラジオDJ・ラジオのリスナー)なので脇に置くが、「朝の鳥」も「あかときリロード」も、いずれも「あなたとあたし」という、aikoと言えば、と言ってもいい非常に小さく密な世界なのだ。本稿は「あかときリロード」については述べないのでこちらも脇に置くが、名も知らない人との親密な空間──相手もそのことを承知していないと言う、ひどく一方的なものではあるが──が「朝の鳥」の描いている大まかなものである。そしてさっきも述べた通り、その名も知らない人によってそっと救われる、というのが「朝の鳥」の一応のストーリーだ。

「〝おはよう〟と〝おやすみ〟が私の中で一緒に存在してる時間が朝5時なんですよ」と話すaikoだが、読解中でも書くと思うが、このありふれた挨拶がとても愛おしい、まさしく「愛言葉」のように感じられる。朝の鳥とは本当に一瞬の邂逅であり、相手はあたし側がそんなことを思っているなど全く知らないものの、その一方的な思慕、というのが朝という舞台も相まってか、私にはとてもロマンチックに思えるのである。

資料読み雑感 -名も知らぬあなたへの思慕-

以上読んでみて思ったことなのだが、既に言及したが、時間帯は真逆なれども、「朝の鳥」は「ラジオ」と本質的に近いものがあるように思う。
名も知らない人と──たとえば、ラジオなんかは「ラジオネーム」がまさしく「あだ名」であって、「あだ名しか知らない」という設定はかなり的確である──同じ時間を共有しているという設定は確かに「ラジオ」か「朝の鳥」か、みたいなもので、アキネイターの魔人が余裕の表情を浮かべているようなもんである(なんだその喩え)

しかし、これも既に述べたが「ラジオ」よりもずっとずっと範囲の狭い話であり、もっともっと密やかな話なのだ。aikoが多くの楽曲で書いている「あなたとあたし」なのだが、その究極体かも知れない。何せ言ってしまえば「存在しか知らない」ものなのだ。そんな、まるっきりまっさらなものでもaikoは“愛の歌”が書けるのである。それがこの「朝の鳥」なのだと私は思う。

ものすごく、すごく本気に「死」と隣接していた時間があって、あたしはそれを実行しようと考えてすらいた。だけれどその夜を越えた先に、あなた──朝の鳥がいた。
多くは知らない。名前さえも知らない。知っているのはその存在と、奏でる歌だけだ。朝の清らかな、生まれたての時間を朝の鳥と共有することで、その歌を聴くことで、あたしの中の陰鬱としたものはまるでリセットされたように、綺麗さっぱり清められる。夜の自分が残していた「死のう」という意志に首を振り「やめよう」と言うことの出来る、クリアになった思考を持つあたしがその朝に生まれたのである。

資料を読んだだけの状態で概要を語るなら、ざっとそんな感じだろうか。私はさっき「愛の歌」と書いたが、要するにこれは「名前も知らない誰かへの愛の曲」なのだ。名も知らない人が知らない内に誰かに渡している温かさ。それに救われ、その存在に恋をしている……言ってみればそんな曲だと思う。

再生……と言うほど大袈裟でもないのかも知れない。aikoの言う通りあくまでリセットなのだ。あたしを捨てることなく、また一からやり直す。また一から始める。朝とはそういうものだろう。朝の時間帯は、出来る限り希望に寄り添っていて欲しいと私個人として思う。

最後に参照したインタビューにて、aikoは具体的な時間として「五時」を指定していた。本当に、深夜から早朝に切り替わったばかりの時間帯で、朝のラジオ番組が始まる頃でもある。
起きている人もそんなにいなくて、電車も走り始めたばかり。一日の内の僅かしかない、本当にひっそりとした、ささやかな内緒の時間だ。
けれども、あたしが生きていくのにすごくすごく必要な時間でもあるのだ。ものすごく大袈裟でも壮大でもないが“ささやかな生きる力”を「朝の鳥」では優しく、まだ眠りに就いている人を起こさないようにそっと紡いでいく……。

とまあ、そんな風な下書きをしたためたのであるが、あくまで下書きで私が好き勝手に言っている程度にすぎない。まだaikoのコメントを確認しただけであって、本編は何にも始まっていないのだ。
一番大事なのはいつだって歌詞そのもの! である。下書きをふんわりと頭に入れて、歌詞を読んでいくことにする。

歌詞を読む・一番

早朝という時間は夕方と同じくらいか、それよりも早く終わってしまう印象がある。朝と言う時間なのもあって夕方よりも圧倒的に人が少ない時間帯で、そのことを知る人も少ないような気がする。
「朝の鳥」はまさにその朝、早朝と同じくらいの短い曲であり、一番と大サビのみの構成となっている。本当に、あたしと朝の鳥の邂逅が一瞬の、ほんの少しのひと時であることを思わせる。

始める人と終える人

 おはよう 早起きね 本日もお元気で あたしはこれから眠るところです

おはよう、と自分以外の誰かにそっと呼びかける、そんな歌い出しだ。おはようと相手に贈っておきながらあたしは「これから眠るところ」と言うのだから、まさしくaikoが語り、Bメロにも出てくる通りの逆転生活だ。

言ってみれば、おやすみとおはようが重なる……。……うん?? それメロンソーダやないかい! となってしまったが、本稿は「朝の鳥」の読解なので特に広げる気はない。「メロンソーダ」よりもずっとずっと密やかで、いい意味で閉じた世界観の曲である。
一日を始める人と、一日を終える人。そんな二人の邂逅だ。

ただそこに生きている人

 おはよう 早起きで まだあだ名しか知らない それ位の方が想像も涌くのです

この「あだ名しか知らない」というのが実ににくい。本当にわずかな繋がりのみで、かえって愛しくはないだろうか。
SNS全盛の今の時代だと、アカウント名やHNしか知らないTwitterのフォロワーさん、あるいはRTでよく見かける人……というようなのが近いだろうか。……とか書いてしまったが、Twitterだとその人の性癖とかもわかっちゃうから例えとして正しくなかったかも知れない。今のなし(ええ…)

思い出すのは「夢の中のまっすぐな道」収録の「ずっと近くに」のフレーズ、「まだ上の名前で呼んでた頃」である。あれも「あなたを朝日の待つ夢の中で見かけた」と“朝”の時間帯であった。あの曲の控えめで奥ゆかしい感じも何となく「朝の鳥」と通じている感じがして好きである。以上、余談終了。

それはさておき、あたしはこの「おはよう」とそっと呼びかけている朝の鳥のことを、「それ位の方が想像も涌くのです」と言うくらいだから、敢えて多く知ろうとはしていない。少なくとも自分から調べに行ったりはまずないようだ。
いろんなことをワクワクとあれこれ想像出来る方が、むしろ楽しい。真実、あるいは事実とは尊いものだが、一つに定められてしまうものはどうしても窮屈であるし、あれこれ想像したものを意味のないものに変えてしまう残酷なものでもある。
本当の名前も知らない。姿だって見ていない。ただ、そこにいて、歌っていることだけを知っている。「ただそこにいてくれる人」であることが、名前を知るよりもずっと重要なのだ。存在してくれるだけで、あたしにとっては十分なのである。

そういう意味では、Twitterにおいてタイムラインを流れてくるフォロワーや、タグの中にいるアカウントの人達、というのも感覚的には近いように思う。そこにいて喋っていたり、写真をあげていたり……。極論、そういうのだけでいいのだ。

唯一の隣人

 逆転した生活の中 唯一逢えるの朝の鳥
 人々寝静まるこの時に暖かくなる

一方的に知っていて、しかも“朝の鳥”なる呼び名も勝手に与えている。資料読みの段階でも書いたが、おそらくはこの“朝の鳥”はあたしが考えたあだ名だと思う。まさしくあだ名しか知らない状態ではあるが、この短い貴重な時間を唯一共有している、あたしのただ一人の友人であり隣人なのである。「猫」ではないが、あたしが【独り】にならない、大事な存在である。

朝の鳥の存在が、あたしのささやかな──そう、言うなれば、大きくなくていい、“小さな丸い好日”のような、ほっとする存在になっているのである。どれくらい心の支えになっているのか、それがどれほど切実なものだったか、と言うのは、大サビ前で明らかになる。

暖かい二人きり

 この街に二人きりの時間がやって来た
 勝手に吹く肌寒い風があたしばかり煽るから
 あなたの姿が愛しいのです

二人きり、と表現するところがキュンとするし、何となくほのかな思慕を感じられて好きなところだ。
そんな、二人きりの朝に至るまでの長い夜の時間、あたしはいろいろなことを考えていた。肌寒い風はあたしの内から吹いていた、ネガティブな思考の数々だ。のちに出てくるが「死」の発想を連れてきてしまうほどに、あたしを追い詰めていた。追い詰められていた、のである。

もし、もし朝の鳥がいなかったら、本当の意味で独りだったら、あたしが朝に辿り着くことがなかったら……と思うとぞっとしてしまう。aikoの言に従うなら、彼女は「本気」なのだ。本気であたしは、死を選ぼうとしていたのである。

そんな死に隣接していたような自分を救い出してくれたのが、この時間にさえずり出す朝の鳥だった。まあ朝の鳥の方はそんなこと知らないのだが、それでもいいのだ。そこにいてくれるだけでいい、それだけでよかった、それもまた一つの「愛」ではないだろうか。

やって来た、とあるように、あたしはそれまでの時間どこまでも独りだった。「死」が忍び寄っている程度には悪い方の孤独である。
そこに鳥が朝と共にやってきた。張りつめた独りではなく、朝の綺麗な、まだ誰しもが眠っているような静かな時間に、あなたとあたしという、愛しい「二人きり」になった。
内緒の時間だ。誰にも知られない、秘密の時間だ。言葉も交わさないし姿も見ないけれど、そんな二人きりの特別な時間に、あたしは暖かさという生きている証拠を、言うなれば生きる力を取り戻すのである。死へ傾いていた矢印が、すんでのところで生に振れ、生きることを示すのである。

一番まとめ -それは命を救う愛-

あだ名くらいしか知らない……どころか、そのあだ名すら勝手につけたものではないか、というくらい何も知らない、姿も性別も知らない。
だけど、早朝、まだ誰も起き出さない、本当にひっそりとしている中で、一日を終える=眠りに就こうとしているあたしとその“朝の鳥”は、その時間にだけ唯一出逢うことが出来る。

きっと世界で起きているのはあたしとあなただけなのだ。あなた──朝の鳥がどんな人かは定かではないが、この短い時間を共に過ごすパートナーであるその存在に、あたしの心は少し救われている。それまでの時間は孤独が過ぎて肌寒かったけれど、朝の鳥がそこにいることでほんの少し、あたしは暖かさを取り戻す。そのぬくもりにこそ、あたしは愛しさを覚えるのだ。

とまで書いて、いやはや、男女の恋愛なんて程度にはとどまらない、もはやこれは誰にでも言える話、そう、全人類向けラブソングなのでは……とオタク特有のクソデカ主語を下書きのルーズリーフにしたためていたのであるが、私が言いたいのはaikoはもっと普遍的な、様々な種類の「愛」の歌を歌うことだって、全然出来るのであるなあ、と言うことである。

名も知らない人への愛。そういう、ほんの小さなものや欠片でも、誰かを救うことになる。誰かにまた頑張ろうという気持ちにさせる、明日もちゃんと生きていこうという希望になる。
まだ一番を読んだだけだが、「朝の鳥」はそんな存在に向けた愛の歌だと思う。何よりもaiko自身が孤独な時間が長かったからこそ、そういうところに目を向けて歌えるし、書けるのだろうなとも改めて思う次第だ。

歌詞を読む・大サビ

ここでは、あたしがどれほど危険な領域にいたか、という、まさしく「ついさっき」までのことが綴られる。

あたしの涙もあなたは知らない

 思い詰めた涙の道 乾かし唄う朝の鳥

独りでいた、夜の深い時間。いろいろあてどもなく考えて、あたしは涙を流してもいた。思い詰めた、とあるのだから、実際相当だろう。そういう切羽詰まった状況の夜にいたことを読み飛ばしてはならない。軽く考えてもいけない。
読解を別にして思うのは、やはり独りでいるとよくないことってあるよなあ……ということである。だからこそTwitterのような、誰かが何かをしている、どこかにいる、というそれぞれの状況をなんとなくだらりと覗けるような場所って、結構ありがたいのではないか、と思う。以上余談。

そんな夜を抜けた頃に、何も知らない朝の鳥の唄が聞こえてくる。誰もいなかった、息もしづらかった世界にそれは祝福の鐘のようでもあったかも知れない。……と書くのは少々クサくし過ぎただろうか。

涙を乾かす、優しい、じんわりとした暖かさはどんなに希望を与えてくれただろうか。なんて大袈裟に書いてしまったが、aikoの歌い方はあくまでもさらりと、それこそ早朝に吹く清らかな、柔らかい風みたいなのだ。
それでも、インタビューで「軽い曲にはしたくなかった」と話したように、さらりとはしているが、しかしそこには確かな真剣さもあるのだ。

死と隣り合わせの少し前

 死ぬのはやめようと 少し前のあたしに告げる

少し前。少し前!?(二度見)そう、本当にほんの少し前まで、彼女は死と隣り合わせであったのだ。
けれど、朝の鳥がいるというこの短い幻のような──いいえ、奇跡のようなほんの少しだけの時間に、他でもないあなた、朝の鳥がそっとそばにいてくれるから、あたしは死と繋ぎそうになっていた手を引っ込めるのである。

本当にささやかさでちっぽけな明るさと暖かさなのだ。でもそんな軽やかで小さいものが、死のスイッチを押しかけた指を戻すのである。ちっぽけでも私達はそれらのお蔭で日々行かされているのだと、歌詞読解を放り出してしみじみと思ってしまった。何気ない存在が、私達を繋ぎ止めてくれるのである。

余談・aikoの歌詞は“本当のこと”

いや、でも「重いよ!?」となる。少しは。重いよ!?って下書きのルーズリーフにも書いちゃったよ。
でも、けれど、aikoはそれだけ本当でありマジであることを伝えていると言うわけだ。aikoが歌詞として表した以上、それは“本当”なのだ。どこだったかの読解、もしくは雑文やコラムやブログのどこかで書いた覚えがあるが、aikoが言うのならば、aikoが書くのならば、比喩でも冗談でも何でもなく本当なのだ。aikoは真剣に、真実だけを描いているのだと思う。だからこそ私も、今まで以上にもっと真剣に向き合う必要があるのだ。

……なんだか「朝の鳥」読解から逸脱しつつあるのでもうここで止めておくが、aikoが歌詞で書くことは本気で本当だ、と言うことは、歌詞という本文がいついかなる時でも一番重要であることと同じくらい確かに心に据えておかなくてはならない。そういう話だ。

あなたに夢を、恋を

曲を締めくくる大サビに入る。短い曲は早朝が短いのと同じように、すうっと終わっていく。

 繰り返す闇と光にささやかに夢を見る

繰り返す闇と光とは、一日の比喩のことだけではなくて、おそらくあたしの思考のことも含まれている、と読んでみたい。
その、いったりきたりしている(aikoの言で言うところの「入れ代わり立ち代わり」)中で、朝の鳥のような、名も知らない人との秘密の時間にも、あたしは歌詞の通り“夢”を見ているのだと感じる。一番Aメロで書かれていた通り、どんな人だろう、どういう風に話すのだろう……というような、そんな想像だ。まさしく夢でもあるし、恋でもある。

ささやかなるもの、されどあなどりがたきもの

ところで、このフレーズに登場する「ささやか」であるが、私が本稿で度々用いてきた形容動詞であり、「朝の鳥」のテーマでもあると思う。
本当に、ちょっとした邂逅に過ぎない。朝の鳥はあたしの人生の主役にも中心にもなることはないし、あたしと劇的で情熱的な大恋愛を繰り広げることもない。だが、そんな存在があたしの命をこの世界に繋ぎ止めているのである。
これはあたしだけの話ではなくて、意外と普遍的な話であると思う。他者から見ればいらないものに見えるものだとか、ちっぽけなものだとかが心の支えになっている……まではいかないくても、意外と小さな積み重ねになって人を、世界を生かしているのである。

あたしはただ待っています

 明日も同じ時間に ただ待っています

あたしは、特に何かアクションを起こすわけではない。今のままでいいのだ。お互い知らないままであることが前提の、柔らかい愛なのだ。

あたしはその存在が“在る”ことだけを(多くは望まずに)望んでいるし、あたしが選択するのは待つことだ。今のままを壊さない。もし何か下手に動いて朝の鳥が飛び立ったり、あるいは飛んでこなくなったりすれば、独りの朝になってしまうのだから。そうなるとどうなるかは……あまり想像してくはない。
これは特殊な愛の形で、こういう関係性の歌なのだ。あたしはただ、待っている。それだけだ。

愛と安らかなる眠りへ

 どうかその時まで おやすみなさい

曲の終わりに来て、ようやくあたしは一日を終えるために寝床へと入りに行く。朝の鳥が涙を乾かしてくれたおかげで、安らかに眠ることが出来るのである。
一日を閉じる時間を鳥と出逢える朝にすることで、あたしは陰鬱な気持ちを拭って、ささやかな暖かさと希望を持って、終わりよければ……ではないけれど、一日を閉じることが出来るのである。一人で夜を越えて一人で眠るよりもずっと良い目覚めが待っていると、私は思う。

「おはよう」で始まり、「おやすみなさい」で本曲は閉じられる。このありふれているけれど、とても優しい挨拶はこの曲においてはとびきりの愛の言葉である。一日の最後の挨拶を朝の秘密の時間を共有する誰かに贈るのは、至高の愛情表現であろう。
熱烈な愛ではないし、苦悩する恋とも違う。それでもこの曲にある、相手へ向けられる愛は深い。歌詞一つを取るのならば「愛しいのです」に尽きる。そう、そのフレーズが表す通り、この曲は「愛しさ」で出来ている、と言ってもいいだろう。

大サビまとめ -ハッピーエンドで眠ろう-

あたしが本当はどれほど苦悩していたか、追い詰められていたかが大サビで明かされる。
少し前まで、あたしは本気で「死」を考えてしまうほどだった。そこに朝が来て、朝の鳥の唄が聞こえてくる。闇に穴があけられ、光が射してくる。太陽はまだ完全には姿を現さない。その存在と歌が、それでも涙を乾かすくらいの暖かさをあたしに与えてくれたのだ。

それだけではない。朝の鳥という小さな、“ささやか”な存在は、あたしの命を世界に繋ぎ止めた。生きる気力を僅かにだか与えたし、もうちょっと頑張ろうとか、それこそ、そこまでの行き過ぎた考えを言わば“リセット”するような希望をも与えたのである。そしてあたしは、少し救われたような気持ちを抱きながらようやく眠りに就くのである。
おはようとおやすみ。二つの愛の言葉を朝の鳥に贈りながら、あたしの長い長い夜は、ハッピーエンドで終わることとなったのだ。

おわりに -朝はどうか希望であるように-

さらっとしてはいるが、“命を繋ぎ止める”程度には、朝の鳥は重要であり、かつなかなかに重たくもある。大袈裟すぎはしないが、そういう小さなささやかなものに私達は生かされているのかも知れない。そういうものが沢山繋がっているのだ。積み重なっているのだ。

小さな希望、というか、aikoもインタビューで言っていたけれど、「何かもうちょっと頑張ろう」「また頑張ろう」と思えるのはとても大切で、そしてたくましいと思う。ささやかながらそこにある大きな生きる力、というものを、私は読解を通して感じた次第である。

朝の鳥。秘密の時間を二人きりで過ごすロマンチックな、広い意味での愛を意味するラブソングでありながら、小さなものにこそ私達は生かされている、希望を繋いでいけるという、そういう「生きる」ことへの歌、でもあったように思う。

これは、aikoがこれまでの人生で孤独をすごく感じて生きてきた人だからだろうし、だからこそ少しの希望でも見逃さないようになったから、このような曲を書くことが出来たのだと思う。
これまでの数々の読解でも書いてきたが、私はaikoが最後には絶対に希望の方に傾くことが本当にすごくすごく好きで、多分彼女の一番好きなところ、だと思う。もっともっと伝えていきたい彼女の良さであるので、本読解や他の読解でそれが少しでも読者の皆々様に伝われば、書き手冥利そしてaikoファン冥利に尽きるというものである。

少し筆が逸れたので話を戻すが、そんなこの曲が「朝」を冠して綴られた曲であることが、個人的にはとても好ましく、嬉しく思う。曇りでも雨でも、勿論晴れていても、朝という時間は出来る限り希望に寄っていて欲しいものだからだ。

明日も逢えるだろうか。明日もどうか逢えますように。
そう夢見て眠るあたしの姿は、私達でもあるのかも知れない。そして目覚めて、私達は小さな夢と希望を胸にしながら、また新しい一日を、生きることを始めるのである。


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