何時何分また今度 -aiko「何時何分」読解といろいろな解釈-
aikoは人生な文章書く系&小説書くオタクのtamakiです。PNはおきあたまきといいます。
aikoのデビュー記念日の7月(前期)と誕生日の11月(後期)にaiko歌詞研究として2曲読んで発表する活動をしています。
2020年までは個人サイト「愛子抄」で掲載していましたが、2021年からnoteでの掲載に移行しました。マガジン「aikoごと」にこれまでの読解のnoteをまとめているほか、一部愛子抄からの転載もあります。
過去作について、徐々にこちらに転載していこうと思いますが、思った以上に時間がかかるのできまぐれです。今時ビルダーで作ってる個人サイトなのでしぬほど読みにくいですが、他の曲が気になった方は是非「愛子抄」の方にアクセスしてみてください。「カブトムシ」はこっちにあります。
本題にいきます。2021年後期は「何時何分」と「夜空綺麗」を読みました。
本noteでは「何時何分」稿を掲載します。
はじめに
「何時何分」は2016年5月18日に発売されたaikoの12枚目のアルバム「May Dream」の1曲目として世に発表された。
前作「泡のような愛だった」の「明日の歌」同様に文字数・言葉数・メロディに乗る文字が多いのが特徴ではあるが、「明日の歌」ほどの勢いではなく、程よく抑えめのついた曲調と言えようか。
「あめちゃんあったら嬉しいな」とイントロが歌い出しになっているのも特徴で、関西人らしい「あめちゃん」と言うことば選びに微笑ましく思うのもつかの間、失くしてしまった指輪を偶然見つけてしまったことで、かつての恋愛を振り返るという誰しもに起こり得そうなエピソードを綴っている一曲である。
アルバムの1曲目であることも相まってまるで一冊の本を開いたかのようなこの曲に、aikoはどのような想いを込めたのだろうか。
失くしてしまいたかったもの
「何時何分」についてメインで語っているインタビューが一本あるため、そちらを本読解の手引きとして参照していこう。
ORICON NEWSの「May Dream」全体インタビューの中で、aikoはこのようなことを話している。
aikoが日常のちょっとしたことを楽曲に昇華していくのはよくある話、というかもはやそういうのが作品のほとんどなんじゃないか、と言うことはaikoファンのよく知るところではあるが、こういうインタビューを読むにつけ、嗚呼またしても! またしても! と創作する人間からするとその才能にど嫉妬するわけである。その感性とアンテナ分けて欲しいんですけど。
私のそんなどうでもいい嫉妬はともかく、「あれだけ探した時は見つからなかったのに」と言うaikoの言は、いかにもな「探し物あるある」──を語っているのではなく、非常に皮肉さを感じるきっかけであり、何とも言えないものを感じる。このアイロニカルさというかシニカルさが、ひょっとするとサビの最後の歌詞である「空はとても晴れている」に表されているのではないだろうか。
いやその癖なんとかしろ(マジレス)は置いといて、後半のaikoの発言がもはやこのインタビューにおけるサビであって、いっそもうここだけ読めば「何時何分」はほぼ理解出来ると言ってもいいほどで、開始早々閉廷してしまいたいくらいあるのだが、それはさすがに無様なのでちゃんと投げ出さずに読んでいこう。
「どんどんずれていって終わってしまった」と答えてもいるように、「何時何分」は簡単に言えば、すれ違いで終わらざるを得なかった恋を描いた曲なのだが、「嫌なことが起こって、それがすでに大事じゃなくなっていたり、むしろ、失くしてしまいたかった物になっていたりして。寂しいなと思う」というこの発言が本当に、この曲の核心を一言で突いているようなところだ。それゆえにこの曲全体のテーマ、方向性として見てもおかしくはない。個人的にこの発言を念頭に置いて「何時何分」を読んでいきたいと思う。
何時何分何曜日地球が何回回った日?
ところで「何時何分」と言うタイトル、一見するとまさしく「何??」という字面ではないだろうか。aikoタイトル意味不明選手権ベスト10には確実に入りそうな字面なのだが、幸運なことにこのタイトルに関してはaikoの言及資料がある。アルバム発売時「信号」を歌ったゲストライブで出演した「CDTV」のコーナー・アルバムレコメンド内で述べていたのだ。録画を見返して、文字起こしをしてみた。
……。
いやわっかんねえよ……(宇宙猫顔)(投げ)文字起こししてた時の私の気持ちマジでこれ。
が、この僅か過ぎて正直全然意味がわからない証言を何とか紐解いてみたい。「子供の頃」とaikoが言うことから、つまりこの「何時何分(何曜日)」とは「子供じみた言い分」であり、更に「ケンカ」と言う背景を考えると、「むきになって言った言葉」でもある。aikoがこの言葉を持ち出してきた意図としてはこの二つが挙げられるだろう。
もう一つ考えるとすると、こんなこと言われてもしゃ~ないと言うか、非常に「どうでもよくて、つまらない、くだらない言い分」と言う面も加えていいだろうか。発言時にaikoが苦笑して言っていたことから考えても、そう大きくズレはないのではと思う。
「何時何分」における過去の恋愛においての「あたし」がまさにそんな、子供っぽい言い分をしてしまうような未熟な状態──例えば「えりあし」の「ぶったりしてごめんね」と言っていたかつてのあたしのような、そんな幼い存在だったということだろうか。
とは言えこれはあくまで、歌詞本編には触れていない暫定解釈に過ぎない。歌詞を読んでいくうちに探れるものもあるだろう。そんなわけで、歌詞を読んでいこうと思う。
望まれざる客人
冒頭で書いた通り、本作はイントロがのっけから歌い出しとなる。序章と言ってもよいこの段落から、ゆっくりとこの物語が始まっていく。
ところで「あめちゃんあったら嬉しいな」とは、ここだけ切り取ると到底恋愛の曲とは思えない。
そう。思えないくらいの、あたしにとっても何気ない日常のほんの一瞬の出来事だったのだ。しかしカバンをがさごそ探り、指輪を掴んでしまったことで状況は一変してしまう。
ゴミ屑に紛れていた指輪──つまりゴミ屑と同列に成り下がってしまった哀れな指輪なのだが、これについての言及は一番おわりに改めて行うとして、この指輪の存在をあたしはほとんど忘れていたと言ってもよい。aiko曰く「失くしてしまいたかった」ものであり、いわば「見つからないでいて欲しかった」ものでもある。
と言うことは、今はまだその段階と言うことで、おのずから、恋の終わった頃からそんなに時間が──少なくとも年単位では経っていない時期だったのではないかと推測される。美しい思い出としては昇華し切れていない頃なのだろう。
それにしても「お前こんな所にいたのか」は少しユーモラスと言うか、まるで小動物に言うような仕草で、しかしながらかえって突然現れたそれへの距離感をどう取ればいいのか、あたしの方が掴み切れていない──そんな些細な動揺も見出せるような気がする。……と言うのはちょっと穿ちすぎな読み方だろうか。まあこの辺の解釈は人によるということにしておきたい。
きっとあなたとの恋が終わってしまったと同時に指輪も消え失せてしまっていたのだと思い、あたしはほとんど忘れていた。そのまま時が経てば、他のaiko作品にもあるような、きっと穏やかな思い出として落とし込めていたはずだ。
しかし現実は非情である。そして皮肉屋である。のほほんと終わるはずだったあたしの一日を、一気に変えてしまった。あの思い出とも、あなたとも一緒にいなくなってしまったらよかったのに──きっとそんな風に思っていたであろうあたしもまた非情、というかシニカルである。
だからこの段落は、何気なくも冷たい現実と冷たいあたしの、望まれざる邂逅だったのだ。そして世の大体の物語は、得てしてこう言った何気ない日常から始まっていくのである。
三つの感覚
イントロでやや書きすぎてしまったが、物語は次の一番Aメロから始まる。
ものすっごく好きな表現のところで、自分の小説でもついつい真似して書いてしまったりもしたくだりなのだが、それは置いておくとして、一読してお気付きかとは思うが、ここには五感が全て表されている。
目と耳が視覚と聴覚、そして体が触覚、鼻が嗅覚、唇が味覚をそれぞれ示しているわけだが、さすがにこれはaikoが意図して書いたのだと思う。……いや意図してなかったらそれはそれで天才だが……。なんかaikoのことだからそっちの方があり得そうで怖いんだが……。
「嫌な事だけ見えない目と 悲しい事は聞こえない耳/そんなものあるはずないし そんなものなんて欲しくもない」の箇所であるが、と言うかこのAメロ全体、歌詞全体を考えてもこの部分だけは随分と達観した物言いをしている。かつての恋の回想が行われるところではあるのだが、まだそれは始まっておらず、あくまで今の地点(指輪を見つけた段階)からの冷静な分析と考える方が通りが良い。あの頃はわからなかったけれど、今にして思えば……というニュアンスだ。
さてここで「目と耳」「体・鼻・唇」の対比を考えてみたい。「嫌な事だけ」「悲しい事」と書かれていることからわかるのだが、「視覚」「聴覚」は外的な情報を仕入れる感覚であるゆえに、何か──気持ちを外的要因によって損なわせてしまう可能性も十分にある感覚である。
確かに、善きもの素晴らしいものを見ること聞くことも出来るし、それこそあなたの姿を見ること、あなたの声を聞くことの出来る唯一の器官であるわけだが、それ以外のもの、「嫌な事」も「悲しい事」も悲しいかな、必ず拾ってしまう。
が、だからといってそれを遮断する都合のいい目と耳など、そんなものないわけである。あったら本当に欲しいくらいだ。たとえばTwitterのミュート機能のように特定の人や話題の声だけ聞こえないような耳があったら、どんなに法外な金額を要求する外科手術でも是非受けたいと思ってしまう。
が、そんな私の考える絵空事だって当然ないわけで、「そんなものなんて欲しくもない」ときっぱり歌ってしまえる現在のあたしは、かつて「そんなものを欲したかも知れない」過去の自分を一閃するような、強烈な突き放しの冷たさを有している。
対して、「あなたの匂いを大好きな あなたの体を大好きな/あたしの鼻とこの唇 それで十分だったの」であるが、この三つの感覚が全て「あなた由来」であることにもお気付きだろうか。「あなたの体」「あなたの匂い」「あなたの味」これらは全てあなた以外のものでは決して賄えないものだ。
あなたありきで、あなた本位の感覚である。確か嗅覚が人間の一番古い感覚ということだが、この三つの原始的というか、ラディカルな感覚と言えばいいのか、また相手の「体」に即している、非常に肉体的なものから得られるものであるので、実にaikoらしいフィジカルさ、aikoにおいて肉体的感覚がいかに尊重されるかについても、大いに感じるくだりである。
「それで十分だったの」と言う評価も、まさに恋愛における金言と言えるだろう。いっそガラス越しに相手を見ることや声を聞くことよりも、姿は見えなくてもいいから、手を握るなどの触れ合いの方がずっとずっと良い。後者を選ぶ人の方がずっと多いと言うデータがあるのだと、高校生の頃、今は亡き恩師に、実際にあるのかどうかわからないが、そんなことを教えてもらったことがある。
しかしそれは裏を返せば、この三つの感覚を失えば、屋台骨や大黒柱を失ってしまうようなもので、続くBメロの出だしがまさにそうなのだが、あたしはあなたに会えなくなったことで、肝心のこの三つを失ってしまうのである。残ったものは、否応なしに嫌なことも悲しいことも受け取ってしまい、やがては気持ちを損なわせてしまう目と耳だったのだ。どういう形でもいいから、何かしらで会おうとしていたのなら、まだ違った未来があったのかも知れないが……。
どうして言ってくれなかったの?
続くBメロはAメロよりも過去を振り返る。
「なんとなく会わなくなって」しまったために、「それで十分」と言える三つの感覚を徐々に失うことになってしまったあたし。電話やメール、LINEといったやりとり、いわばあなたとの繋がりも途絶えれば、もはやそれは孤立だ。「思ったことを言い合えたあの頃」を愛しく懐かしく思い始めるのも、破滅への序章と言ったところだろう。
そしてサビ前の「言いたい事があったなら どうして言ってくれなかったの/言いたい事があったのに どうして言えなくなってしまったの」の対句なのだが、このどうしようもなさというか、如何ともしがたさ、狂おしいほどの、けれども虚無も含んだもどかしさと切なさと苦しさに、思わず唸ってしまう箇所である。と言うのはあくまで単なる感想なのだが、じゃあこの無責任な問いにどう答えるのが最適なのか、何を言えば満足なのか、としばらく考え込んでしまう。
要はここは完全なる八つ当たりにも近い箇所であり、食ってかかってんなあ、と思ってしまうわけである。正直そんなこと言われてもと困ってしまう部分で、こんなことを言っているあたしはどうにも子供っぽいなと思ってしまうのだ。少なくともAメロに存在した達観していたあたしよりも、大分遠いところにいるように思う。
とにかくBメロ全体、湿っぽいというかしみったれているというか、指輪によって隠されていた自分が発露している風に受け取れる。あまりにも生々しいどろどろした気持ちの発現だが、それゆえに深く私達の心に突き刺さり沁み渡る。この対句のような気持ちは、多かれ少なかれ、人生で感じたことが誰しもにあるだろうから。
また今度っていつ?
そして「さようなら」から始まるサビが綴られる。
終わってしまった恋を振り返るあたしは、「さようなら」を告げられる境地には、一応いる。
のだが、これは単なる「さようなら」ではなく、「また今度さようなら」なのだ。その理由はそのまま歌詞に述べられている。
どうだろうか。「また今度」、つまりは、「いつか会えるかも知れない可能性」だ。──正直、あるかどうかもわからない可能性と言うか、あまりにも儚い希望を、一縷の望みとばかりに、何の力も約束もない言葉に託している。
思い出すのは、2013年の「Loveletter / 4月の雨」のカップリングに収録された「そんな話」の一節にある、「次に逢える様にと CD貸すのもやめるね」である。
このフレーズ、最初に聴いた時はおののいたと言うか鼻白んだと言うか、とにかくaikoの書いたフレーズの中でトップクラスに打算的で人間くさいワンフレーズだなと思うのだが、しかしこの一節より「何時何分」の「また今度」は確実性も信憑性もなく、あまりにも「気休め」でしかないように思う。それでも、とめどなく溢れているであろう涙やモヤモヤや悲しみを落ち着かせるために、仕方なくあたしは思うわけである。
そんな気休めで気持ちを宥めながら「愛してる愛してる だからね 好きだよ」と心境を歌いあげていく。
恋が終わっても──指輪を見つけてしまった今もまだ、想いはあったのだ。指輪を見つけたくなかったのも、失くしたままでいたかったのも、その想いをゆっくりゆっくり死なせたかったからかも知れない。すっかり死んでしまった後ならもう少し綺麗な気持ちで回想が出来ていただろう。ところが中途半端な状態で発掘されたそれは、もはや死んでも死にきれないくらいの、実に惨めな気持ちになっていたのかも知れない。
続くサビの締めくくりで、この曲のタイトルである「何時何分」が現れる。aikoの発言から考えるに、「また今度って言うけど、また今度っていつなん?! 何時何分何曜日!?」と食って掛かっているような意味合いだろうか。これは回想し振り返っているあたしが言っている、というよりは、「どうして言ってくれなかったの」と湿っぽくグズグズ絡んでいたあの、恋をしていた当時のあたしが噛みついているように私には思えるのである。
が、それにはかばかしい返事をすることもなく、何時何分何曜日ははっきりしないまま、一番は終わりを迎えていく。
それでいて締めくくる言葉は「空はとても晴れている」なのだ。これは後の「青空」(2020年)の「ボーッとした目の先に歪んだ青い空」「本当は涙で見えないただの空」と言ったフレーズをあまりにも思わせる一節であることを、aikoファンならばどうしても感じ取ってしまうだろう。(そういえば「青空」にも二番サビで「薬指を縛る約束を外しても ほどいて無くしても」と「指輪」を想起させるフレーズがあるし、しかも同じように無くしている)
あたしが泣こうが喚こうが、失恋しようが何しようが、そんなこと世界も自然もこれっぽっちも知らないわけである。世界は何一つとして人間に優しく出来てはいないのだ。
つまらないもの
さて、通常ならばここで二番を読みに行く流れなのだが、一旦立ち止まって、少し整理してみたい。
あたしが失くしていた指輪についてなのだが、それが表しているのは当然指輪だけではないわけで、たとえば二人の絆であったりとか愛だったりとか、そういった様々なものの象徴としての指輪だったことは、何となく感じていただけると思う。
しかしそれは、イントロの時点──恋が終わってしばらく経った後、は当然として、恋が終わる少し前から紛失していたのかも知れない。いずれにせよ、ゴミ屑と一緒にカバンの中に転がっていたということは、悲しいが所詮、この二人の間の絆だのと言ったものは“そんな程度のもの”だったのだなと思ってしまう。当然、書いていて私はものすごく辛いのだが、そういうことなのだ。
いや。違う。ちょっと違う。本当は、本来なら絆も愛も想いも、素晴らしく素敵なものであったはずなのだ。大事にすべきもので、お互いに尊重し合わなければならなかったもののはずだ。当然そうであるはずなのだ。
しかし、そうであったはずなのに、お互いに──あるいはあたしだけが──「嫌な事」「悲しい事」に代表されるような、二人の恋に於ける“つまらないもの”に囚われてしまった所為で、ゴミ屑と同等のものになってしまったのである。「そんな程度のもの」というか、「そんなもの程度」に「してしまった」のだ。
だから、もうここで端的にこの曲を一言で述べてしまうと、「何時何分」とは、「つまらないものに気を取られ、どんどんズレていき、大事なものを失い、ついにはゴミ屑と同等になってしまう、してしまう」ということで、それをこの曲は歌い出しと一番全体だけで見事に描き切っているのである。
そう思うと、「何時何分」という、一見しただけでは意図をはかりかねるタイトルも実に巧妙と言うか、子供のようなムキになった言い分、つまり、ものすごくどうでもいい、くだらない雑言の意が込められたこの言葉、つまり「くだらないこと」──歌詞に添わせるのならばきっと、「嫌な事」「悲しい事」こそ、恋を瓦解させたものであったのだと、そういうことを表しているのだろう。
全部夢なんだよ
一旦のまとめが済んだので、二番を読んでいく。
二番A……というか、二番全体に言えるのだが、ここは現在地からの振り返り、俯瞰の視点と言うよりは、回想は回想なのだが、それよりももっと生々しいものを感じるのである。ここだけ時間軸や描写がいやにリアルというか、今まさにこの時間である、という感じだ。
これはaikoが、二番以降の歌詞を後から制作するスタイルの作家だから出来ることと感じる。一番と空気が地続きになっているわけではないのだ。
とは言え、最新曲「あたしたち」や最新アルバム「どうしたって伝えられないから」収録の「片想い」のように、一番を十数年前に書き、続きの二番を最近になって書いたにも関わらず、ものすごくすんなりと繋がっている曲もある。しかしそれにしたって、いやに一番からは浮いているような気がする。ここには、指輪を見つけてかつての恋に遠い目を向けていたあたしと言う彼女は、まだ存在していない。
ではその二番Aを読んでいく。おそらくは失恋直後、と言ったところだろうか。絶望真っただ中と言うか、少なくとも前向きに生きよう、生きてみせようと思えるくらいの光はまだ見出せていない頃だ。
「何か世界が変わってたり あなたから連絡が来てたり」と世界が変わることを求めているのは、あまりにも重い。「一瞬の眠気に襲われ 数秒つぶった間にさ」と前置かれているのは「今自分のいる世界こそが夢であり、幻である」と思ってしまいたいことの表れでもある気がする。し、そうして得た変わった世界も、あなたからの連絡も、結局は「夢」であることを暗に示しているように思えて、どっちを取ったところで控えめに言わずとも死だな、と苦々しく思う次第である。
そう。どっちにしろ絵空事で夢で幻だ。それをあたし自身もわかっているから、「そんな事あったらいいな そんなはずあるわけないな」と厳しく斬り落とす。冷たくもあるのだろうが、嘲笑っているようにも取れるシニカルなくだりだ。
こんなことをきっと彼女は繰り返していて、ただ苦しさが募っていくこの時間を嫌っている。一人孤独の果てにある彼女は、そんなことをしているこの時間のことを「重たい静けさに食べられる」と歌うのである。
ハサミで切れるわけがない
続いて二番Bだが、ここは非常にリアル過ぎて、正直こういう経験をしたことが、ひょっとすると誰しもにあるんじゃないかしらと私はかなり本気で考えてしまうところである。
最初の二つは努めて明るく、気持ちを吐き出し、ジュースでも飲んで切り替えようとしている。要は“普通”を装っている。自分はもうとっくにふっ切れましたと全然平気であるフリをしているのだ。健気であるし、いやかえって哀れにも見えてどうにも胸が痛くなる。
しかしだ。実際にはAで読んだ通り、全然なのである。そんなに簡単に切り替えられるほど人間は単純には出来ていないのだ。明るく切り替えて忘れようと努力したところで、依然として絡みついたままなのだ。それでいて「ハサミで切る気もない」のだ。まだ、まだ断ち切れない。そんな元気は、やっぱり無い。結局空元気でしかなかったのだ。
そして締めくくりが「想うって事はこんなにも あなたで埋もれるって事なのね」と言う表現である。おそらくAの「重たい静けさに食べられる」様子がこれなのだろう。表現は実に秀逸であり、あなたの沼に沈んでいるようなあたしを思うといっそホラーの様相さえ感じられてくる。
届かない「好きだよ」
そしてサビへ行く。「知らぬ間に伸びた影」とは、読んで字の如く知らない内に出来てしまった距離の表現としてやはり秀逸である。そのどうにもならないまま終わった、今もなお広がり続ける距離を意識しながら「髪の毛の間の目」「呼び捨てにしたあなたの名」を、それぞれ思い出しているのだろうか。
名前については、おそらくスマホ画面の表示のことを言っているのではないかと考えるのだが、この「呼び捨てにした」というところに、何とも言えないものを感じる。距離を詰めるためにそうしたのか、あるいは、反応が欲しくてわざとそうしたのか。その狙いの真意はわからないものの、なんとなく、「大した意味もなく終わったんだろうな」と言う──言ってしまえば徒労を思わせる。
何せ恋は閉幕してしまっているし、歌詞にもある通り「見つめても見つめても届かない好きだよ」なのだ。
届かない。すれ違って逢わなくなった頃から、何をどう発信してもだ。そして仮に、受け取ってもらえたとしても……。
サビの最後は「今日は少し泣いている」で閉じられる。いや、少しどころではないのではとマジレスしたくなるところなのだが、落ちるところまで堕ちるともはや涙すら出なかったりもするし、泣けるだけまだマシなのか? とも思う。一番の「晴れている」の対比としての意図もあるだろうし、指輪を見つけた頃は、とりあえず泣きはしないくらいまで回復出来ているということだ。
一番との対比をもう少し話すと、また今度という未練はありつつも「さようなら」が出来ているのに対し、この二番では「さようなら」も、それに類する表現も全く出来ていない。どっぷりとまだ「あなた」に埋もれているし、言うなればまだまだ喪に服している頃である。
本当に、二番冒頭で述べた通り、ここでのあたしは今まさに「この時間」のあたしなのだ。どこまでもリアルが息づく時間軸である。
ところで二番の「何時何分何曜日」は何を表しているのか、いろいろ考えたのだが、いまいちぴんとこない。読解本文中ながら雑に書いてな~んもわからん状態である。
ただ、aikoの意図から離れて好き勝手に言わせてもらうと、事務的な記録と言うか、日記の日付のような、そんな無味乾燥としたイメージがある。あるいはこんな風にあなたに埋もれている「今」が何時何分なのか、それさえもわからなくなっている……というような感じなのだろうか。
ん~。いや~、何なんでしょうね、これ(知らん)これを言っちゃおしまいな気もするが、音楽・歌なので単に同じ語句をメロディにはめただけなのかも知れないし、特別深い意味はないのかも知れない。この辺の読みは人それぞれということにしてもらいたいのだが、それでも筆者的に感じるのはやはり「事務的な表現」「日記のような表現」だ。
何一つ立ち直れていない、深い悲しみに沈んでいるあたしを観察しているような、ただただ淡々と事実だけを述べるよな──そうやって書くことで、今があえて空っぽであることを表しているような、そんな気がする。空っぽ。そう、何時何分と書いてあるものの、具体的な時間を指示してはいないのだから。
心はまだ離れては
物語は終わりに向かう。ラスサビは一番とほぼ同じだが、生々しい、過去なのに現在の時間軸のようだった二番を経た所為か、一番よりも重たい感情が付されているように感じられる。特に「愛してる 愛してる」のaikoの歌に乗せているものは深く、是非曲本編も合わせて鑑賞して欲しい。
そんな感情の込められた「愛してる」なのだが、しかしながら二番で見た通り、何もかも今となっては「届かない」なのだ。「また今度」など最初からなかったことを、私達は知ってしまっている。
それでも、「愛してる」と「好きだよ」を──心の底に隠していたそれを、届けたく思う。がさごそ探ったものはカバンではなく、心そのものであったのだ。指輪はそれ自体が示していたように、落としてしまった気持ちをあたしに甦らせた。ここにまだそれがあったことを、ここにあるのだと、いっそ届かなくてもいいから表したかったのだ。それが死んでしまった全ての恋への弔いとなるなら、届くか届かないかなど些細な問題に過ぎないのだ。
それにしたってまだ、やはりまだ未練がある。「また今度」は自分を宥める為もあるが、少しくらいは「またどこかで……」「もしかしたら」とほのかな期待を寄せている。だから、例えば「磁石」ほど振り切れてはいないし、「宇宙で息をして」ほどサバサバ出来てはいない。
何、と言えばいいのだろうか。「頭は離れているけれど、心はまだ離れてはいない」ような状態と言えばいいのだろうか。理性と感情、その分裂と温度差が表されたのがこの曲「何時何分」だったのだろう。
そして繰り返される、まさにそのタイトルも表す「何時何分何曜日」であるが──1番の読解で述べた通り、「また今度っていつ?!」の苛立ちなのだろうけれど、ここでまた、二番サビ最後に書いたことと同様に私が自由に考察することの一つとして、「何月何日」ではなく「何時何分」であるのは、ひょっとすると、日にちに関係なく存在する、常に二十四時間で変わらない時間の方を主体とすることで、どの人の記憶にも寄り添えるようにしているのかな、と言うことだ。
無論、既に書いた通りこれは私が好き勝手に考えたことなので、aikoがどこまで考えているかは謎であるし、多分そこまで考えてはいないだろう(謎の信頼)(失礼過ぎる)
時を超えて絡みつく
ところで、「また今度」とは既に書いたがaikoらしい希望の添え方であり、「何時何分」の恋愛全体を考えてみても、「えりあし」系統の希望を思わせるのであるが、それにしたってまだまだ未練が重々しいというか、思い出として落とし込めてもいなければ当然昇華もし切れていないといった感じであろう。「あたしの向こう」や「赤いランプ」や「シャッター」のように思い出の中に残れたら、それがどんな形であれあなたに響いていたら……というところまでは、まだ到れていない。
それ以前かつ、まだ自分で落とし込めていないどろどろさのこともあり、なおかつ、この曲の冒頭のこともある。
今更歌い出しのところまで戻るのだが、「偶然見つけた指輪」について、私はのほほんと終わるはずの日常を一変させたと書いたが、この恋の記憶は、そんな風に忘れられない、突然ぶり返してしまう、いわば「逃れられないもの」の象徴だったのかも知れないと、今更ながらに思うわけである。生きている限り記憶としてまとわりつくのは、救いや安らぎでもあれば、ある意味、呪いでもあると見ることも出来るだろう。
何事もなく続くなら
そして曲をしめくくる、「空はとても晴れている」──1番で述べたこととやはり同様になってしまうのだが、あたし“ごときの”恋がどうなろうが、泣こうが喚こうが、何時何分と噛みつこうが、世界は関係なく続いていく。自然は何一つ寄り添わないし、理解もしないし、思いもやらない。やはりあまりにも、後の作品である「青空」のプロトタイプを見ることが出来るくだりである。
きっとあたしは、呆然と世界を、空を見ていることだろう。何があっても世界と日常が続いていく様に一種の突き放しをまざまざと感じるのだろうけれど、でも、それは翻って見ると、先ほど述べたような呪いを抱えるあたしにとっても──かつての想い人との思い出が呪いにもなり得るのと同じくらい確かに──晴れた空が一種の救いにも見えるはずだ。
恋も愛も、一度ダメになったからって、人生を棒に振るくらいのものではない。世界が何事もなく続くなら、あたしの人生だって、何事もなく続けばいいのである。それがきっと、恋愛という現象を超えて、生きていくということの本質そのものなのだ。
あたしにそれがわかるのは、一体いつなのだろう。あたしが本当の意味ですべてから解き放たれ、歩き始めるのは、一体いつ? それこそ、何月何日の、何時何分何曜日、地球が何回回った日?
問いかけはそんな風に、ただ無責任に放たれる。だけど、空の青さと眩しさをぼんやり見つめているあたしを想うと、そう遠くない未来であるようにと、ただただ、リスナーとしての私は祈るばかりである。
おわりに -組曲「May Dream」-
指輪を見つけたことで引き出されてしまった過去の恋への想い。心はまだあの恋から抜け出しきれていないし、世界はそんなあたしに介入せずただただ淡々と時を進める。
そんな、様々な人の人生に沢山あるであろう瞬間の物語を「何時何分」は描いていると、そう感じた。aiko自身が実際に見つけた指輪からよくもまあここまで……といつもいつも感じることをやっぱり今回も感じるわけだが、この終わりにの段落で、少し勘ぐりめいた、特に論拠のない思い付きを書こうと思う。
発売当時から指摘があがっていたような記憶があるのだが、何がと言うと、アルバム最後の曲である「蒼い日」は、この「何時何分」の未来なのでは? ということである。
と言うのも、「何時何分」の「言いたい事があったなら どうして言ってくれなかったの/言いたい事があったのに どうして言えなくなってしまったの」に対して、「蒼い日」の中にはこんなフレーズがあるからだ。
それより前には「聞こえない 見えない 知らない ふりをただしていたね」と言うフレーズもあり、ここは「何時何分」で言うところの「嫌な事だけ見えない目と 悲しい事は聞こえない耳」を思わせる。
勿論「蒼い日」は「蒼い日」独自の物語があるのだろうが、「何時何分」を一曲目にし、そんなフレーズが差し込まれている「蒼い日」を最後の曲にしたのは、どれくらいaikoの狙いがあったのだろう、と考えてしまうわけである。
しかしそれにしても、めちゃくちゃグズグズしている曲である「何時何分」を一曲目として始まるこのアルバム「May Dream」だが、最後にはものすごく達観した、それこそ「えりあし」のあたしのようにぐっと大人びた成長を遂げている「あたし」を主人公にした「蒼い日」で閉じられるのは、まるで朝ドラもびっくりな女性の一代記を読んでいるような気さえしてくる。
私はよく、「May Dream組曲説」を、特に論拠もなく言っているのだが、どういうことかと言うと、この「何時何分」を起点として、シングル曲を除くオリジナル曲だけを順番に聴いていくと、失恋したり、一人暮らしを始めたり、夢に向かい始めたり、新しく誰かを好きになったり、かつての恋を思い出したり……と、わりと綺麗な道筋で「あたし」が成長しているように聴こえる、と言うことだ。
「蒼い日」まで辿り着いた時には、「何時何分」や「冷凍便」の、混迷している未熟なあたしの姿が随分遠くなっていることに気付くだろう。それは単に曲目として離れているから、という単純な理由だけではないように私には思えて、そのために「メイドリ、ひょっとして組曲では?」と妄言を口走ってしまうのである。
是非この機会に「May Dream」を聴いてみて欲しい。「何時何分」のあたしが時を経て「蒼い日」に至ったのでは、と言うのはまったくの想像でしかないことだけれど、人間のたくましさとひたむきさと、どんなに恋に痛手を負っていても、時が経てば、生きてさえいれば、この境地まできっと至れるのだという確かな希望を感じることだろう。
そう。希望。やはりaikoに必ず息づいている希望に、私はどこまでも惹かれるし、それこそが、aikoが愛される理由と信じて疑わない。この先も彼女の放つ希望をどこまでもどこまでも、追いかけていきたい所存である。
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