恋が手遅れになる前に -aiko「アンドロメダ」読解-
aikoは人生な文章書く系&小説書くオタクのtamakiです。PNはおきあたまきといいます。
2022年aiko歌詞研究・後期は「青空」と「アンドロメダ」の読解で、本noteでは「アンドロメダ」稿を掲載します。簡単なごあいさつと説明は「青空」読解の冒頭をご覧ください。無駄に長い自己紹介。
はじめに
aiko「アンドロメダ」は2003年8月6日にリリースされたaiko13枚目のシングルである。前作「蝶々結び」に続きグリコ・カフェオーレのCMソングであり、CMにはaiko本人が出演していた。
今となってはもう絶滅危惧種! どころか絶滅! くらいある超貴重な存在である黒髪のaikoである。検索すれば画質は悪いものの一応動画が見れるので、見ていない人は見てみるのをお勧めする。作者は未だに最後の「ほっといてー」が独り言で出てしまう(どういう状況で?)
なお最初にリンクしているMVでも黒髪aikoである。↑のサムネに思いっきり映ってるのだが、赤いワンピースに前髪ぱっつんの黒髪という風貌は完全にトイレの花子さんのそれである(え?)ほらちょっと!見てみ!この出てる肌!白いやん!怖いやん!? なのだが、19年も前というと二十代後半に差し掛かるくらいなのだが、そんな感慨(?)を抱いてしまうくらいにはaikoが小柄で童顔であるかがわかる。
19年前って何年前???
この曲は私が高校生の頃にリリースされた曲で、ぼちぼちアラフォーに差し掛かる私と同年代の30代には比較的有名な曲ではないかと思われる。年代に区切らずともベストアルバム「まとめ」にも収録されているし、aikoを全体的に見ても有名な部類に入る方だと思うのだが、もう19年も前の曲である。……いやさすがにエッ!?もう19年前!?19年前って何年前!?!?! となってしまったくらいである。
ちなみに夏休み真っ最中のリリースだったので、「アンドロメダ」収録の三曲は全て筆者の懐かしい夏の日々の思い出が詰まっている。「どろぼう」は母校の高校の校舎のむせ返る廊下を思い出したりするし、「最後の夏休み」は同じく高校の下駄箱や昇降口の風景がふっと浮かんできたりする。
それと歌詞カードは桜餅の匂いがすると話題になったんじゃ……(いや話題になってたかどうか知らんけど)(検索すると引っ掛からんこともない)(ソースが当時のあいこめだから有名やろ!aiko本人が言っとったんやぞ!)それからこの年はフリーライブことラブライクアロハが初開催でのう……あいこめでそれとなくゴリラだのなんだの匂わせをしとったんじゃ……。そしてアロハの記念すべき一曲目がこの「アンドロメダ」でのう……。
というような口ぶりで書いているとさすがに嘘偽りなくaiko老人会のような空気になってしまう。いや~~~さすがに19年も前だと夏服からの新参である私もつい老人会ごっこをしたくなってしまうものである。マウントとかではなくて。
いやしかし大した社会貢献も親孝行もせず無駄に歳を重ねてしまっているな……と愕然とすることが多いものの、振り返るとどこかに確かにaikoに紐づいた思い出がある、ということはこの移り変わりの激しい昨今、得難い幸せだとつくづく感じる次第である。それもあなたと過ごした印 そう幸せに思えるだろう、とはまさにこのことか、と思う。いや別に強く悲しいものを書いたわけじゃないけど。
アンドロメダなんもわからん
懐古はそろそろ置いといて閑話休題である。「アンドロメダ」はaikoの疲れ目のエピソードから出来たことも、aikoファンなら知っている程度には有名なはずである。
一番がそのエピソードそのものとなっているので非常にわかりやすい文脈と背景ではあるのだが、しかしながら私は、実を言うと「アンドロメダ」の歌詞は一体どういう意味があるのか、どういうことを言っているのか、と言うことが、リリースされてから19年も経っているというのに全く、それこそ毛程も掴めていなかったのであった。いやいや歌詞研究業10年やってるんじゃなかったんかい。
ところがどっこいこいつはマジの話である。記憶のクリップって……何? 最後の呼びかけって……何…どゆコト…? と、aiko本人に直接聞かなければ真意が掴めないような(いわゆるaiko電話案件)謎が多く、自分には手に負えないのではないか、全然何もちっとも皆目わからへ~んなのではないか……? という怯えから、敢えて手をつけず遠ざけていた曲なのだった。
そしてこういう曲はaikoにはゴロゴロしているのである。もっと言うと私は歌詞研究でやろうと決めるまでかなり漫然と歌詞を聴いてるタイプのくそ不真面目aikoおたくなのだ……。
しかし、今回どういう風の吹き回しか、思い切って「アンドロメダ読んでみようかなあ」という気になったのである。
これといってきっかけがあったわけでもなく、気が向いたというのに近い。もう少し真面目に書けば時機が来たというところだろうか。振り返ってみればaikobon世代(ライナーノーツがaikobonに載っている曲群。アルバムで言うと「小さな丸い好日」から「夢の中のまっすぐな道」までを指す。今勝手に作った)の曲は去年2021年前期の「すべての夜」以来やっていなかったのもあったのでちょうどいいだろう。
未だに私が全貌や意図を掴めずにいるこの「アンドロメダ」を、aikoはどういった狙いで書き上げたのだろう。
資料を読む
今回はaikobonと発売当時のフリーペーパー、雑誌の3つを見ていく。
これまで度々書いてきたが、2003年の発売当時高校生だった筆者はおこづかいに乏しく、この時期の資料はほぼ無いに等しい。
ゆえに時折オークションや中古ショップ、古本屋などで発掘して集めたりするのであるが、いずれも資料価値が爆アリなのである。ネットの記事と違い入手は難しいが消えることはない。紙資料は有意義かつ正義……戻ってきてくれ……(「果てしない二人」も「ねがう夜」も、紙資料、一冊も出なかった…)(私が確認できてないだけであるかも知れんですけど…タワレコのフリーペーパーとか…)
aikobon
まずはaikobonのライナーノーツから見てみたい。既に書いたが、曲が出来るきっかけとなったキャンペーン中のある出来事について言及している。
なお、このキャンペーンでの出来事は今回参照する三つの資料全てで言及があるので(pauseのみインタビュアー(※安心と信頼のみんな大好きもりひでゆき氏)による紹介)によるもの)「アンドロメダ」の話をする上で必須のエピソードである。
非常に多忙なキャンペーンというと「花火」を思い出すが、さすがに売り出し中のその頃ほどではないものの、紅白出場を果たし、CMやドラマ主題歌のタイアップも付いたりと、立派に第一線の売れるアーティストとして世を邁進している頃のノリにノリノリなaikoである。時代もあるが彼女が若かったのもあって、今よりもじゃんじゃか地方を周っていたことだろう。
だが充実している反面、そうなると「そのときすごい疲れてて」と本人も言っている通り、疲れも順調にたまっていく。それは身体的なものにも影響して、aikoが「すごい視力いい」と語る目に一種のサインとして表れていた。
往々にして、人は疲れている時はロクなことを考えない。その「よく見えない」という“いつも出来ていたことが出来なかった事象”から、aikoは「こうやって私は大事なものも見落としていく」と飛躍したことを考えつくのである。
「すっごい大切な人が今、信号の向こうに立っていたとしても、今の私には見つけることができないな~」という発言はそのまま「アンドロメダ」の一番サビである。あまりにもそのまま過ぎてびっくりする人もいるのではないだろうか。何を隠そう私がそうです。
「自分の気持ちを持ち上げるためにもアップテンポなものにした」というのは他の曲にもちょくちょく見られる実にaikoらしい手法である。曲を切なくすれば「アンドロメダ」はたちまち稀代の悲恋ソングに塗り替わっていたのだろうか。ひょっとするとaikoはそうなることが読めて、それで避けたのかも知れない。
などと思うわけだが、他の資料を当たった上でここを読んでみると、少し違った意図が浮かび上がってくるし、悲恋の結末をどうしても避けたかった、と言う私の読みもそう外れてはいないと感じられる。このことについては後々言及したい。
aikobonで語られていることで、歌詞や曲の世界観に関するものは引用した上記の二つのくだりのみであるが、正直他の資料と比べると曲を読み解く上で情報がかなり足りなかったりする資料である。これだけで読解を戦おうとしていたら正直あまりいい読みは出来なかったかも知れない。
aikoが今でも話題に上げる視力の良さ。しかしそれが衰えてしまったエピソードは、思った以上にaiko本人にショックを与えていたらしい。
何せエピソードそのものがそのまま一番の歌詞になっているのだから驚きだ。故にその「とんでもない落ち込み」が曲になったのが「アンドロメダ」であり、「落ち込んでいる状態」そのものが曲の本質なのである。
なので、「あたしと君」の間に何か決定的な亀裂が走ったわけではない。ここが特に注意すべきところなのだ。「アンドロメダ」は全て“あたしの中で完結している話”であり、あたしから出ていかないし、問題として何かが表出したわけでもない。内省の曲、と言うのが一番妥当なのかも知れない。
この時点での印象を雑に言ってしまうと「こうはなりたくない」「気を付けよう」という、言ってみれば注意勧告の曲なのだ。
pause
続いては発売当時のフリーペーパー・pauseを見ていきたい。曲の成り立ちについてaikoはこんなことを話している。
aikoの作曲の仕方などは、「果てしない二人」キャンペーン関連のラジオ出演時、どこかの番組で聞いた覚えがあるのだが、そこで彼女は「言葉に曲を付ける感じに近い」と言った旨の発言をしていた。言葉があり、その言葉を奏でる為に──いや、言葉を現実に出す、その肉づけの為に曲がある。
そんな風なニュアンスであり、完全なる詞先な人の見方での発言に、これだよ~、aikoはこういうところから見ると完全に「詩人」だし「作家」なんだよなあ~とつくづく感心したものである。早くaikoに何らかの文学賞を授けてくれ日本の文学界。このインタビューの「歌詞を書いた段階ではどんな曲に仕上げようっていうイメージはない」も、このことの裏付けになっているとも言えよう(ここでaikoの言うイメージとは文脈からサウンド的、曲調的なものだと私は解釈している)
だがしかしこの「アンドロメダ」は歌詞を書くと共に「メロディもこうしよう」というものがある程度はあったのだ。鳴ってる音も明確ということはアレンジの方向性さえも決まっていたし、はやく曲にしたいとは、まるで急かされるようだったのだろうか。
そうしてしまう理由をaikoは「今の自分に必要な曲やったんたろうな」と推測しているけれど、自分に必要ということは自分へのメッセージであり、何か訴えたいことがあったのだろう。この先を読むともう少しわかってくる。
「そうはしたくないなっていう教訓」そして「自分に言い聞かせるために曲にした」これである。本人がこう言っているのだ。もはやこれに尽きると言ってもいい。と言うことでアンドロメダ読解ここで終わってよくないですか!?(よくない)
というのは冗談なのでまだ続くが、しっかり力を入れていたものが、忙しかったり疲れてたりすると手を抜いたり後回しにしてしまう……という経験も、それこそ誰しもにあることだろう。そうしていつの間にか興味を失っていたり継続出来なくなっていたりする。その時はそれで仕方ないかと思ったりするのだが、時が経ってみると「あの時もうちょっと気にかけておけばよかったな」などと後悔を感じたりしてしまう。これを打っていても思う。実にあるあるだ。
特に私なんかはaikoのオタクであると同時に人付き合いの絶えた寂しいオタクなので、実生活における人間関係よりも例えば、好きなコンテンツやジャンルを追わなくなるとか、ゲームにログインしなくなるとか、と言ったことの方を思い浮かべてしまう。それが最終的にジャンルの衰退だったり、ゲームだったらサービス終了に繋がったりとか、移り変わりの激しい令和の世を生きるオタクならば少なからず経験があるのではないかと思う次第である……オタク!ゲームはログインくらいしようぜ!
そして、こう書いている私が今まさに仕事の忙しさとあれこれやることいっぱいの生活に追われているので、aikoの言うことがかなり身に突き刺さっている感じである。特に今年は予想外の事態(私にとってaikoと同じくらい大切な存在であるMobage版アイドルマスターSideMが2023年1月5日でサービス終了するため、その保存作業やカードトレード対応を急遽行わねばならなくなった)で時間が取られているので、今回の歌詞研究も実を言うと10ではなく8くらいの力で作業しているのがなんとも不甲斐ないところである。申し訳ない……。
ゆえに、「そうはしたくないな」というaikoの発言は身に染みるわけである。「そうはしたくない」「こうなりたくない」という想いはaiko自身自分に言いたいこと、訴えたいことでもあり、おそらくはリスナーやファンにも届けたかったことなのかも知れない。
aikoの言っていることをもう少し引用したい。
フレーズによって感情をこめられたのも実体験がもとになっているだけあるし、自分に言い聞かせているのだから納得だ。
そして歌うのも楽しみで、実際にすごく楽しかったとは言うものの、「後半に行けば行くほどやっぱり感情も切なくなって」いった上であのCメロの「さよなら」が来ているのである。
しかし既にaikobonの時点で確認した通り「アンドロメダ」は「まだ何も起こっていない」話なのだ。身も蓋もないことを言うと「考え過ぎ!」の一言に尽きるのである。
だが、来てしまった「さよなら」の場面が、自分がなあなあにした所為で大切なものを落とし続けてきた結果として起こるものだと考えるなら、湧き起ってくるかつての後悔の気持ちが多かれ少なかれ誰しもあるだろう。まったくも~、考え過ぎ!なんてことを言う口こそ閉ざしたくなってしまう。とにかくアンドロメダのあたしもaikoも、ちゃんと真剣に考えているのだ。
What’s IN?
次に見るのは、aikobonだけじゃさすがに頼りないなあ……と思い適当に検索をかけて見つけた発売当時の、今は亡き音楽雑誌・What’s IN?である。
なんとこれが今回最大の読解の手引きとなる資料であったのでやはり持つべきものは雑誌!となった。ありがとう某オークション!ありがとう出品者の方!
これを読めば君も「アンドロメダ」マスターだ!(何?)となってしまうくらいにまさに「読解の手引き」そのものであり、発売当時からずっと謎だった記憶のクリップも最後の「この歌よ」のくだりも全部言及があるのでもはや勝ったも同然だった(何に?)今後も積極的に発売当時の雑誌本体や雑誌、フリーペーパーの切り抜きを集めていきたい所存である……。それでは早速見ていこう。
こうして出来た、と言っている通り把握している通りの「アンドロメダ」誕生のエピソードである。歌詞に込められている意図も含めて、ここで語っていることがそのまま一番全部で過不足なく表現されているのでさすがに嘘偽りなく天才か???? と真顔になってしまった。
そう、一番で綺麗にまとまっている……というか意味が通る、aikoが伝えたいことが届けられるので一番で完結してもいいくらいである。歌番組での歌唱は二番が省略されているショートバージョンになることがよくあるが、「アンドロメダ」に限ってはそれでも十分機能すると言っても良いだろう。
しかし一番だけでaikoの伝えたいことが表現されている……とはいえ、このような手引きなしで、正直ここまで一発で全て読み取れる人はそうそういないような気がする。少なくとも私がそうなのだが、これはこれで私の読解力のなさを自ら晒しているようなものなので墓穴掘ってしまった感が今めちゃくちゃある(なら消さんかい)
長年謎だった「記憶のクリップ」についての言及である。ようやく合点がいった時の私の喜びようと言ったらなかった。
ここでの説明を要約すると、記憶のクリップとは「日々にあるいろいろな大切なことを忘れずにいたい想いそのもの。もしくは留めてきたもの」というようなものになるだろう。
しかし忙しい生活の中でクリップは外れてしまう。歌詞に則せば「落として」しまうのだろう。そうやって外れたことも気付かずに放置し、月日が経った時に発見し、何を留めていたものか記憶を巡らせ思い当たった時の後悔といったら、どんなにか大きいだろうか。「クリップ」というありふれた事務用具を選んでくる辺りもaikoの感性のにくいところである。
「突然の衝撃やから痛いのかなぁ」と語るが、突然だったことよりは、ここでのニュアンス的には「忘れてしまっていた自分」への失望の大きさがより強いだろう。それにプラスして、大事にしたかったことを疎かにしてしまった自分への腹立たしさだとか後悔だとか……種類はいろいろあるが、過去からのストレートパンチに身に覚えのない人はいないだろう。
そういったものが積み重なって、やがては大きな悲劇を呼ぶことになる。「アンドロメダ」の二番の概要は、そんな風に印象付けられる。
またしてもクリップ以上に長年謎で毎回聴くたびに「マジで一体これってどういうことなんだ……」と密かに頭を悩ませていた最後の「この歌よ誰が聴いてくれる?」についてのくだりである。どういう曲を作るがか歌詞と共に出てきたと言うのはpauseでも読んだ通りで、「自分自身が気をつけていかなきゃいけない」という発言もまたpauseで確認した通りだ。
「自分に返ってこないと、歌ってて真実味も出ないし、相手に伝わらない」という言葉は、詩人ではなく、あくまで歌を歌う職業の歌手であり続け、目指し続けるaikoらしい発言である。聴いてくれる誰かがいてこその歌であって、その誰かに伝えたいから言葉は歌になるのである。
長年謎オブ謎だったこのフレーズの正体はaikoの「自分の心の叫びなんだと思う」であっけなく解決してしまったのだが、彼女が「やっぱり、聴いて欲しかった」とも言うのは、この「アンドロメダ」と言う曲が「不安」そのものの曲だから、というのが第一の理由としてありそうである。誰かに聞いて欲しいことと言うのは、不安だったり悩みだったり、そういうどうしようもない類いのものだ。aikoが第四の壁を乗り越えてでも心の叫びを歌に乗せたのは、自分の心に渦巻く危惧を、焦りを、不安を、リスナーの私達と少しでも共有したかったからなのかも知れない。
そしてそれは、聴いている側の私達にも返ってくるような気がするのだ。不安だけの話ではない。これを聴く私達もまた、二番で綴られているように、大事なものを落としてきていないだろうかと。手遅れになっていないだろうかと……。
資料読み雑感 -まだ始まらない物語-
以上、三つの資料を参照したわけであるが、「アンドロメダ」を読むうえで超大事なことは、「まだ何も起こっていない」ということである。
たとえばわかりやすく別れの曲であるとか、失恋の曲では全くない。Cメロの「さよなら」も、あれすら日常でいつも交わしているような「じゃあね」「またね」の「さよなら」であろう。ええいそんな程度の挨拶で感極まってるんかい! 繊細のかたまりかい! と思わず突っ込みたくなるが、ともかくあたしと君の間には何も起こっていない。前に書いたように、全てあたしの中で完結する物語である。
しかし何も起こっていないということは、油断していると「何もかも失う」「手遅れになる」ということでもある。
それは二番で描かれるの記憶のクリップの描写を見てもわかることである。「アンドロメダ」は何も起こらないかわりに「何かが起こりかねない危険」を孕んだ歌なのだ。
あくまで「警告」であり、そこに留まる歌だ。だから安易に切ないメロディをつけてまるで別れを予感させるような、不穏な流れにはしたくなかったのだろうし、「気持ちを上げるため」と言っているのは、その未来から逸れようと「気を付けるため」であろう。
何せ出来たきっかけが「よく見えない」という疲れ目、aiko自身の衰えによるものなのだ。何よりaikoがそれこそ本当に自慢に思っていたもので、この当時から47歳を迎える今になっても目ぇ良いからと言うのは本当によく言っていることだった。
だからこその大きなショックだったわけだ。自分に疲れがたまり、それが視力に表れたことにぼやけて見えるまで気付かなかった──多忙だったとは言え自分の体をケア出来なかったことと、曲が生まれたエピソード自体がもはや二番で綴られる「挟んだ瞬間痛かったのは言うまでもないこのハート」現象そのものじゃないか。
しかしそこからこれだけ広げられるのは、やはり天才的な感性と言わずして何と言うのだと今回もまたまた大の字になって思う次第である。普通は無理だろ。おれは……おれは今日もaikoに負けた……(ずっと負けてる)
そんなわけで、aikoが自分自身に感じた危機感の曲、というのが、歌詞を読む前の資料をもとにした私の大雑把な印象である。
ある……のだけど、しかし……え~~っ!? これ資料なかったら辿り着くの無理くないですか!? とわりと本気で思うのである。aikobonですら情報が不足しているし、大体19年前の曲についてなんてaikoが発売当時どんなコメントを残していたか一文字一句忘れずに記憶している人もそうそういないだろう。
この「アンドロメダ」って一般の人……aikoファンでもいいしファンじゃなくてもいいけど、みんなどういう曲だと思って聴いてるんだ? 純粋に疑問というか気になる……アンメダってどういう解釈が主流なん?(主流?)アンドロメダの歌詞の意味は?解釈は?背景は?調べてみました!いかがでしたか?ってブログ普通にめっちゃありそうだな……ってそんなブログに負けたくねぇ~ってーか歌詞の意味なんかググるなテメーで感じたことが全部正しい意味やテメーを信じろ👊👊👊(このnoteの存在全否定発言)ていうかそもそも私、今までどういう曲だと思って聴いてきたのだろう……ま、まさか何も考えてなかった…? バカ……?(ここのくだり全部独り言です)
いいや知らん!とにかく歌詞読も!ということでようやく本編である。aikoの不安が昇華されて生み出された「アンドロメダ」のストーリーを、資料で確認した情報を念頭に置いて読み解いていこう。
歌詞を読む・一番
一番は既に資料で確認した通りだが、インタビューで言っていることをそのまま歌詞でお出しだされたような感じである。
い~~~や口で言うのは簡単だよなんでそれをこうも綺麗に歌詞に出来るのかな~~~!? どうして~~~!? と今日もわけわからん気持ちでいっぱいになってしまう。無限に。今期も楽しくaikoに負けてます(さっきも書いたよ)
見通す瞳
タイトルが「アンドロメダ」になっている所以の歌い出しである。アンドロメダ銀河は肉眼で見ることが出来る最も遠い銀河であり、地球が属している天の川銀河よりも大きい銀河だ。「肩に付いた小さなホコリ」と対になっているので「大きなもの」のイメージも当然あるだろうが、「何億光年向こう」なので「遠くにあるもの」のイメージの方が強いと見たい。
遠くにあろうが近くにあろうが、何だって見つけられるし、はっきり見ることも出来る。遠近大小、全てを見通すことの出来るまさに“自慢の目”だ。aikoが「笑いながら歌っている」とpauseで話していた通り、あたしの目は自他ともに誇れて、なおかつ愛おしいものなのだ。──しかし、誇らしく想っているからこそ、それが衰えていることに気付いた時は思っていた以上にショックになるのである。
ところでここのくだりは、個人的にaikoの私小説感があるなあと思っている。
というのも曲自体がaikoの実体験かつ、aikoが普段から自慢している視力の良さ、という個人の身体的な感覚に非常に大きく依存し、基づいているためだ。aikoを知っていれば知っているほど、「あたし」は匿名の誰かではなくaiko本人のことやなぁ、とつい思ってしまう。
しかしこの特徴の設定がかえってフィクションらしさを引き立てている気もするので、aikoファンでもなければ別段気にならないだろう。この曲は「視力が良い主人公」による物語なのだ、とリスナーにイメージさせる歌い出しとして悪くない。
裏書きすらも見通して
ここはただ単に目が良ければ誰でもそう、というわけにはいかないくだりである。察しがいいというか、あたしはいろんなことに良く気が付く子なのだ。感受性が高く鋭くて、物事をよく考える、思慮深い子でもある、という人物像が浮かんでくる。勿論「たまに悲しくもなった」とある通り、良いことばかりではないし、むしろ人のことをよく見て色々と察してしまう以上はそうなることの方が多かっただろう。
しかしまあ、この「考える」という行為もよくよく考えれば、言ってしまえば己の内から出ない推測でしかない。実際はそうじゃないのに、相手の真意を無視し憶測に憶測を重ねた上で勝手に悲しくなっている、という独りよがりなところもなきにしもあらず、と思わないでもない。
閑話休題。その是非は置いておくとして、「アンドロメダ」の歌詞のストーリーが成り立つのは、あたしという主人公がただ目が良いだけではなく、こういった察しが良くて鋭くて、物事の表も裏も読むことが出来る人間だから、ということが示されている。そんなAメロである。
しかし、「時に悲しくもなった」が序詞になるように、あたしのその誇らしい目に不穏が忍び寄ってくる。
曇れる光
目を光、と表現するのは純粋に美しいことである。輝く瞳、自慢であるから光るのも無理もない。
しかしだ。aikoがエピソードで話していたことそのものであるが、疲れ目の表現として、はっきりとした像を結べずその光がぼやけてくる。その、徐々に徐々に忍び寄ってくる不安と恐れ、そして危機感が、サビへとあたしを駆り立てる。
見えない今と見えた未来
ぼやけた視界や疲れ目は、あくまで比喩である。要は、資料を読む段階で確認した通り、忙しさの中で大切なことを落としてしまうかも知れない、ということの危惧をこのフレーズで表しているのである。この、このたった一行、加えてサビの短い間だけで。
……これだけでぇ!? 俳句か!? と思わずいきり立ってしまうがそうである。つくづくaikoって本当、瞬間の魔術師とか言う二つ名があってもいいくらいだと思ってしまう……。
ここでは「涙」が出てくる。究極なところ、歌詞中で唯一具体的な不穏要素とも言えるかも知れない。何も起こってはいないが、あたしは一番サビの時点で既に「最悪の未来」を想起しているのである。
見落とし過ぎて、段々とすれ違いが加速していく。最終的には、ああ、あの時ああしておけばとか、もっとちゃんとやっておくんだったとか、そう言った過去にこだわる悔恨の涙で、相手の姿はもとより、何もかも見えなくなったまま幕を閉じていく……
という、あくまでも「仮定」の段階に過ぎないのだが、言ってしまえばあたしは勝手に不安になり、自分で拵えた暗黒の未来を予感し落ち込んでいる、それだけなのである。
まだ何も起こっていない、仮定の段階でしかないのに、未来は誰にもわからないから好転する可能性だって全然あるのに、バッドエンドをするっと引き出してくる辺り、なんだったらそれしか選択肢がないような感じ、aikoのaikoたる所以があるように思う。というかお前本当にそういう……そういうとこだぞ……とか思ってしまうな……。
君を見失う…
出だしで書いた通りに、aikoがインタビューで語っていた通りの内容がそのまま歌詞になった段落であった。日常の些細なことから芽生えてきた不安と恐れ、危惧がBメロからサビにかけて広がっていく。ずっと忙しく、加速するかのような時の中でいろいろなことが少しずつ疎かになっていく。あるいはそうしてしまう。取りこぼしていった先で、いつか大切なものを失うかもしれない──
勿論、まだ予感ではある。けれど、感受性が鋭く、時には心の奥さえも覗けるほどに洞察力と思慮に優れているあたしだからこそ、最悪の未来をつい想定してしまうのかも知れない。おそらくは、二番はこのあたしの不安や危惧をより追及していった形になるのだろう。
歌詞を読む・二番
少し余談になるが、aikoは二番の歌詞を書く時は(2022年の情報では)「結構しっかり自分と向き合って書くことが多い」と言う風に話している。
詳細と原文は上記リンクを見て欲しいが、「アンドロメダ」一番が自分から一方的に一直線にわっと吐き出されたものなら(実体験が元になっているのと、歌詞と経験があまりに一致しているのでこの形に近いと思われる)二番は自分と向き合って、引用のインタビューにあるように自分と問答しながら書いたようなタイプのものだと思われる。「あたしは何を落としてきたの?」という歌い出しは自問自答のそれであろう。
落し物は何ですか
瞬間的に湧いた不安をそのまま吐き出した一番が終わったが、あたしは立ち止まることなく冷静に、しかし焦るように不安の螺旋階段を駆け下りながら自分と向き合っていき、粗探しを始めていく。
一番は目のぼやけを発端にしたことからの恐れであったけれど、もしかしたら気付いていなかっただけで、それ以外にも何か、既に取り返しのつかないことをしていたかも知れない。「何を落としてきたの?」という問いかけで初めてあれもこれも、と浮かんできた。おそらく振り返れば多々あったのだ。大事にしたかったはずのものを、いつしか疎かにしてしまい、やがて忘れてしまったことが。
そうして初めて見つかって拾い集めていくものが、何を挟んでいたかも思い出せない、記憶のクリップ達だった。
記憶のなかに留めておきたい、いろいろなこと。大事なことに、自分にとっては大切なこと、素敵なこと、輝いていたもの……それら全部を持って、あたしは生きていた。生きていたはずだ。
けれども、忙しない日々の中であたしも気付かないうちにクリップは外れていて、輝かしいものも素敵なものもみんなバラバラになってしまった。記憶のクリップが外れて──消失してしまったのだからクリップ自体、記憶からも消え去ってしまうだろう。
いや。消失と書いたが消えたわけではない。クリップそのものは思いもよらない形で今あたしの掌に戻ってきている。ただ、それが何を留めていたものかはわからないのだ。それくらいあたしは悲しいくらいに、ぼろぼろと忘れてしまっていたのである。
痛みはどこから
それが突然のことだから痛かったのかなあとaikoは話していたが、私としてはやはり、その突然さによるものにプラスして、「忘れていた自分への呆れや失望、絶望」が痛さとなって表れたんじゃないだろうかと見たい。
日常の些細なことでもいいし、感動的な出来事でもいい。自分の好きなことでも、夢中になれることでもいい。あたしはそれを全部持って生きているつもりだった。
でも忙しさや疲れで、aikoの表現を使えば「しっかり1から10目をやっていたところ」を「8くらいでいいや」と変えてしまって、ついには6にも3にも減って、最後には0になってしまったのだろうか。ハートに走った痛みは、過去の自分から「あんた何してんのよ、こんなにしてくれちゃってついには忘れちゃって」と食らわされた痛烈なビンタにも等しかったのかも知れない。
あるいは痛みは別の形で現れるかも知れない。人間関係のぎくしゃくした気まずさだとか、信用を失うだとか、それか自分のことだったら健康を害するといった、それこそaikoの目のように身体面にも表れてきたりするだろう。
悪いのは自分自身
いろいろと具体例はあるものの、何に一番ショックを受けるかというと、やっぱりそれはいろいろなことを蔑ろにしてしまった自分自身に、なのだ。私はそう読むが、ここは人によって解釈が分かれるところだろう。
こうやって、君以外のことでもあたしはいろいろなことを実は見落としている。そんな自覚があたしに芽生えた。一番の「時には心の奥さえも」のくだりが、どうもとんだ恥さらしになっていくような気がしてくる。
これだけ自分の生活や周りのことを疎かにしておいて、何が心の奥さえも見えてしまう、だ。笑わせる。……これは今まさにここを書いてて初めて気付いたことなのでaikoさん相変わらず…やることがエグいっす…。
エグいと書いたがしかし、そういう人物であると自覚していたのもまたあたし自身だ。そうなるとリスナーや読み手の私が思う以上にショックを受けているに違いない。何せ一番の目の不調だけでも最悪の未来を予感したくらいなのだ。笑わせる、と先に書いたが、そんな風に自分をこの世で一番嘲っているのはほかならぬあたし自身ではないだろうか。
しかし、ふと思う。書いた通り、「君以外のことでもあたしはいろいろなことを見落としている」のだ。
「君以外」のことでもそうなら、当然──「君」のことだって、自分達の恋愛のことでだって、あたしは何か取り返しのつかない間違いや、気に掛けなければならないことを中途半端にしているのではないだろうか?
どこにも開かない問題
そんな最悪なことにもあたしは当然、思い至ってしまったのだろう。ますます募る自己嫌悪と不安に、あたしは溜め息を重ねていく
目の不調は戻らず、「やっぱり」とあるように気のせいでもなかった。むしろはっきりとした欠如として──自分の過ちの罰のような形であたしの視界をどんどんと曇らせていく。
しかしだ。ここの描写もあくまで一人の姿であることからわかる通り、何度も確認しているが「アンドロメダ」はあたし一人の中で完結し、外には出ていない話なのだ。嫌な考えがどんどん発展していっるが、勝手に進んでいるだけで一人で抱え込んでいるだけである。
君のこころが見えない
それでも、暗闇に埋没していくあたしは止まれない。
「横顔越しにあるもの」は、一番で言うところの「心の奥」のことであろう。言葉にはされなくて、だけど伝わってくるものや、あたしがそれとなく察してしまうものを表現していると読みたい。
力を10かけられないから、かけたくてもいつの間にかどんどん絞られていってしまうから、大切なことも決定的なことも、あたしは見逃してしまうかも知れない。君があたしのことをどう思っているか、それを察することも難しくなってしまう。そりゃ、それまで出来ていたことが出来なくなるのだから嫌に決まっているだろう。不安にもなる。だからあたしは言い知れない恐れに駆り立てられるのである。
あたしのこころは秘されているから
ここである。この曲で一番押さえておかなければいけない部分である。
「アンドロメダ」におけるあたしときみの関係は、aikoの曲であるのに珍しいことに悪くなっていないのである。珍しいことに(二回目)
不安と不穏が走りまくっているあたしではあるが、あたしの中で留まっているおかげで二人の関係だけで見れば波風立ってもおらず平和であって、「さらに消えなくなるのにね」とあるように、むしろもっと親密にさえなっているのだ。
このフレーズとそれ以外の周りの不穏さとの乖離がものすごくあることからわかる通り、「アンドロメダ」はひたすらに、
「あたしが不安になっている」
「あたしが一人で怖がって、恐れている」
という曲なのがよりわかってくることだろう。そしてこれを作り歌ったaikoはあくまで「自分自身への警鐘」にしているのである。
資料で見たaikoのコメントも自分に言い聞かせるようにとあったけれど、それはリスナーであるこちら側からしてみれば、「君達もこうなってはいないか?」という「警告」のようにも、「アンドロメダ」は聞こえてくる。少なくとも私は今回の読解を通してそんな風に感じられ、19年漫然と聴いているに近かったこの曲の受け止め方を、ようやくわかったような気がしている。
誠実さと優しさ
記憶のクリップというアイテムから浮かびあがってきた、君以外にも見落としている日常や生活のいろいろなこと。そこを落としてきているのなら、一番大事な君との関係でも何らかの綻びは不可避であろう。心の奥まで見えると言っておきながら、どれだけ調子に乗ってきたのだ。そうあたしは情けなく自分自身を恥じただろう。
不安を抱えながらも相手に吐露したり当たったりしないあたしは、純粋に偉いと思う。あたしと君の関係は、そのお蔭で悪くなってはいない。むしろ愛はこれまで以上に深まっていく。
それなのに──いや? それだからますますあたしは不安に駆られてしまうのだ。より大切になっていけばいくほど、二人の愛が深まれば深まるほど、あたしは不甲斐ない自分のせいで関係を傷つけたり、間違いを気付かず起こしてしまうかも知れないことを、より一層恐れるようになるのだ。
ここで私は一読者として思うのだが、あたしはとてつもなく真面目な人なのだと、すごく思う。
この恋や君という大切な存在に対してものすごく誠実であるし、それと同じくらい優しくもある。確かにただ単に考え過ぎであるし、いっそ視野狭窄でしかないとも思うけれど、杞憂を抱いて周章狼狽してしまうのはそれだけ相手のことを大切に想い、大好きであることの証拠ではないだろうか。私はそう考えている。
歌詞を読む・Cメロ
それはいつかのほんとのお別れ
Cメロはどの曲でも印象深いところであるが、「アンドロメダ」全体でも非常に印象的であり、あたし一人が抱えている極まった物悲しさと寂しさが、落ちサビ大サビまでのクライマックスを盛り立てていく箇所である。
多分、ここで描かれるのは「今日も」とあるように、あくまで「いつもと変わらない一日の終わり」なのだと推測しておく。何も深刻なことは起きていない。ただ、続いていく日常の何気ない一場面でしかない。
二人の愛は深まっていくし、あたしも君のことを大好きだと思っている。きっと君だって、あたしのことを掛け替えのない存在だと思ってくれているはずだ。
けれどあたしは、一人暗闇の中で埋もれていったあたしは弱り果てていて、いつか来る本当の別れさえも想定してしまっているのである。
だから、だからいつもの「さよなら」が、違って聞こえる。──このまま、いろいろなことを見落として取りこぼしていってしまう不甲斐ない自分のままだったら絶対に直面してしまう、「最後のさよなら」のように聞こえてしまったのだ。
それも「この世の果て来た様に」なのだ。あたしにとって君との別れはいっそ世界が終わるくらいに深刻な問題であって、それだけ君のことをあたしはとてつもなく、心底大事に思っているということだ。
だがまだ大丈夫。だってまだ何か決定的な、取り返しのつかないことが起こったと確定したわけでもないのだ。だから早まらないで欲しい。どうにかして彼女の不安を少しでも和らげたい、ついそう思ってしまうけれど、読者であり聴き手でしかない私はただ聴くことしか出来ないのだ……。
歌詞を読む・大サビ
こうして読んでいくと、曲のラストの落ちサビはとたも心細く歌っているように聴こえてくるし、大サビはどうしようもない、持っていきようのない不安をまるでそれこそ夜の星に届かせるように叫んでいるようにも聴こえてくる。
ここは一番の繰り返しなのでさらっといくが、最初は単なる疲れ目でしかなかったはずなのに、そこから生まれた不安と危惧がこれほどまでに大きくなり、気付きたくなかったことにも沢山気付いてしまった。
これだけ膨張した不安を、あたしはどうするというのだろう。そう思った時に、最後のこのフレーズである。
聴いてる人 いますか
ずっとずっと、初めて聴いたあの夏から謎だったこの最後の呼びかけ。ずっと謎だったからこそ今まで「アンドロメダ」には触れないでおいたことを、やっと考えてみたいと思う。
資料で読んだ通り、これはaiko曰くaiko自身の心の叫びなのだと言う。ここだけはアンドロメダの主人公の「あたし」でもあるが、あたしを乗り越えて作者であるaikoそのものが急に曲の世界に乗り込んできたし、何だったら曲の世界の外にいた聴き手である「私達」の存在も、急に曲の世界に取り込まれたのである。
これ以外でリスナーが急に取り込まれる例と言うと、アンドロメダから11年後に発表される「明日の歌」、そのサビにおける「これはあなたの歌 嫌なあなたの歌」があるが、「アンドロメダ」は曲の最後にかなり唐突に登場するので非常に面白い仕掛けになっているし、本当に何だか小説での叙述トリックに出くわした感覚がある
(余談ですが「明日の歌」は数年前に読解済みなので気になる方は愛子抄の方でご確認を……書いた本人は内容をマジで忘れています)
とはずがたりはあてもなく
リスナーに訴える、いわゆる「第四の壁」を超えてきたとされる表現なのだが、aikoが「自分自身の叫び」と言っている点から考えると、「あたし」というキャラクターではなく、「あたし」という器を超えた、あたしの向こうにいる作者のaiko自身が出てきているというのが正確だろう。
なので第四の壁とはまたちょっとニュアンスが違ってくるかも知れないが、でも、そうまでして「聞いて欲しかった」と言っていると言うことは、リスナーの私達とaikoの中にある、あたしに託されていた心の不安を共有したいということだったのではないだろうか。勿論「アンドロメダ」のあたし自身も、「アンドロメダ」で綴られている不安への対処として「誰かに聞いてもらう」を思いついて、その誰かが不特定多数の私達だったのだ。
ただ、「誰が聞いてくれる?」という書き方なので、はっきりとした誰かに届けようと思ったわけではないのかも知れない。抱えているのが重たくて、言葉に声に出しただけなのかも知れない。書き方からすると「いや、誰かが聞いてくれるているはずだ」という反語としてのニュアンスよりはむしろ「はあ、こんなん誰も聞いてくれる人おらんやろ…」と途方に暮れている感じなので、本当にただ、自分から少しでも重さを取り除くために言葉にしたように思う。
さっきは共有したいと書いたが、別に解決を強要しているわけではないけれど、不安というのは聞いてもらうことで(聞かせるの方が正しいのかも知れないが)少し和らぐものだ。
決してこれを聴いたお前らにも重荷を背負ってもらうぞ! というつもりでもなくて、ただ本当に、例えるなら数年前に流行ったアプリ「ひとりぼっち惑星」で発信される当てもないメッセージのように、ただ聞いて欲しいだけだし、ただ自分の中から吐き出したかった、それだけなのだ。
そうすることで少しでもあたしは(同時にaikoは)あたしが勝手に抱えて勝手に膨らませた不安を和らげたいのではないだろうか。
勘ぐり・透けて見えてくるメッセージ
以上に書いたことが読解としてはメインの読みだと思っているし、ここで終わってもいいのだが、それと同時に、これは自分自身への警告の歌でもあると、私は思っている。「誰が聴いてくれる?」と歌うことで、暗にこういう提示もされているように思うのだ。
・あなた達にもこういう不安はあるでしょう?
・あなたも見落としてはいけないよ
そう、リスナーに対する警告のような曲にもなっているように思う。
のだが、これは私の単なる勘ぐりというか、行き過ぎた読みに近いなと感じている。翻せばそういう意図もあるように何となく感じるなあと思うという話だ。
でもaikoのことだから多分、わざわざ第四の壁を乗り越えてまでaikoが何より愛する聴き手に対してそこまで圧をかけるような、苦しめるようなことはしないようにも私は思う。というよりは思いたい。
aikoとしては多分、「ちょっとさぁ~、聞いてくれる?」と、それこそ気のおけない頼れる友達に不安を話しているだけに過ぎないのではないかと長年のaikoファンとしては思うし、脳内再生も余裕である。けれども読解する者としては結構身に沁みたのである。この「アンドロメダ」を綴ったaikoもきっと同じように、aiko自身に鋭く刺さったのではないだろうか。
おわりに -君と話をしよう-
読んできたように、「アンドロメダ」はあくまで「不安」の曲だった。あたしの中で完結しているというか、あたしの中から出ていかない、表出することもない曲なので、何も始まっていないし何も起こってもいない。
しかし逆に言うと「何かが起こる前に気をつけて」「これまでに何か落としてきていないか」「何かを疎かにして大変なことにならないか」と、aikoも言っていたが自身に言い聞かせるような注意や警告の曲、それが「アンドロメダ」の曲が持つ本質であるように読解を通して感じた次第である。
どうか恋が手遅れになる前に、悲しく終わる前に、気を付けることは気をつけて、そして、不安は誰かに話すのがいいだろう。
出来ることなら、無人の空に向けて不安の独白を放つのではなくて、正直曲中でほとんど蚊帳の外だった「君」と出来るだけ、何でもいいから話した方がいい。人付き合いにおいて何より大切なのは「対話」だと、ここ最近いろいろなものを見て感じる所存である。
悲恋エンドおことわり
しかし思ったのは、最初の方に少し書いたが、aikoの目の不調のエピソードから発展させて、典型的な別れの曲に仕立ててもよかったのではないだろうか。他の曲を見ているとそうするのがむしろaikoの創作活動においては非常にスタンダードな流れだと思ったのだが、しかし「アンドロメダ」はぎりぎりそうはならなかった。
それは多分だけど、aikoが「こうなりたくない!」と強く感じていたからなのではないかと、私は考えている。
曲の由来がかなり彼女の実生活に密着していたエピソードであったし、何よりaiko自身、目が良いということは歌詞にもある通り「自慢」と言えるくらい、よく言っていることだし今でも言っている。曲をどういう風にしようか歌詞を書いていた時点でもう既に考えていた、というのもイレギュラーなことだったそうだし、やはりaikoの中では相当な危機感を持って書かれていたのだ。
悲恋になるのが当たり前のようだった流れを、aikoは自らの強い意志で思い切りハンドルを切って変えたのである。まあ変えた先の進路も不安ドロドロだったのだけどそこはaikoなので…そういうとこなので……。
「なんとなく」より「やりすぎ」ちゃおう
ところで、pauseのインタビューで見た「1から10までしっかり目をやってたところが、忙しかったりせわしなくなると8くらいでいいかって思っちゃったりすることがある」「あとあと振り返ると“なんで最後までやれへんかったんやろ”とか必ず後悔していたりして」という発言は、奇しくも最新曲「果てしない二人」オフィシャルインタビューのこの発言の裏返しのようにも思えてくる。
時の隔たりがある二つのインタビューの発言を、私はどうしても繋げずにはいられなかった。19年前のaikoと、今の2022年のaikoが良い意味で変わらず繋がっているように思えて、何だかちょっと感動してしまったくらいである。
19年経って今年も新たに歳を重ねたaiko。勿論いろいろ変わったところもあるとは思うけれど、芯の部分は変わっていない。だから私が人生でこんなに長く好きでいて、今でもずっと好きな人でいるんだろうなあと、なんだかしみじみと感じている。
そしてこれまで生まれてきた沢山の曲にも変わらず共通する部分があり、それがすなわち作家aikoの作風であったり、伝えたいことなのだと思う。
その深奥や本質に少しでも触れたい。少しでもaikoを理解したくて、近付きたくて、だから私はまた来年もその先も筆を執るのであろう。
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