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神なき世界で歌う姫 -aiko「歌姫」読解-

aikoは人生な文章書く系&小説書くオタクのtamakiです。PNはおきあたまきといいます。
aikoのデビュー記念日の7月(前期)と誕生日の11月(後期)にaiko歌詞研究として2曲ほど読んで発表する活動をしています。
今回の読解は前期分になります。2曲のうちの1曲目。

このくだりは恒例の前置きです。ほぼコピペ。もうちょっと先から本編。
2020年までは個人サイト「愛子抄」で掲載していましたが、2021年からnoteでの掲載に移行しました。マガジン「aikoごと」にこれまでの読解のnoteをまとめているほか、一部愛子抄からの転載もあります。

過去作について、こちらに転載していこうよ~~……と思いますが、思った以上に時間がかかるので現状全然出来てません。それもあるけど昔の自分の文章が正直見れたものではないので、あんまりやる気がないです。

だいたい数年前の自分なんて! もはや! 他人! 内容に保証が出来~ん! せいぜい2018年くらいまでがまあギリ保証出来るかな~くらいな感じです。今の書き方が定まったのも大体その辺なので…。

今時ビルダーで作ってる個人サイトなのでしぬほど読みにくいですが、もし他の曲が気になった方は是非「愛子抄」の方にアクセスしてみてください。「カブトムシ」はこっちにあります。

本題にいきます。2023年前期は「歌姫」と「朝の鳥」を読みました。
本noteでは「歌姫」稿を掲載します。「朝の鳥」は7/17の15時頃に掲載します。朝じゃないんだ。


はじめに

「歌姫」はaikoの記念すべき最初のアルバム「小さな丸い好日」の4曲目として発表された楽曲である。
歌姫、というタイトルはまさしく女性シンガーに贈られる名誉ある称号であるし、aikoもまた恋愛ソングの歌姫、と言う風に言われることもあるが、それもあって何だかタイトルだけ見ればものものしい一曲のように思われる。女性シンガーが“歌姫”なるタイトルで曲を作ってくるのは、なんだか相当な意欲作に見られてしまうのではないだろうか。私だけかしらそんな風に思うのは。

しょっぱなから余談

筆者とこの曲の思い出を少し賑やかし程度に語るとしよう。小見出し通り、しょっぱなから余談だよ~。

私が初めてaikoのライブに行く際、譲ってくれた方からとにかく曲を聴き込むよう言われていたので、昔の曲でも叩き込んで聴いていた。今から22年前の2001年の夏のことである。
その当時、aikoは声帯結節により一ヶ月ほどの休養を余儀なくされており、ライブは勿論ラジオ出演も出来ない状況で、私はaikoの声が聴きたくても聴けず、今と違ってSNSもない頃で、私には満足なインターネットの環境もなかった。aikoがどのように過ごしているか、どんな思いでいるかもわからない状況だった。ただただ、そこにあるaikoの曲を聴くことしか出来なかった。

そんな私が一番aikoを投影していた楽曲がこの「歌姫」である。
ただひたすら孤高に歌い続ける歌姫の姿はaikoと重なり、彼女の為になることをしたいと思い、がんばれとエールを送るあたしの姿はaikoを一途に想い続ける自分の姿と重なった。
そんなだから、初めて行ったライブであるLove Like Pop Vol.6の金沢公演で「歌姫」を歌ってくれた時は非常に感動したのである。

そういう背景もあるので、私は勿論、おそらく多くのaikoファンにとっても「歌姫」はどこか特別な、意味の深い一曲になっているのではないかと思う。ベストアルバム「まとめⅡ」にも収録されているので、当然aikoにとっても重要な、大切な一曲になっていることだろう。
そういえば冒頭の楽曲リンク引用するのにSpotify開いたんですけど、再生数? がアルバムオリジナル曲ではオレンジな満月に次いで高かったです。

そんな「歌姫」であるが、歌詞にはどういうことが描かれているのか。
20年以上の時を経て、読解という目線で曲と向き合ってみたい。

資料を読む

さすがにファーストアルバム「小さな丸い好日」ほど昔の作品ともなると、aikoがまだそこまで売れていない時期だ。インタビューが収録されている紙媒体での音楽情報誌がもしあったとしてもおそらくは小さめの扱いであるし、もっと言うと手に入らないどころではなく存在すらしていないのではないか、とさえ思うくらいである。昔の曲あるあるであるが、aikobonのライナーノーツだけが頼みの綱である。

しかしながら現実と言うのは非情であって、これもまたaikobonライナーノーツあるあるであるが、思い出話等に終始している所為で歌詞の内容に触れることが全然なく、大して資料価値がないものが多い。どうして…。
「歌姫」もまさにそれにぶちあたった感じである。とは言えこれしかないのも事実なので、いくつかピックアップして確認してみよう。

aikobon

ライブでやるとすごくみんなわ~~~って言ってくれるし、だから自分が思った以上にテクテクいろんなところに歩いていった曲、今もそう思っていますね。

aikobon ライナーノーツ

私が勝手にaikoを想ってクソデカ感情を募らせていたのと同様で、やはり先述した通りaikoファンそれぞれがいろいろな気持ちを寄せている一曲らしい。「自分が思った以上にテクテクいろんなところに歩いていった」とあるように、まさしく独り歩きをしている楽曲とも言えよう(「カブトムシ」でも似たようなことを言っていたような気がする)

ライナーノーツの最初にはレギュラーになる前の単発のオールナイトニッポンで自己紹介と共に歌い出したのがこの「歌姫」であったとも書かれていて、それは何ともインパクトのでかいことを、と舌を巻いてしまった(昔のaikoの胆力ってどうなってんだ…)

でも自分がこれから歌をうたっていくためにも、もっともっとこの曲を超えることができる歌手になりたいと思います。ライブで歌うたびに、ちゃんと歌わないとって思う曲やしね。

aikobon ライナーノーツ

早くこんな自分になりたいですね。私も。

aikobon ライナーノーツ

歌詞というか内容に言及しているのは大体こんなところだろうか。
上記二点から察せられるところとしては、「歌姫」にはaikoの歌手としての憧れが多少なりとも込められているということだろう。確かに歌詞自体を見てもタイトルの歌姫が主人公というよりは、あたしの憧れの人、という感じで描かれているし、当然ながらaiko自身自分が歌姫である、などと不遜に思っていたわけでもない。
「早くこんな自分になりたい」──歌手人生のかなり初期において、aikoはこの曲にそんな理想を込めていた、と見るのが妥当だろう。

歌姫と相川七瀬氏の話

ところで「aiko 歌姫」で検索すると、サジェストに「相川七瀬」と出てくるのだが、これはわりと有名な話、結構出回っている説で、歌姫とは歌手の相川七瀬さんのことではないか、というものである。
「歌姫」を紹介するにおいて触れずにはいられない程度には出回っていると思う。少なくとも私が初めて聴いた22年前からファンサイトなどで堂々と紹介されていた話なので、全くソースがないわけではない、と思う。

では私はこの件についてどう書くのか、であるが、正直なところ「肯定も否定もしづらい」。という感じが本音である。
肯定する根拠はかなりある。aikoと同い年であり、aikoと同郷、更には「小さな丸い好日」ブックレットのスペシャルサンクスにも名前が記載されているのである。
なので、ひょっとしたら明確なソースがあるのかも知れないが、私が確認出来ないので、今回は特別言及はしない、ということで勘弁してもらいたい。

ただ、もし歌姫のモデルが本当に相川氏なら、多少なりとも述べているはずだし、aikobonのライナーノーツでも言及があって然るべきなのだが、それが一切ない。なので私としては、正直信憑性が薄いんじゃないか……と疑問視するようになったのがもう一つの本音である。
そんなわけで、まあつまりいつも通りだ。私は歌詞に真摯に向き合ってそこに込められている想いを紐解いていく所存である。

資料読み雑感 -ある歌姫の伝記-

この曲は聴いてわかる通り、あたしとあなたにあった出来事を描いているというより、「あなた」である“歌姫”のことをあたしが語っている、という、わりと珍しい方の曲に入るのではないかと思う。
なので、個人的には「伝記もの」のような趣に近いのではとも感じる。そう、「姫」の話なので、何らかの“語られる物語”の雰囲気を感じていたりするのだ。
とか何とか書いたが、全ては歌詞を読んでいない時点での私の勝手な印象である。何はともあれ歌詞を読まねば始まらない。早速読んでいこう。

歌詞を読む・一番

無慈悲に訪れる明日

曲の主人公であり主題である「歌姫」について、もう一人の主人公…と言うよりは語り部であるあたし目線での描写から、この曲は始まっていく。

 必ず太陽が昇るんならば
 昨日がもう帰って来ないなら

必ず太陽が昇るならば。とは単体で読めば「必ず明日は来る」という希望そのもののフレーズではある。
しかしながら、次に続く「昨日がもう帰ってこないなら」というややネガティブに寄っているフレーズを踏まえると、「何があっても残酷に、万物に等しく時は流れる」ということを意識しているようにも読めてくる。「青空」や「何時何分」のあたし達ではないが、どんなに失恋に傷心していて立ち止まっていたとしても、前を向ける気力がなくても、世界は否応なく時を運ぶし、私達の心のことなんて全く無視して、時間もただゴウゴウと流れ続け、空だってあっけらかんと晴れ空を広げていくのだ。

勿論、このフレーズに前向きで尊い希望がまったくのゼロ、というわけではないが、そういう側面もある、ということだ。特に私個人の事情だが去年に「青空」、一昨年に「何時何分」の読解を経ているためか、どうにもそういう感じに読んでしまいがちである。失恋に打ちひしがれていても、世界はそんな人に情けをかけるわけでもなく、ただもくもくと進んでいく。

その「昨日がもう帰って来ないなら」であるが、Bメロのセリフも踏まえると、何かを後悔しているようにも読める。おそらくは「何か」が歌姫にあったのだろう。
昨日は、時間は帰ってこない。幸せだった時も上手く行っていた時も、時間は常に一方通行だ。aikoの作品で言うなら「戻れない明日」ではないが、時は戻らないし、明日はすべての人々に問答無用でやってくる。

 より道しても前に行くしかない
 だから彼女は待つ事をやめた

そう。それこそ「戻れない明日」でも歌われているが、立ち止まり続けることはよろしくない。時が無慈悲に進むなら、歌姫も同じように、あくまでも前進することを選ぶ。
待つことをやめた。受け身をやめることを決意した、意志のまっすぐとしている凛とした女性の姿が、ありありと浮かんではこないだろうか。強く美しい気高さに私は、そしてきっと歌姫の支持者の人々は強く惹かれるのである。

待つことをやめた彼女は、自分の経験した苦しさ、切なさ、辛さ、その想いをも歌っていこうと決意したのではないだろうか。
彼女に何があったか、それが恋愛かどうかは不明だが──と書いたが、一応サビに「恋」とあるので、それに類することなのだと思うし、今後の歌詞の内容を踏まえてもおそらくそうであろう。

読んだ通り、短くはあるがAメロ前半は歌姫の強さと決意が克明に描かれている。aikoもひょっとしたら、歌い手として人間として、こう在りたいと思っていたのかも知れない。

どうかあたしに暖めさせて

Aメロ後半は歌詞の語り部である“あたし”について、というよりはあたしと歌姫についてのくだりである。あたしと歌姫の関係はあまりはっきりとしないものの、歌姫を深く知る者であるのは間違いないようである。

 あたしの小さな手ぬくい手は
 あなたを暖める為にある

おそらく、あたしは“姫”になぞらえて言うなら「仕える者」のような存在なのだと思う。あたしは歌姫のことが純粋に好きで、憧れている。慕っている。あたしは小さくか弱い存在ではあるし、出来ることは少ないけれど、尊敬する歌姫のことを手ずから暖めたいと、そう感じている。清らかな、純粋な愛情である。

あなたは傷つきやすいひと

 あたしの照れくさい言葉には
 傷つきやすいあなたの為にある

照れくさい言葉は、もう少しくだけて言うならちょっとクサい言葉、と言うことだと思う。でもそれは「照れくさい」とあるように、普通は表にはあまり出さない自分の心の内にあるもので、すなわち心からの言葉、純然たる真心そのものである。

さてここで注目すべき描写は「傷つきやすいあなた」である。
前半で私は、意志が強く、美しい気高さのある歌姫に惚れ惚れとしていたのであるが、歌姫の本来の姿を知っている、それくらい近しい位置にいるあたしにとっては、彼女は「傷つきやすいナイーブな子」で見えているのだ。
それ故にあたしは、うわべだけの軽薄な言葉は口にせず、照れくさくても決して彼女を傷つけることのない言葉を贈るのである。彼女に真に寄り添えるように、そばにいなくても言葉が彼女の味方となれるように。それもまた、あたしからの歌姫への愛と言えよう。

歌姫はきっと多くの者から慕われ、報われなかった様々な想いを寄せられている、多くの人にとっての“救世主”なのだと思う。Aメロ前半に歌われるように、彼女は現実を受け入れ前進することを決めた、強く美しい、気高き人である。それも間違いなく彼女の一つの姿だ。

しかしこの曲のあたしは、歌姫と非常に近しいところにいる。言ってみれば仕える者と言うよりは“友達”くらいの距離感がおそらくは適切なのだと思う。
そんなあたしだからこそ、他の人が見ることの出来ない歌姫の真の姿を見ることも出来る。歌姫は本当は「傷つきやすい人」なのだ。彼女を深く知るあたしは、歌姫のことを大事に、大切に想っている。あたしは歌姫に何があってもそばにいよう、見守ろうと思っていることだろう。自分の存在が彼女を暖め、照れくさい心からの言葉が歌姫の支えになっている。あたし自身も、きっとそれをわかっているのだ。

きっとずっとどこにもいない

Bメロはワンフレーズのみで短いが、非常に印象深い。

 「神様 あなたはいるのでしょうか?」

おそらくは“歌姫”側のセリフではないだろうか。私はそう読みたい。
神の存在を疑う言葉である。彼女がこう言うということは、“神様でもどうにも出来なかったような事態”に歌姫はかつて直面していたのである。そのことが彼女に、Aメロ前半のような覚悟をさせたと読むのはそう無理がないと思う。
そしてその「どうにも出来なかった事態」が、サビに歌われる「憂鬱な恋」、だったのではないだろうか。

歌姫は、神の存在を疑う世界でステージに立とうとする──。
このフレーズには他に書きたいことがあり、それがほぼほぼ今回の読解の主題に直結するのだが、後々言及しようと思う。サビに行こう。

すべての届かぬ想いたちへ

 泣いて泣いても叫んでも届かない想い心ごと
 届けるが為に枯れるまで 彼女は歌う

これはおそらく、歌姫自身のことであるし、歌姫の歌を聴いている人達の、苦しい恋にもがき、嘆く想いでもあると思う。沢山の人の想いを背負い、歌姫は歌うのである。
届かない想い。それは報われない想いだ。だがそんな悲しい、死んでいくしかない想いを、それでも“届けるが為”に“枯れるまで”歌姫は歌う、歌うのだ。ただ、その想い達のために。

 憂鬱な恋に混乱した欲望と頭を静めよ
 頬を赤らめて瞳を閉じて がんばれ歌姫

既に述べたが、おそらくこの「憂鬱な恋」が歌姫がAメロで描写されている覚悟に至った、神でも救えなかった理由となる恋だ。歌いながら歌姫は自分のことも──ふとすると荒れ狂ってしまいそうな自分を、わがままだけしかない横暴な自分を抑えようとしている。

本来なら別に、歌姫だって自分の想いに、恋に正直になって、歌うことなど投げ出して気持ちを優先してもいいのだ。歌姫もか弱い少女、イコール人間であることはAメロ後半で読んだ通りである。恋にみっともなくしがみついて、なんとか成就させる方法はないか……そんな風に泥んこになって模索したっていいのだ。

だが、そうしない。それよりも歌姫が優先するのは、自分の想いも含めて、多くの想いを受け止め、届かなくとも届けようと一人孤高に歌い上げることだったのだ。なんと崇高なことであろうかと私はしきりに感服するばかりである。

神にも救えないもののために

しかし、そんな崇高な彼女であるが、「あたし」から見ればなんてことはない、「頬を赤らめて瞳を閉じて」とあるように、少女と見まごうほどにとても可愛らしい子なのである。そしてそれは、きっと歌姫の曲を聴く子達とそう変わらない姿なのではないか、と思うわけである。
要するにあたし視点からはやっぱり、多くの人から慕われる姫であっても、ましてや崇められる神様でもなく、あくまで「普通の女の子」であるのだ。

それであるのに、おそらく歌姫自身も自分の脆さや弱さを自覚しているにも関わらず、歌姫はその座を降りることはしない。“届かない想い”を経験した自分だからこそ歌えるものがある、救えるものがあると信じているのだろう。神にも救えないもののために、彼女はステージに立つのである。

あたしはその姿に、きっと強く感銘を受け、なおも愛し、尊敬し続けるのである。そして心からの言葉である、飾らない言葉を贈る。そう、サビを締めくくる言葉の「がんばれ歌姫」を、誰よりも近くで微笑みながら贈ることだろう。

神様と人間のはざまで

歌姫は歌う。たとえ自分の恋が叶うことなく終わっても。抱いた想いが届かず報われなくても。何一つ、良いことがなくても。

それでも、その想いが無念と化すことだけは止めることが出来る。何故なら歌姫自身が歌い上げるからだ。心ごと届けるために、声が枯れるまで彼女は歌い続ける。そうしようと、彼女は決めた。
想いは昇華され天に舞う。そしてきっと多くの人がそれを聴く。ひょっとして自分のことではないかしらと、ああ、こうやって歌われてよかったと、いっそ自分の想いも彼女に聞いてほしいと、そうやって、世界中の報われない想い達が歌姫のもとに集っていくことだろう。
その姿は姫を通り越し、彼女が存在を疑った「神様」にすら近いのかも知れない。彼女には今後ますます信仰が集まることだろう。

だけど歌姫も──あたしが見ている通り、普通の人間と変わらない。憂鬱な恋に苦しみ、混乱し、冷静ではいられなくなる時もある。実際は歌姫を支持する恋する少女達とそう変わらない。Aメロでだって「傷つきやすい」と歌われている。
だけど、けれども彼女は歌い手として、想いの守り人としてステージに立つのだ。届かない想いを知っている彼女だからこそ、歌えるものがある。救えるものがある。神にも救えないもののために、彼女は今日も歌うのだ。──これはすなわち、人間のことは、人間が癒し救う、ということでもあると私は感じている。

一番まとめ -人が神に代わる時-

一番Aメロでは「歌姫」と、歌姫のそばにいる「あたし」の存在が描かれた。歌姫は失恋か、それに近いことを経験し、失意の中にあったことだろう。だが時間は待ってはくれず、世界が無情に進み続けることを認識し、自分もまた前へ進み続ける覚悟を決めた。彼女はきっと自分の経験した辛さをも歌にしてしまおうと決意したのだ。と、私は読みたい。
しかしながら、歌姫の近くにいる「あたし」は歌姫の本当の姿を知っていた。傷つきやすい普通の女の子である姿を知っているあたしは、歌詞には描かれてはいないものの、おそらく一番近くで歌姫を支え続けているのであろう。

歌姫は神の存在を疑い、絶望しながら、届かなかったあらゆる想い達の為に、声のある限り歌い続ける。なんと気高く崇高で偉大な姿であろうか。
だけど彼女のナイーブな一面を知っているあたしは、ただ飾らない言葉で、ある意味では無責任にも取れるような「がんばれ」を彼女に贈るのである。

ひょっとすると、歌姫にこう言えるのはあたしただ一人なのかも知れない……と思うのはさすがに夢を見過ぎているのだが、ここで感じられるのは、(こういう読みをしているので当然なのだが)歌姫が神様になろうとしている一人の人間のドキュメンタリーのような歌詞だな、ということである。
しかし歌姫自身が別に能動的に神になろうとしているわけではなく、自然と崇拝された結果神になってしまっているのだ。確かに神の存在を疑ってはいる。けれど歌姫がしていることはただ歌を歌うのみだ。報われなかった想いに真摯に向き合い、手を差し伸べる。特に「救う」という意識や意志も、いっそないかも知れない。だがそういう存在こそ得てして神になってしまうのが、この世界の常であるように思う。

歌詞を読む・二番

ゆずれないもの

再びあたしの目線から歌姫の姿が描かれる。二番Aメロは弱さと強さを内包した一連である。

 幼く臆病な体でも
 大きな傷をおった背中でも

歌姫は、あたしから見ればまだ幼く、そしてその性格は臆病であるとさえ綴られる。一番サビで描写されていたような気高く強く、孤高ですらあるその姿とはまるで正反対の様子だ。
更には「大きな傷」を負っているのだ。歌姫が経験した失恋のことかも知れないし、歌詞では語られていない、恋愛とは関係のない過去のことかも知れない。
幼い体。臆病な体。傷のある背中。だが、それが何だと言うのか。あくまでも、歌姫は歌い続けるだけだ。

 ゆずれず胸にひそむ意志がある
 だからため息吸い直した

そう。そんな体でも彼女には譲れない強い意志があるのである。それは夢と言ってもいいだろうし、私は何となく“使命”と言ってもいいように思う。彼女でなければ──歌姫でなければいけないものがあるのだ。彼女には自分で成し遂げたい夢が、やることがある。

だから、立ち止まってはいられない。「前に行くしかない」し、「待つ事をやめた」し、落ち込んでてもいられないから、一度ついてしまった──そう。歌姫でも、やっぱり弱音が出る時があるのだ。だって彼女は人間だから──溜息だって吸い直すのだ。同じAメロでもあるし、ここはかなり明確に一番の「待つ事をやめた」と対応する箇所なのだろう。

歌姫の強さに、弱々しく見える中にそれでも息づく揺るぎない強さに、私は惹かれてしまう。それはあたしも、歌姫のファン達もきっとそうであろう。

笑ってよ、あたしのために

「ため息吸い直した」から読み取れる強く気高くある姿とBメロは上手く接続されているように読める。

 「神様 あたしに笑ってみせて」

このフレーズは、神に縋っている、というようには個人的にはあまり読めない。どちらかと言うと神さえも手中に収めてしまおう、という気概があるようにも取れるし、あるいは、ストローではないが、どうかいいことがあるようにと神に祈っているか……と言う感じである。

前者を①、後者を②とするなら、最初に読んだ時はどちらかと言えば②の方が意味合いとしては強いと思ったのだが、そうだとするとここまで読んできた歌姫像とは少しそぐわないところがあるように思う。
かと言って、じゃあ①なのかというと、それも若干強すぎるところがある。先にも少し述べたが、別に歌姫は神になり変わってやろうという意識はないと私は読んでいるので、①だと好戦的過ぎると思うのだ。

無難なところで①と②の折衷がちょうどいいのではないかと思う。これだけ前へ進もう、立ち止まらずにいようとしている、神様がいなくても何とかやっていこうとしているのだ。だから、少しくらいいいことがあってもいいんじゃないか、だからちょっとは、笑ってくれやしないか……というものである。
これはちょっと、というか大分aikoっぽいなとも思う。去年ストロー読解の際に参照したaikoのインタビューの言葉が脳裏を掠めていくからだ。

(「君にいいことがあるように」について)
「(前略)たぶん<君にいいことがあるように>って歌詞にできたのは、本当に心から思えるようになったんだなって。前だったら<君にいいことがあるように>って思ってるけど、そうやって思ってることに気づいて、ちょっと優しくしてほしいよ、みたいな(笑)」

音楽と人・2018年6月号

まさにこのインタビュー通りではないだろうか。歌姫の発表時期はこの時代のaikoの言う「前」に相応しい。いや、大分前過ぎるけど。

懸命に歌姫は強く在ろうとしている。それでも、歌姫の歌に救われる人と同様に、何かいいことが起こることを──言うなれば何かしらの“奇跡”が起こることを、彼女は本当は願っているのである。
それはそれで、歌姫もまた私達と変わらない人間であることを感じさせるので、ここは非常に人間くさい彼女を描いているようにも読み取れる。
とか書いたが、正直ここのフレーズの読み解きは人に依るところが大きいと思う。①だけで取ってもいいし、②だけで取ってもいいのではないか、と思うところである。

あなた、あなた、あなた

 泣いて泣いても叫んでも届かない想い心ごと
 届けるが為に枯れるまで 彼女は歌う

ここは一番サビと同じだが、奇跡や、何かいいことを願う、いい意味での弱さを持つ人間であることがBメロという直前で示されたばかりである。だが歌姫には支持が、想いが──それこそ神様のように、“信仰”が集まる。その人達の届かない想いを天に届け、高らかに歌い上げるために彼女がいる。歌姫もまた、自分の報われない想いを天に届けるべく歌っている。

 おじけづいてた爪の先がありのままの文字をつづった
 ミツメテ コワシテ ダキシメテ あなたの所へ・・・

昔から聴いていて少し疑問だった箇所である。
ここの「あなた」には三種の「あなた」がいるように私には読める。まず、ここのフレーズは歌姫の歌に影響された人の描写、という読みが出来る。歌に勇気を貰い、誰かに自分の気持ちを伝えようとしている。その読みでの「あなた」は歌姫のファンが想いを寄せている誰かを指す「あなた」だ。これが一つ目の「あなた」である。

二つ目は、歌姫を指す「あなた」だ。やはり歌姫のファンだったり、心の拠り所としている誰かが、自分の届かない想いを歌にして欲しい、聞いて欲しい……そう思って、秘めていた想いをありのままに綴って彼女に託したのである。

三つ目は、「歌姫が想いを寄せていた誰か」を指す「あなた」だ。歌姫は歌うことで、沢山の名も無き人の想いを救う、そんな神に代わるような存在にすらなっている。だがそもそも彼女は、本来自分自身の為に歌ってきたのだ。ここで改めて歌姫は自分の為に歌を歌う。叶わないとわかりながら、届かないとわかりながらも再び「あなた」へと歌うのだ。
「おじけづいてた」はまさしく、Aメロで明かされた通りの「臆病な」彼女の姿であろう。歌姫もまた、幾千の想いを歌うことで自分自身にも勇気を与えていたと思うと胸が熱くなる想いである。彼女自身も、歌姫である自分のファンだったのではないか、と思うと余計に泣けてくる私である。

以上三種のあなたについて書いたわけだが、もう一つ考えられる読みがある。歌姫を指すあなたの派生なのでもう一種増えるわけではないのだが、この曲にはもう一人登場人物がいることを忘れてはならない。そう、「あたし」のことである。あたしにとっての「あなた」である歌姫に、文字を、想いを届けていると言う読みも出来る。

「おじけづいてた」は一番Aの「照れくさい」と微妙に対応するとも言えるだろう。照れくさい、要は恥ずかしい言葉は表には出しづらい。「おじけづく」からは遠いので正直強引な読みだなあとも思うものの、全く似ていないとも言えないだろう。
そして「ありのままの文字」は傷つきやすいあなた(歌姫)に寄り添う心からの言葉──それこそ、照れくさい言葉そのものとも言える。それらすべてが歌姫を包む想いとなれ、と届けられているわけである。

二番まとめ -どうしようもなく人で在ること-

歌姫はほとんど神に等しくもあるが、しかし彼女もやはりあくまで人間なのだ。二番では、一番よりもそれが強調されているように思う。
恋をし、破れ、報われなかった想いを、だからこそ歌える。神と向き合い、時には超えるようでありながら、小さく臆病な体の彼女はその神からの慈悲を、奇跡を、どこかで望んでいるのである。

世界では誰かが誰かを想い、その想いを誰かが表し続けている。届くにしろ届かないにしろ、歌姫はそんな世界の中でひたむきに歌い続けている。そんな彼女だからこそ、みんな想いを明かしたいと様々な言葉が寄せられるのだ。それが表されている二番であったように思う。

歌詞を読む・大サビ

少しでも明日へ進みたくて

 泣いて泣いても叫んでも届かない想い心ごと
 届けるが為に枯れるまで 彼女は歌う
 憂鬱な恋に混乱した欲望と頭を静めよ
 頬を赤らめて瞳を閉じて がんばれ歌姫

あたしの目から見ると傷付きやすく、幼く臆病で大きな傷を背負っていて……と、それだけ聞けば非常に頼りなげな人物像である。あげく彼女は失恋もしているし、もっと言うとおそらく「失恋したばかり」なのだ。傷つきやすいと歌われている以上、きっとボロボロの状態であることだろう。

しかし彼女は立ち上がった。壇上で歌ってもいる。前に進むしかないと覚悟を決め、全ての報われない想い達の為に歌おうとしている。全ての立ち止まっている人達を前に進ませる為に──いや、それほど強くなくてもいい。ほんの少しでも明日に目を向けてもらう為に、彼女自らがまず待つことを止めたのだ。
それは誰か知らない人の為、というよりは、何よりも自分がそうなりたかったのだと思う。すなわち自分の為なのだ。少しでも前に向きたかったし、進みたかったし、立ち止まり続けたくなかったのだろう。
懸命に、前へ進む。すなわち、生きて歌い続ける。届かなくても、それでも届かせるように、想いだけでなく心まるごと、全部を届かせるように。

神なき世界の女神さま

ところで、一番Bメロで「神様 あなたはいるのでしょうか」というフレーズがあったけれど、あんな風にわざわざ思わせぶりに書くと言うことは、すなわち「神様はこの世界にはいない」と言っているにもほぼほぼ等しいのである。だから歌姫は神様の存在を疑う世界、どころか、神様のいない世界で歌っているのである。

既に何度も歌姫と神様をダブらせて書いているから今更な話なのだが、歌姫はもはやこの神なき世界で神そのもの、あるいは神の代わりなのである。それどころか、多くの信仰を集める歌姫の方が、報われない、救われない想いの為に歌う彼女の方がよっぽど神様であり、神様以上に人の心を救っていると、私はそう感じるのである。

がんばる歌姫

しかし見誤ってはいけないのであるが、やはり歌姫も人間なのである。それを明らかにしているのが他ならないもう一人の主人公である(そしてaikoの曲のほぼすべての主人公でもある)語り部の「あたし」だった。

本当はすごく小さい体で、言うほど強くも無いのだろう。ただの人間であるならただの女でもあり、恋にいろいろ振り回され、頭がぼうっとしたりもするし、欲望にかき乱され、自分が自分でなくなるようなことだってある。本当に神の代わりになっていたとしても、彼女もまたこの世界に生きる人間なのだ。いくら神格化しても、それを忘れてはならない。

彼女の人間性を明らかにしたあたしが、それを誰よりもわかっている。当然ながら歌姫を貶めたかったからではない。彼女を真にリスペクトするからこそ、本当の姿を綴ったのである。本来は弱く脆くもありながら、それでも歌い続ける彼女のことを、真に愛し、胸打たれているからだ。一番近くで見守っているからこそ、「がんばれ歌姫」と、少し無責任でありながらも一番心に届く一言を彼女に添えてくれるのである。

そう。そうだ。歌姫はその言葉の通り、「がんばる」のである。
弱い自分を知りながらも、恥じながらも、それでも彼女はステージに立ち続ける。迫真の姿で強く強く、歌い上げる。そんな彼女にあたしも、多くの人も、そしてこれから彼女に出逢う人々も胸を震わせていくのであろう。

おわりに -これからも歌い続ける君へ-

歌詞を、曲を通して、「歌姫」ではaikoはおそらく自分の理想像を歌っているのではないかと思う。aikobonのライナーノーツでも「早くこんな自分になりたいですね。私も」と触れられていたのは最初に見た通りであるし、実際私も読んでいて歌姫の姿に大分aikoがダブって見えたのである。

勿論私がaikoファンという前提がある故ではあるが、でもaikoももう歌い続けて25年、四半世紀である。若い世代の歌手やアーティスト、バンドも増え、aikoを目標にする人やaikoに憧れ、尊敬する後輩達も大勢いる。「歌姫」を書いた当時のaikoはさすがにまだ、この曲に綴られる歌姫ほどの格の高さはなかったが、もう20年以上経っているのだ。それだけでなく、aikoはデビューから20年以上を超えて、未だに前線で走り続けてもいる。幅広い世代から愛される、誰しもが認めるトップアーティストにもなっているのである。

25年の時をかけてようやくこの歌姫の姿にaikoが近付いてきたと、そう思う。特別なことは何もしていないと思う。ただaiko自身がずっとずっと歌うことを諦めず愚直にやってきたからだろうし、自分から生まれる沢山の想いを歌ってきたからだと、そう思う。

ただ、歌姫に描かれるのは歌姫だけではない。あたしもいる。この二人の登場人物にaikoが大なり小なり自分の理想像や憧れを埋め込んでいるとするなら、aikoはひょっとすると、歌い続ける自分自身に対して「がんばれ」と言える自分になりたいのかもなと、そんな風にも思う。aiko自身が自分の嫌なところや弱いところを何より知っているはずだし、それでも歌を諦めたくない、歌手であり続けたい自分だって、当然ながら誰よりも一番わかっているからだ。書きながら、自分に一番近い味方は自分自身であるのだなあ、と改めて感じ入っている。

aikoも歌姫も、沢山の支持を、想いを寄せられる歌い手だ。だけれど、どんなに尊く偉大に見えても、決して神様ではない。何度も書いてきたが、私達と変わらない人間であるし、傷付くことも、ショックを受けることもある。
どれだけ自分は、それを思いやれることが出来るだろうか。彼女達の弱さや傷、脆い姿を知ったとしても変わらずに支え、想いを寄せ見守ることの出来る「あたし」になれるよう、ファンの私達も在りたいものである。


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