#08 “新雌”誕生の時。「女性が活躍できる、新しい社会を創っていきたい。」
2018.07.15
新しい時代の女性像を創り出し、自ら体現してゆく。2004年、ブランド立ち上げに伴い付けられた“玉木新雌”という名には、単なるファッションブランドの概念には収まりきらない、玉木自身の深い想いと理想が込められている様に思える。
モノづくりの意欲と希望に満ちながら、かつて大手企業の新卒社員として社会の現実にぶつかった玉木。若き日々を語る彼女の言葉から、「tamaki niime/玉木新雌」創設に至る流れを紐解いてみたい。
玉木新雌
「会社で働きながらも、ちょこちょこっと自分なりに家で服を作ったり、色々なモノづくりはしてました。元々独立したいという想いはあったんですが、やっぱり実社会というところを経験しない事には、何もわからないままって事ではダメだから、社会の仕組みを学ぶためにも働きたいと思って会社勤めをして。その中でパタンナーという職種で就職したのは、これからは手書きのパターンじゃなくてCADを使ってやっていくんだろうなという時代だったから、その技術を習得したい、またひとつ自分のレベルを上げたいっていう目的がしっかりと根っこにあった事と、モノづくりの工程は学生時代に習ったけれども、それが世の中にどういう風に組み込まれていて、どういう会社やひとを経て実際にモノが出来上がり、販売にまで至っているのかという仕組みそのものはまだ部分的にしか見た事なかったので、全体の流れを知りたいと。その意味ではモノづくりをしている会社の中に自分が“潜入”する事で色んな調査が出来る、その会社を選んで良かったなというところは、生地っていう、その時点ではまだ私の中で格段に興味があった訳じゃないけど、生地商社が母体のアパレル事業部だったからこそ、ほんとに観察しようと思えば生地づくりに関しても詳しく知る事が出来るかもしれないという自分の中の微かな希望と、けっこう大手の企業で同期が10人くらいいたのかな?デザインという、モノづくりに関わる同期が10人弱ほどいたからこそ、生地のデザイナーもいたし、トレンド・リサーチ部みたいな世界中のコレクションを見に行って調査してそれを発表する様な人たちもいたし、私と同じようなパタンナーもいたし、服のデザイナーもいたという環境で、その同期から教えてもらう事で、あ、そうかこの会社ってこうやって回ってるんだ、っていう色んな情報を収集出来たのも自分の中では良かったと。他にもそれまでは全然知らなかった品質管理部とか。私は属してなかったんですけど、不良品が上がって来た時にどういう対処をするか?というところでも、それだけの専門の部署があるんだとか。サイズ展開をする時にパタンナーとは別にグレーダーっていう、グレーディングをする部門が別にあるんだとか、実際に会社組織の中で働かないとわからないところがすごく具体的に見れて。やっぱり一年っていうワンシーズン、日本の四季があるからこそ、春夏秋冬に展示会があって営業マンが販売してっていう流れを観察するためにも1年間はいないと、というのはありました。」
― そこは目的がはっきりしていたんですね。
玉木
「社会の嫌な側面、男女雇用機会均等法があっても女はダメ、男ならいい、男女の扱いの差に、これが世の中なんだと思い知らされた事とか。意外と実際にモノを作る役割であるパタンナーのポジションって低いんだ、とか。営業が偉くてデザイナーの立場も上で。世の中平等にしたいっていう…威張っている人間が好きではないというのもあって…なるべくフラットに、皆んながいるから会社が成り立っているんだから、誰がエラくて誰が下とか、そうゆうのがすごく嫌いだったからこそ、ああ、でも世の中ってこんな風に成り立っていて影で皆んな文句言ってるんだと、そういう“荒んだ”大人たちの姿を見て、そんな大人には私はなりたくないっていうのがすごく強かったかな…。だからこそ、自分の会社はそうじゃなくて、こんな会社にしたいっていうヴィジョンがしっかり根に持てたという意味では必要な期間だったと思います。もちろん私はそこの会社しか知らないから、他でもっと良い処もあるのかもしれないけれども、自分が携わったところと自分の周りの色んな人から得た情報から推測すると、社会ってゆうのは大したことないな、荒んでいるなというのが実際のところであって。そうじゃないワクワクする様な会社にしたい、その当時はまだ会社設立のイメージまではなかった訳だけど、自分がそうゆうのじゃない働き方がしたい、という風に、“アンチ”でスタートしているところはあると思います。それだからこそ、ブランドを立ち上げる時に、どんな服を作るか?ではなくて、どういう自分でいられるか?っていうところがすごく大事だと思ったんですよ。だから『玉木新雌』ってゆう、新しい女性として活き活きワクワクする、もう何かに叩かれてちっちゃくなってる自分じゃなくて、自分らしく自分が楽しいと思える仕事でちゃんと食べていけるという様な、そんなブランドになりたいという想いがすごく強かったと思います。そうして『tamaki niime/玉木新雌』というブランド名を付けたんです。」
2004年、tamaki niimeがスタートした当初から玉木の内にあった理想のモノづくりの環境、それと同時に、受け持つ仕事に関わりなく皆んながフラットな立場でチームとして機能してゆく組織づくり。それが今大きくShop&Labにおいて展開しようとしている。
玉木
「今年から新卒社員を採用しているんですけど、最初は家族単位から始めて徐々に人を増やしていって、やっと組織としてある程度のカタチになってこれたから、学校に対して新人採用するから来て下さいと求人を出せる様になってきたというのがあって。自分が専門学校を卒業して社会に出た時にうわぁイヤだと思ったっていう経験があるからこそ、今はどうか知らないですけど、その荒んでいる世界に行ってからウチに来るんじゃなくて、もちろんそれも経験として大事だし“アンチ”になってこっちに来るっていうのもアリだけど、別にそういう荒んだ中でもやっていける人ならウチに来なくてもいいかなとも思って。」
― ワンクッション置かず、もうダイレクトに…
玉木
「純粋な学生であればあるほど、モノづくりにすごく情熱を持っていれば持っているほど、多分現実社会に出た時にその夢と現実のギャップにすごく苦しむと思うんですよね。私もすごく苦しんだし。それでもそうするしかなくて、そこに妥協するしかないじゃないですか。生きていくためには。でもそんな風に自分を偽るような事って本質的な意味では人間として良くないでしょ?活き活きとしたままモノづくりする、それが一番大事だからこそ、純粋な、世間擦れしていないピュアな状態でウチに来て、そのままそのピュアさをどんどんどんどん磨き上げてモノづくりというところに特化させていけたら。それが良いと思ったので、専門学校や大学新卒の人たちをしっかり採っていこうと決めました。」
― 玉木さんの経験した会社勤めというのは社会勉強であり、一種の“リサーチ”ですよね。後にワクワクしながら自分らしく仕事をし、理想のブランドを立ち上げてゆくための準備期間というか。その頃の酒井さんはどんな?
玉木
「相変わらず独自のリサーチというか周囲を観察してたな?」
酒井義範
「その頃の僕はというと、ずっとバイトやったりしてて、そこの職場に入るとだいたい周りを見渡して、どうゆう人がどうゆうポジションにいて、どうゆうバランスで仕事がオペレーションされてゆくか?それに伴ってどうゆう結果が導き出されてゆくか?というところを自分でこう…なんてゆうか、そこは感覚的な部分やから、しようと決意しなくても勝手に頭がそうなるんですよ。ピピピッと。」
玉木
「スキャンする(笑)。」
酒井
「ある程度仕事を見極めたら、だいたい3、4ヶ月くらいで辞めてたんですよ、理解出来てしまうから。例えば職場で僕の前を走っているスタッフがいるとして、抜いてやろうと思って仕事に没頭するんですよ。その間に周りの状況も把握するんですけど、抜いてしまったら、もう興味がなくなって。はい次と。」
― 天才肌なところを何か感じますね。
酒井
「玉木と一緒にブランドをやろうってなった時に、それまでバイトの経験しかなかったので、お前社会人というのはなぁ…って親戚の人たちから言われ続けてきてたので、社会人ってどんなもんなの?って職安で紹介されたある撚糸会社のトライアル募集があって行ってみたんです。面接時にそこの社長さんに僕が社長になる事は可能ですかと聞いたんです。なれるという返事でした。それで自分に課した事があって。1ヶ月というスパンを設定して人と必要以上に喋らず、全身全霊を込めて仕事に集中すると決めて。生産効率で同僚を追い抜こうと。そしたら半月くらいで色んな事を任せられ始めて、酒井君社員にならない?と。社会人ってこんなに簡単なの?こんなに簡単に人に任せるのか、って。それである程度社会人の仕組み的なのは理解したので、辞めますと。その時に社長から、機会があったらいつでも戻って来ていいよ、と。それが社会における「信用」ってやつでしょう?それが得られたからハイ終わり、と。」
― そんな経緯で玉木さんも酒井さんもそれぞれに社会に対する見極めが出来て、「tamaki niime/玉木新雌」というブランド名で行くとなった、その時の話を。
酒井
「ストリートカルチャーやファッションにマニアックなほど詳しい当時の仲間達と新しい女性像ってこんな感じかな?とあれこれネーミングやロゴを考えてましたね。」
― 玉木さんの想う新しい女性像だったり、社会に対するアンチ、異議から出発してこんな風にブランドをやりたいと理想を掲げるところに酒井さんも反応したという事ですか。
酒井
「はい。でもそんな風に僕が深く考えていたかと言うとそんな事はなくて、玉木がこう想うのなら、こうゆうイメージじゃないの?ってゆう。」
玉木
「コンセプトを一緒になって考えるというのではなくて、芯は私自身がやりたい事。そうするためにじゃあロゴはどうするか?とか酒井に投げる。するとこれとこれで行こうか、うん良いんじゃないとか、二人の間でキャッチボールが始まる。」
― すんなり決まったんじゃなくて「玉木新雌」という名前にしてもロゴにしても、試行錯誤があったわけですか?
酒井
「大体は僕が考えますね。で、玉木に見せてOKかどうかというところですね。現在のロゴもショールでいくと決めてから考えたんです。」
玉木
「『新雌』は私やな。“新しい”を使いたくて。男性の名前に雄はよく使われているのに、雌の字の付いた名前はネットで調べてもヒットせず見当たらないのもあって。そこはけっこう、すんなり決まったな。」
酒井
「うん、すんなり決まった。」
玉木
「niimeの“me”の字は“雌”が良いか、芽が出るの“芽”が良いかは最後まで悩んだんですけど、新芽だとポワ〜ンとしてて可愛い過ぎて良くないって。ウチらっぽくない。社会にアンチを唱える私たちには(笑)。雌の方が、なんでメスやねん!?ってツッコミたくなるところも良いかと。」
― 「新雌」と書くと凛とした雰囲気もありますね。
玉木
「“芽”は無難過ぎるというか。二者選択の場合は尖ってる方を選ぶ様には大体してます。名前さえ決めれば、何かしら始まるだろうと。その当時ブランドをやると言ったからって、具体的な作品があるわけでなし。販路があるわけでもなし。何もなかったけど、いや何かできる、と。」
未だ見ぬ未来に確信を持ちながら、旧態然とした社会の有り様に対する異議と新しい時代の理想を内に秘め、2004年、こうして玉木と酒井によるブランドは産声をあげたのだった。以来、揺るがない信念に貫かれ、「tamaki niime/玉木新雌」は弛むことのないモノづくりの追求と成長を続けている。
書き人 越川誠司