不良だった中学時代
「死ね」、「ババア」、「うるせえ」
これらは中学校3年間の僕の口癖だ。
ただ、なりふり構わず誰にでも言っていたわけではなく、家の中だけ、両親に向けてだけの。
学校での僕は異なる。テストの成績は上位20%を常にキープしていて、部活動にも熱心、塾とサッカークラブに通っている。素行も真面目で
先生から頼りにされる側であった。
だが学校が終わり家の中に足を踏み入れると
途端に不良少年へと変貌してしまう。
両親とはほとんど口を聞かず、挨拶もしない。
ある日、そんな僕に母親が、
「あんた学校では猫被ってるね」
「なんでそんなに裏表が激しいの?」
と言ってきた。
煽りの名人である母に、怒った僕は
例の口癖を連発した。
時が経って、いつの間にか思春期は終わり、
そのような口癖は無くなっていた。
だが、母に煽られた日に言葉にできていればよかったと今になって思うことがある。
猫の被り物を用意して学校に登校する前に
被るのではないし、
自分の性格を電気のスイッチを付けるようにON/OFFしている訳ではないと。
なぜか優等生を演じてしまう、なぜか強い言葉を使ってしまう。なぜだかはわからない。
中学の頃はそうだった。
母の言葉がずっと引っかかっていた。
言動が時と場合によって変動する人に対し、
二面性、裏表、違った一面、猫を被る
など、性格が二極化したもの又は別の人格であるかのように一般的には表現する。
でもその表現は間違いであり、
僕はこう考える。
人の性格は「円柱」なのだ。
性格を円柱、接する人を円柱に接する点
だと考えよう。
点が移動すれば、
円柱と接する場所が変わるように、
接する人が違えば、
人の言動も変わるわけだ。
上手くまとめたつもりだが、僕は気づく。
円柱は真横から見たら面なのだ。
そうか、1人の視点だと面にしか見えないのだ。
となるとら二面性や裏表という表現は
間違いではない。
ただ面に見えていたものは実は円柱なのだと。
言動にはグラデーションがあり、
意図的に使い分けている人もいれば、
そうでない人もいるということを伝えたい。
自分の視点から見えるものだけで人を判断してはいけないと自分の体験から感じた。