
朗読脚本『黒髪の妖狐、小夜子』
SE 走る音
SE 転ぶ音
小夜子「痛いのう……とうとう、走れんようになったか……」
SE 足早に歩く音
祐介「うわあ、派手に転んじゃったね。立てるかい?」
小夜子「お、なんじゃ、お主。腕を引っ張ってくれるのか。恩に着る。よっこらせっと」
祐介「泣かなかったね。えらい、えらい。怪我はしていないかな?」
小夜子「大丈夫じゃ」
祐介「よかった。着物、汚れちゃったね」
SE 服の汚れを払う音
小夜子「この汚れは泥ではない。食べ物のシミじゃ。何年前じゃったかのう。二十年前?三十年前だったか……この着物ばかり着ていたから、ほれ、ヨレヨレじゃ」
祐介「(頬笑む)面白い冗談を言う幼稚園児だね」
小夜子「ようち…えんじ?違うぞ。わらわは齢九百歳の妖狐。ようちではなく、よ、う、こ、じゃ」
祐介「ようこちゃんって言うのか。かわいいなあ。僕の名前は祐介。よろしくね」
小夜子「祐介や、お主は勘違いしておるぞ。妖狐とは、わしら一族の呼び名。キツネの妖じゃ」
祐介「えっと……名字が、『ようこ』なの?」
小夜子「名字ではないぞ? そんなものは妖狐にはない。わらわは、小夜子と母上たちに呼ばれていた。祐介も小夜子と呼ぶがいい」
祐介「呼ばれていた……ということは、お母さんたちはもう……(小声)聞くのはやめておくか。小夜子ちゃん、髪がボサボサだからうちの美容室においで」
小夜子「お、おい、腕を引っ張ってどこへ行くのじゃ。『びようしつ』?ほお、茶室みたいなところかの?わらわをもてなしてくれるのか?」
祐介「面白いことを言うなあ、小夜子ちゃんは。やっぱり小夜子の歳じゃ美容室はしらないよね」
小夜子「面白いのは、お主じゃ。転んだわらわを介抱するだけでなく、自室に招き入れるとは……若いのに結構な心意気じゃ」
祐介「若いってもう二十五歳なんだけどなあ」
小夜子「ふふふ、九百歳のわらわに比べたら、祐介はひよっ子よ。祐介、お主の望みは何じゃ? わらわから術を教わりたいのか?」
祐介「髪を整えるんだよ」
小夜子「髪? そういえば、山を降りるときに引っかかって引きちぎったな。あれは二日前……いや、七日は経ったか……。(小声)髪を整えるって大丈夫かの・・・・・・まあ、試しについていくとするか。妙なことをしたら、こんな小童(こわっぱ)、塵にしてやるかの」
SE 草履と靴の歩く音
SE ドアベルの音
小夜子「広いのう! 装飾品があまりないのは寂しいが、手入れが行き届いている」
祐介「いらっしゃいませ、小夜子様」
小夜子「『びようしつ』は、すごいのう! じいやが何人おるのじゃ?」
祐介「じいやはいないよ。みんなが掃除をしているんだよ。今日は休業日だから店長の僕しかいないけれど、ここではたくさんの人が働いているんだよ」
小夜子「何だと!? じいやがひとりもいない! 皆で『びようしつ』の手入れをしているのか。主(あるじ)である祐介も掃除をするのか。『びようしつ』の住人はまめじゃのう」
祐介「掃除も仕事の一部だからね。さあ、座って」
小夜子「お、これは知っておる。椅子じゃ。腰を傷めずに身体を休められると、母上が言っておった。どっこいせ」
SE 椅子に座る音
小夜子「……ふう、これは楽じゃ……わらわの寝床には負けるが、心地良い」
祐介「疲れていたら寝てもいいよ。それじゃあ、髪を梳かすね」
小夜子「ああ、待つのじゃ。わらわは髪を梳かすなら、この櫛と決めておる。確か、袂(たもと)のなかに……」
SE 袂を探る音
小夜子「あ……歯が折れておる……そうだ。枝から引きちぎった髪を溶かしたときに、折れたんじゃ。大事な櫛だったのに……。そういえば、この櫛は誰かからもらったんじゃろう。母上かのう?」
祐介「ちっちゃい頃にもらったから、忘れちゃったんだね」
小夜子「違うのじゃ。わらわは九百年も生きた。妖の世界ではそろそろ天の世界に行かねばならぬ」
祐介「さっきから自分は九百歳って言っているけれど、想像の話……なんだよね?」
小夜子「わらわは、まことのことしか話さぬ。どれ、術でも見せるとするか」
SE 風が吹く音
祐介「うわ! 風が! え……小夜子ちゃんが浮いてる!?」
SE 風が止む
SE 着地する音
小夜子「(息を吐く)思った通りじゃ。術が続かぬ。やはり、わらわの妖狐としての寿命はもう……」
祐介「寿命? 天の世界に行くって言っていたけれど、まさか……」
小夜子「なに、滅びぬのではない! 姿形(すがたかたち)が変わって、社(やしろ)の奥に眠る水晶玉になるのじゃ。十月十日(とつきとおか)経てば、水晶玉は星になって天に登るのじゃ。その日の晩は、祭りが行われる。飲んで、踊って、太鼓を叩いて、笛を吹いて。そうやって父上も、母上も、姉上も見送った。(少し泣く)だから……だから、怖くない……怖く……なんか、ない」
祐介「……怖くないのに、どうして涙が出ているのかな」
小夜子「祐介は鋭いのう! 人間の癖に! 涙が出るのは、もうさよならするからじゃ。
天の世界へ行ということは、この世、この街、木々、犬猫、人々に別れを告げること。 わらわは、山から降りて街中を歩くのが好きだった。
妖と人は、相容れぬ。 一族からそう教えられてきたが、 人を見るのは楽しかった。
人の成長は面白いのう!
親の腕に抱かれていた赤子が、いつの間にか走り回り、皆が同じ服を着てどこかに通うようになる。
背が伸びる者、髪を伸ばす者、紅(べに)をさす者……まことに人の変化(へんげ)は興味深い。
それも……もう、見られんのじゃ。
わらわが天の世界へ行っても、この世は続く。
この世がどう変わるか、明日には、そのまた明日には、どんな赤子が生まれるか見たかったのう……。
最後に、人情に厚い祐介に出会えて、わらわは嬉しいぞ!
できれば、もう少し長生きして、お主の成長も見たかったのう。
さて、年寄りの話は終わりじゃ。 祐介はわらわの髪を梳かしてくれるのだったな。頼むぞ。
あ、そうだった。櫛がない」
祐介「店の櫛を使うよ」
小夜子「ほお!『びようしつ』には櫛があるのか。これは助かる。
うむ……うむ。祐介がゆっくり溶かしてくれるから、気持ち良い。
なあ、わらわのお願いを聞いてくれるか?」
BGM 切ない感じのメロディ
小夜子「ゆっくり、ゆっくり、髪を梳かすのじゃ。最後に優しくしてくれた、祐介の恩を忘れとうない。
……わらわは、一族のなかでも出来が悪かった。
修行は、ちいとも身につかんかった。
身体は小さいし、物覚えも悪い。
成長したらそれなりの出来にはなったが、あっという間に、身体がゆうことがきかんようになった。
年を取るのは難儀じゃのう。
忘れたくないことは忘れ、忘れたいことは頭に染みついておる……。
大昔にな、童(わらべ)どもに囲まれて、髪を引っ張られたのじゃ。
原っぱで術の練習をしていたときじゃ。
わらわを『化け物』と言うておった。
お主が「髪を整える」と申したとき、少々怖かった。
でも、信じてみようと思ったのじゃ。
今日はわらわが山を降りる最後の日。
最後なんだから、信じてみたかった。
信じて……良かった……いい思い出ができたのう」
祐介「そんなつらいことがあったのに人を見捨てなかったんだね。人間代表としてお礼を言うよ。
ありがとう。(悲しいのをごかますために笑う)僕が代表なのは変だけどね。ちょっと……ごめん。(涙がうるんできたのをごまかす)今日のことは、僕にとってもいい思い出になるよ」
小夜子「そうか! それは嬉しいのう。
さて、この思い出を忘れずに山に登るとしよう。
結構、時間が経ったな。どっこいせ」
SE 椅子を降りる音
祐介「この櫛をあげるよ。
櫛があれば、山に登っても今日のことを忘れないよ」
小夜子「そうだな、この櫛があれば忘れないな。
ありがとう、いただくとしよう。
本当に、祐介は義理人情に厚い子じゃ……うわ、なんじゃ!?」
SE 抱きしめる音 (衣服が擦れる音)
祐介「これも、思い出だよ」
小夜子「祐介の言う通りだな……。こうやって抱きしめてもらうのは最高の思い出じゃ。
……おお、いっぺんに思い出したぞ!
母上の温もりも、父上の笑顔、姉上の笑い声も!
みんな、わらわを同じように抱きしめてくれた!
忘れた思い出をよみがえらせるなんて、祐介はすごい力を持っておるのう!」
SE 離れる音(衣服が擦れる音)
小夜子「最後にお主に会えて、わらわは幸せだ。
いいか、十月十日が経ったら夜空を見るのじゃ。
打ち上げ花火のように、天へと昇る水晶玉を目に焼き付けるのだぞ。
約束じゃ」
SE ドアベルの音
SE 扉が閉る音
祐介「九百歳の妖狐……か……」
SE ふくろうの鳴き声
SE 鈴虫の鳴き声
SE 足音(一歩一歩踏みしめる感じの音)
祐介「(荒い息づかい)まだ、間に合うかな……」
祐介(語り)「小夜子ちゃんと別れてから、十月十日の夜。
僕は近くにある展望台に向かった。
今夜は小夜子ちゃんとの約束を果たす日だ。ロープウェイの営業時間は終わっていて、展望台までの山道を歩くことになった」
祐介「(息を整える)着いた……聞こえる……祭り囃子の音色だ」
SE 笛を吹く音と、太鼓を叩く音(遠くから微かに)
祐介「あ、上がった!」
祐介(語り)「まるで、天へ還る流れ星のようだった。
山のふもとの街灯や家の明かりに負けないくらい眩しい光。きっとあれが……」
祐介「小夜子ちゃん……約束を守ったよ。
涙でにじんで、水晶玉が見えないけれど……。
忘れないよ。小夜子ちゃんの髪を梳かしたこと、
小夜子ちゃんを抱きしめたこと。
小夜子ちゃんが最期まで人を信じ抜いたことを……」
【了】