見栄を張ることをやめた日
誕生日、大好きな人と結ばれた日、結婚した日、
きっと、大事な日が誰にでもある。
私は27歳の今年、大事な日が1日増えた。
それが
見栄を張ることをやめた日。
19歳で恋をして遠距離も経て結婚し
8年一緒にいた夫に別れを告げ、離婚した。
辛くなかったといえば嘘になるようなことも
もちろんあったし失わせてしまったものも
失ったものも少なくはなかったけれど
それよりはるかに多くのものを得て、学んだ。
だから、これまで歩んだ道、過ごした時間、
自分の決断になにひとつ後悔はないし
相手や家族、周りの大事な人たちや環境
すべてに感謝しかない。
そんな多くの得たもの学んだものの一つが
見栄をはることをやめてみると、
毎日自分にとってなにが大事なのか
なにが自分にとっての幸せなのか
迷わず選べるように、分かるようになるということ。
昔から周りからどう思われるかを人一倍気にする性格だった。
だから家族の前ではわがままな末っ子だけど
一歩外に出れば良い子ちゃん、というかんじ。
近所に住む幼馴染が色黒でスタイルの良いハーフの女の子。
私は日焼けしても赤くなってひりひりしてしみになるだけの
白い肌にザ・日本人という顔立ちの平凡な顔。
色が黒いのに憧れてノースリーブショートパンツで
炎天下の中1日中農作業の手伝いをした。
日焼け止めなんてものはうちに置いてもないので
もちろん塗ってるはずもない。
夜になると真っ赤になっててひりひりして
翌日には二の腕や顔に一気にしみができてた
その日が、私は色黒にはなれないんだと知った日(笑)
それから、私は自分の癖毛も好きじゃなかった。
高校生になると、車と電車と自転車で1時間かけて登校する少し都会の学校に通った。
キラキラした都会の女の子達がたくさんいて、
中でもストレートの髪の毛の子たちに憧れた。
毎日アイロンをして登校した。
ある日真っ直ぐストレートの女の子が私に
「毎日アイロンしてきてるの?
えー癖毛いいじゃん!
私なんて巻いても跡もつかないし頑張って
セットしてふわっとさせてもすぐ頭ぺちゃんこになるし。
癖毛かわいいから羨ましいのにー。」
て言ってくれた。
癖毛のことをいいなと思う人がいるんだって知った。
とはいえ、オールバックにするとふわわと
アホ毛が出てくるほど癖毛だったから
やっぱりストレートには憧れたんだけどね。
でもそれも今では自分に合う髪型見つけたら
癖毛を活かせるようになってきたりしてね。
あげるとキリがないけど
そうやって周りの人に憧れて真似てみたり
努力をしてみたりもした。
良いと思われたいという気持ちが見栄を張らせた。
でもね、結局ね、私は私なんだよね。
私は私で、誰かにはなれないし
誰かも私にはなれない。
少し話が逸れたけど、
そんな私は28歳を目前にして、離婚をした。
結婚生活自体上手くいってたかというとそうでもなかったけど、
話し合いも努力も重ねてなんとかやっていけると言い聞かせて過ごしてきてた。
そして、人前では良い夫婦に見られたくて
良い夫婦のいい妻に見られたくて
今思えばそんなふうにして取り繕ってたと思う。
長く付き合って、遠距離も経て同棲して
順調に結婚してやりたい仕事も一生懸命して
そんな私がいいんだとどこかで思ってたんだよね。
初めて離婚を考えた時、
一番思いとどまらせたものは"世間体"。
離婚をするということ自体もそうだし、
ここで離婚をしたら逃げだと思われるんじゃないかとか
夫婦はいろいろあるんだからそれくらい
我慢して乗り越えるのが当たり前だとか
そういうことを思われるのが怖くもあった。
もし自分の友達が世間体を気にしてたら、
そんなの気にする必要ない!て人には言うのにね。
それから、結婚をした私に時間やお金をかけて
お祝いの気持ちを届けてくれた大好きな人たちに申し訳ないという気持ち。
これは物凄く大きくて、正直この先も少し思っていくかも。
でもね。
「お祝いしてもらっておいて本当に申し訳無いんだけど...」
「恥ずかしい話なんだけど....」
と話を切り出すと、大好きな人たちはみんな
「申し訳ないなんて思わなくていい。
あなたが幸せならそれでいい。」
って言ってくれた。
大好きな先輩には
「自分の人生。あなたが、楽しい〜とか幸せ〜とか思えないと、周りへも優しくなれないと思うしね。
たとえ周りに何か思われて気になるとしても、それは一時のこと。
人の噂も七十五日と言いますからね。
みんながあなたを大切に想っていますよ。
まだまだずぅ〜っと、応援してるからね。」
と言葉をいただいた。
他にも、家族、先輩、後輩、友人、
みんな温かい言葉をくれた。
もしかしたらお世辞かもしれないけど、
大好きな人たちが言う言葉が
お世辞かどうかくらい分かる自信はある。
きっとみんな、心からそういう気持ちを伝えてくれた。
私が大事にしたいと思う人たちは、
"順調に結婚してる私"
でも
"素敵な結婚式をした私"
でも
"看護師をしている私"
でも
"少し稼ぎがあるから良い家に住む私"
でも(別に良い家じゃなかったけど(笑))
"旦那のために尽くす私"
でも
"仕事と家庭を両立させる私"
でもなく
そのままの、
何をしてるからでもない
"ありのままの私"
を見ていつもそばにいてくれているんだって知った。
今思えばどれほど烏滸がましく
自意識過剰だったんだと気付かされた。
誰も、私が仕事をちゃんとしているとか
私が仕事と家庭を両立しててすごいとか
そんなことは思っちゃいないし気にもしてない。
そういうイメージがあることが良いとか、
そう思われたいとか、多分どこかで見栄を張っていた。
だけど実際はなんにも出来ちゃいない、
一人でなんて何にも出来ない人間だったんだ。
結局結婚生活も、私が一人でやれる、
やってやると、やらもしないのに思って
過ごしてきてしまったことが1番の
要因だったのかもしれないなと思う。
みんなただ、私と言う人間を見てくれてた。
だから、私がどんな選択をしても
自分の幸せを願う自分のためだけの選択だとしても
それでもそれでいいんだよと言ってくれた。
見栄を張ることをやめると、
欲しいと思ってたものが自然と気にならなくなった。
多分それは物や行動においての
ブランド名や肩書き、
性格にしろ物にしろ、
良いもの持ってると思われたいとか
意識はしてなくてもどこかで思ってた見栄から
欲しかったんじゃないかなと今では思う。
いつも賃貸を借りるときに必須条件にしてた
"バストイレ別"という条件。
離婚する前に1ヶ月別居をするために借りた
マンスリー賃貸はその条件には当てはまらなかったけれど
住めば都とはよく言ったものだ。
元々そんなに整っていない環境
(田舎のお金のかからない暮らしとかね)
でも苦にならない性格だから
綺麗でピカピカな個室のトイレじゃないと
私はようをたせない!なんて性格ではないので
なんてことない、なにも不便ではなかったのだ。
見栄を張ることをやめなかったらきっと
友達が来たときに少し恥ずかしいなとか思ってたけど
毎日住むのは私で、そもそも今私の周りにいる
大好きな人たちはトイレバスが別かどうかで
私の人間性を決める人はいない。
私が良いと思えばそれでいいんだって
ある意味自己中心的な考え方をし始めたわけだ。
だから、もし個室じゃないとようをたせない!
て言う人が遊びに来たらそれは
本当にごめんなさいってかんじ(笑)
実際そういう人は私の周りにはいないなと思える。
人を呼ぶからには綺麗にして気持ちよくいてほしいし
自分も気持ちよく過ごすにはもちろん掃除はするけどね。
そうすると今度は、家賃が格段に安くなった。
その分、喜んでもらいたいと思う人に
いつもより少し余裕をもっておもてなしをしたり
プレゼントを選ぶ幅が広がってより一層楽しくなった。
離婚をきっかけにたくさんの物ともさようならをした。
また同じ装飾品や家具や家電を買うかと思いきや、
全くいらなかった。
自分が本当に心が穏やかになって
そこにあるだけで、いてくれるだけで癒されるなぁと思うのは
お花と、
お豆から淹れるコーヒーと、
下手くそだけど弾いてて楽しいギターと、
好きな音楽。
それと、なにより、大好きな周りの人達。
そういう自分が癒される時間を過ごすために必要なのが
インテリアだったり、高級ブランドバッグだったり
沢山の素敵な靴だったり
それは
人それぞれいろいろだと思うけど。
私にとってはそれが、
お花や音楽、大好きな人たちだった。
もちろん、高いお金を払って買ったコートや
バッグもあるし、それも本当に大事な物で
それは本当にその物を
気に入って買ったからそれもまた
身につけるだけで幸せになるものだけどね。
見栄を張ってるとおしゃれに見られたいとか
スタイルよく見られたいと思うけど
自分が幸せ〜と思うおしゃれがしたい、
自分が健康的だと感じられるスタイルでありたい
と思うようになった。
もちろん、人が不快に思うような身だしなみでも
自分が良ければ良いという話ではないよ(笑)
カーネギー氏の本の中で
人は嫉妬心や偏見、先入観、猜疑心や恐怖心、プライドが多くあると言っていた。
本当にその通りだと思う。
いいなぁと羨ましく思ったり
こうすることが良いのだとか
これを持っている人が優れているいう先入観
人にどう思われるかという気持ち、プライド。
でも一度それを全て、少し、手放してみると
なんて生きやすく、大事な物が見えやすくなるんだろう。
もちろんそれらが必要だったり
見栄を張ることがあるから成長できることもあるから
それが全てではないけど。
見栄を張ることをやめた日。
それは、私にとって人生の大きな分岐点になった。