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【感想文】書記バートルビー/メルヴィル

『変なおじさんだから変なおじさん』

上記は我々に課せられた命題であり、そのため何かしらの解を与えなくてはなるまい。で、与えた。

①ハイデッガー『存在と時間』における存在論を援用すると、現存在(=変なおじさんという事実)は意志とは無関係に、既に今こうしてこの様にこの世界に存在させられている「被投的な存在者」である。
②一方で現存在はその様な存在者(=変なおじさん)を存在者として了解して世界に自己を投げ入れている「企投的きとうてきな存在者」でもある。
③現存在は被投的な存在者として存在しながら存在者としての自己を見出す「被投的企投ひとうてききとう」な構造をもつ。
④上記①~③を総合すると「(既に)変なおじさんだから(今後も)変なおじさん」と言ってるだけの話であり、即ち「在るべくして在り、そして在ろうとする」といった在り方の宣言である。
⑤したがって、この命題に対する解は「ハイデッガー的には『真』」となる。

というわけで今回は、こうした存在論に基づいて『書記バートルビー』におけるバートルビーの存在意義を検討する。その際、本書をナラティヴ・データとして扱い、その主体である「語り手」を分析することでバートルビーを明らにする。

▼語り手の在り方/非本来的な自己について:

ダス・マンとは、ハイデッガーによると「距離を測りがちであること、人並みであろうとする平均性、平坦化、公共性、存在の負担の軽減、迎合といった日常的に互いのあいだに在ることの存在性格」であるとし、その特徴は総じて「頽落たいらく」であるという。本書の語り手の性質においても同様、近代資本主義およびプロテスタンティズムに埋没し、ターキー、ニッパーズ、バートルビーといった語り手以外に向けた他者への言及・評価、これら全てがダス・マンを象徴している。そうした傾向の根本においては「死」といった得体の知れない不安を了解していながらも、そこから目を逸らすべく、自身ではなく周囲の世界に向かおうとする──つまり自己を見失っている在り方なのであり、これをハイデッガーは「非本来的」と称している。では、非本来的な自己の対極にある「本来的」とはどういう在り方なのか。

▼バートルビーの在り方/本来的な自己について:

語り手にとってバートルビーは異端であり、そうした現存在に対する興味は尽きないが、バートルビーの世間とはあまりにかけ離れた行動により、語り手は転居という形で彼の元を去ったものの、バートルビーを気に掛けて工面を試みようとする──以上はダス・マンの原理に基づく発想に過ぎない。一方のバートルビーはというと、語り手および周囲の施しを拒んだ末に死ぬわけだが、これに対して語り手は <<ああ、バートルビー!ああ、人間とは!>> と嘆きながら命題を提出しており、そのため何かしらの解を与えなくてはなるまい。で、与えた。

①ハイデッガーの存在論を援用すると、バートルビーの死は一般的な死を意味するのではなく自己の死に向けて「先駆ける果断さ」、その決意が死をもって表されている。
②なぜなら、死は現存在の可能性を絶つものであり、この可能性を自覚することで代替不可能な固有の自己を求めることになるからである。
③上記①②について、バートルビーは決して死に急いでいる訳ではなく、世間的な価値規範と自己とを切り離し、本来的自己の実存を可能とした存在といえる。
④そのため、バートルビーにとって「彼を取り巻く世界」の意味はそもそも失われている。
⑤一方の語り手は世間的な価値規範により自己を見失った存在である。
⑥語り手は非本来的自己(⑤語り手)と本来的自己(③バートルビー)との二律背反に「ああ、人間とは!」と疑問を持っただけの話である。
⑦したがって、この命題に対する解は「ハイデッガー的には『人間とは非本来的自己だけでなく本来的自己の実存が可能になる存在』」となる。

といったことを考えながら、フワちゃんとヤスコの関係、東出昌大の山奥ハーレム生活、いただき女子リリちゃんの近況、そうした事柄に言及しているような者は……バートルビー&変なおじさんに言わせれば「」なる存在である。

以上

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