【感想文】書記バートルビー/メルヴィル
『変なおじさんだから変なおじさん』
上記は我々に課せられた命題であり、そのため何かしらの解を与えなくてはなるまい。で、与えた。
というわけで今回は、こうした存在論に基づいて『書記バートルビー』におけるバートルビーの存在意義を検討する。その際、本書をナラティヴ・データとして扱い、その主体である「語り手」を分析することでバートルビーを明らにする。
▼語り手の在り方/非本来的な自己について:
ダス・マンとは、ハイデッガーによると「距離を測りがちであること、人並みであろうとする平均性、平坦化、公共性、存在の負担の軽減、迎合といった日常的に互いのあいだに在ることの存在性格」であるとし、その特徴は総じて「頽落」であるという。本書の語り手の性質においても同様、近代資本主義およびプロテスタンティズムに埋没し、ターキー、ニッパーズ、バートルビーといった語り手以外に向けた他者への言及・評価、これら全てがダス・マンを象徴している。そうした傾向の根本においては「死」といった得体の知れない不安を了解していながらも、そこから目を逸らすべく、自身ではなく周囲の世界に向かおうとする──つまり自己を見失っている在り方なのであり、これをハイデッガーは「非本来的」と称している。では、非本来的な自己の対極にある「本来的」とはどういう在り方なのか。
▼バートルビーの在り方/本来的な自己について:
語り手にとってバートルビーは異端であり、そうした現存在に対する興味は尽きないが、バートルビーの世間とはあまりにかけ離れた行動により、語り手は転居という形で彼の元を去ったものの、バートルビーを気に掛けて工面を試みようとする──以上はダス・マンの原理に基づく発想に過ぎない。一方のバートルビーはというと、語り手および周囲の施しを拒んだ末に死ぬわけだが、これに対して語り手は <<ああ、バートルビー!ああ、人間とは!>> と嘆きながら命題を提出しており、そのため何かしらの解を与えなくてはなるまい。で、与えた。
といったことを考えながら、フワちゃんとヤスコの関係、東出昌大の山奥ハーレム生活、いただき女子リリちゃんの近況、そうした事柄に言及しているような者は……バートルビー&変なおじさんに言わせれば「偽」なる存在である。
以上