【小説】青木の炭吹雪
今朝、郵便受けを開くと朝刊のほかに私宛の封筒が投函されていた。
差出人に住所の記載はなく「青木太郎」とだけ書かれていたが心当たりは無い。とりあえず私は封筒の中の便箋を開いた。
*
前田花子 様
拝啓 この度は突然のお手紙となり大変恐縮です。青木太郎と申します。
あなたが私を存じ上げないことは承知の上でお手紙を差し上げております。
実は取り急ぎ、あなたに申し上げなければならないことがあるからです。
その前に少しだけ、私の身の上をお話しさせて下さい。
私は山形県の泥沢という寒村に生まれました。
家は炭屋をしておりまして、父も母も終日大量の炭焼きと配達に追われる日々でしたが、一口に炭屋と申しましても東京、大阪にある様な大規模な木炭製造所ではなく、人口百人にも満たない寒村ですから専ら村人の生活の為の炭屋でした。この村で我が家は炭を売って平凡に暮らしておりましたが、1950年代の燃料革命により石油、ガス、電気などへの転換が進み炭の需要が減ったため、家は徐々に貧しくなっていきました。両親は家業をつぶすまいといっそう身を粉にして働いておりましたから、母は子育てに専念できるはずもありません。そんな母は炭代の集金の際、幼い私を背負って山道を歩きながらよく子守唄を歌ってくれました。
私が小学校を卒業する頃も我が家は相変わらず貧しいままでしたが、父も母もそして私もそれなりに幸せに暮らしておりました。そんなある日のことでした。家が全焼したのです。出火の原因は炭の不始末でした。おかしな話でしょう。なぜって、炭屋が己の家を丸ごと炭にするなんて本末転倒ではないですか。そして我々が火に気付いた時にはもう消火などできる状態ではなく、周囲一面炎に覆われておりました。母と私は命からがら逃げ延びましたが、逃げ遅れた父は後日、焼死体という姿で私達の前に現れました。火葬する金だけはかからずにすんで父ちゃんはえらい、と言って母は泣きました。
簡単な葬式を行い、唯一焼け残った納屋を改築したあばら家で母と私は暮らし始めましたが炭屋の廃業と共に貧しさは増すばかりです。ある晩のことでした。母が『今日の御飯は芋煮だよ』と言って目の前に鍋を置きました。芋煮とは、宮城、山形ではよく知られた郷土料理のことで私の大好物でもあり、私は思わぬご馳走に嬉しくなって鍋の中を覗いてみましたら、お湯の中に芋が二つだけ浮かんでいました。これは芋煮ではない、と母に抗議するよりも前に、ここまで貧窮を極めていたのかと私は湯に浮かんだ芋をにらみ続けました。
このままではいけないと一念発起した私は、村を出入りする行商人に頼み込んで唐茄子売りの手伝いを始めました。昔の落とし話に「唐茄子屋政談」という演題がありますが、現実の唐茄子屋にあの様な美談は何ひとつありません。朝から晩まで唐茄子満載の天秤かついで村から村へと山道を売り歩くのですから、すぐに腕も肩も腰も言うことを聞かなくなりましたし、破れた足袋からのぞく素足に霜柱が刺さったりといった始末でとても商売どころではありませんでした。それでも家計を助けんと必死で唐茄子を売り歩き回ったのですが、唐茄子、今でいうカボチャなんて村では珍しく、そんな南蛮渡来の奇怪なシロモノなんぞに誰も見向きはしてくれません。私は途方に暮れました。そうした事情を先輩の物売りの方々に相談しましたところ、君は営業努力が足りないと一蹴されてしまいました。営業努力とは何だろう。先人の知恵はどうしても借りたい。そこで先輩方をよくよく観察してみますと、彼らは物を売る際は必ず、「売り声」という商売文句を発声しながら売り歩いているという共通点に気づきました。例えば、金魚売りですと『きんぎょーうえー、きんぎょーい』うどん屋ですと『うどーんやー、そーいやーうーぃ』といった調子で、商品を独特の掛け声でアピールしていたのです。では私も早速と、唐茄子屋ならではの売り文句を考えたのですがこれといって良い文句が素人風情の私に思いつくわけもなく、なかば自棄になって『たちつて唐茄子、あいうえ美味しい、さしすせ小人、かきくけ閑居、小人閑居で不善をナス!』と売り歩いておりましたところ、村人はこの売り文句を面白がってくれて唐茄子は飛ぶように売れていったのです。この調子なら貧乏暮らしから脱却できる、そう喜んでいた矢先のことでした。父に続いて今度は母が死んでしまったのです。
死因はチフスでした。そういえば思い当たるふしがあります。母はよく他人の田んぼからタニシをすくってきてそれを生で食べていたのです。タニシとは、巻貝の形をしたサルモネラ菌の集合体です。即ち、タニシの生食はサルモネラ菌を食べることと同義ですから、母はそれによりチフスに罹ったのは間違いありません。ただ、母と違って私の場合、タニシはちゃんと茹でてから食べるようにしていましたし、夕食の際に母のタニシ生食を何度も目撃しましたがそれを咎めるようなことはしませんでした。人にはそれぞれ好きな食べ方があるからです。「蓼食う虫も好き好き」といった故事もある様に私はタニシを「茹でて食べる派」で、母はタニシを「生で食べる派」なのであって、人の好みに口を差しはさむのは親子であってもしたくない。食べ方の好みは食べる当事者がそのとき一番美味しいと思った方法で好きに食べればいいのです。そういう訳で母はチフスに罹るべくして罹ったのですが、母は臨終の間際、驚くべきことを私に告げました。
『太郎や。実は、わたしはお前の本当の母ではないんだよ。わたしは死んだ父ちゃんの妹、つまりお前の叔母にあたる。お前の本当の母さんはお前が産まれてからすぐに父ちゃんと離婚して秋田へ帰ってしまったんだ。だから可哀そうに思ったわたしはお前の母親代わりを父ちゃんに申し出た。母さんは今でもまだ秋田にいるかもしれないから会いに行っておやり。ずっと嘘をついていてごめんね、許しておくれ』とこう言い残して息を引きとったのです。驚きました。今まで母だと思っていたのは実は叔母だったのですから。かといって、これまでその事実を打ち明けてくれなかった叔母を恨む気持ちは微塵も生まれませんでした。叔母は育ての母に変わりはありませんから。こうして父と叔母を失った私にとって残された唯一の身寄りである、実の母の存在を知ることになったのです。しかし私の中に母の記憶は一切ありませんし、顔すらも思い出せませんのでこの境遇にとても複雑な気持ちになりました。この先私はどうすればいいのでしょう。いずれにしても、この家に住んでいるのは私一人になったのです。その晩、私は唐茄子に襲われる夢をみました。
翌日から私は唐茄子売りを辞めました。以降は酒浸りの毎日でした。一升瓶片手に、不要になった唐茄子をかじっては飲み、かじっては飲み、全ての唐茄子を食べつくした後は田んぼからタニシをすくっては食べ、すくっては食べ、家に迷い込んできたハトにパンをちぎっては投げ、ちぎっては投げ、とにかく朝から晩まで飲みづめに飲んで一時的にでもいいからこの孤独から逃れようと試みましたが、すべて徒労に終わり無為な日々だけが過ぎていきました。有り金もすべて使い果たしました。もう思い残すことはない。後は死ぬだけ。死のう、何度もそうしようとしましたが私にはできませんでした。思い残すことはやはり母のことです。一目でいいからお母さんに会いたい。父も叔母も死んだ今現在の私の孤独、それを救ってくれる人はこの世に母しかいない。秋田のどこかに母は必ずいる。とうとう私は母を探しに秋田へ行く決心をしたのです。
出立当日は早立ちとなりました。私は日が昇らない内から起床して旅支度を始めました。平生、旅衣装とくればアロハシャツやワンピースを身にまとい、ボストンバッグあるいはスーツケースを提げて洒落男・洒落女の装いで出掛けるのが常でしょう。ただ、私の場合は金銭上の問題からそうするわけにはまいりませんので、足には脚絆を巻き、腕には手甲を装着、頭に三度笠、肩に頭陀袋、蓑をかぶって家を出ました。お世話になった村の方々にもすっかり挨拶を済ませ、ようやく出発かと思っていたところ村の長がお見えになり、餞別だと言って炭俵を一俵、私にくださいました。どうもありがとう存じます、本当に困ったときはこの炭俵を使わせていただきます、感謝の言葉を残して私は村を後にしました。
秋田を目指し歩き始めて一週間が経ちました。炭俵の炭はとうに食べ尽くしていました。今後の食料をどうするか、困り果てた私が道のわきに座って思案に暮れていると草むらの陰から物音がします。物音の正体はキツネでした。私は道中、孤独だったこともあり『キツネさんこっちへおいで』と声を掛けますと向こうも遊んでほしかったのかコンコンと鳴き、私の方へ駆け寄ってきました。かわいい奴だなとじゃれつくキツネの相手をしておりますと『お兄さん。そろそろ飽きてきたのでここでひとつ趣向を変えて "狐釣り" でもしませんか?』とキツネは提案しました。「狐釣り」とは、一方は『釣ろよ釣ろよ』とはやし立て、もう一方は扇子で目隠しされた状態で、はやし立てた一方を捕まえる、といったいわゆる「鬼ごっこ」の様な遊びのことです。私は京都の茶屋へ行った折にこのお座敷遊びを覚え、芸妓衆からもアンタは狐釣りの達人やなァ、と大変な評判でしたからこの遊びに非常に自信を持っていました。私はキツネの提案を快諾、目隠しをした私がキツネを捕まえることになりました。キツネは私をはやし立てます。
しかし何度やっても全くキツネを捕まえることができません。茶屋ではあんなにも褒められたこの私だというのに。私はキツネに最後にもう一番勝負を挑みました。キツネはすかさずはやし立てます。
私は無我夢中になってキツネを追いかけました。しかし、声のする方にむかって追いかけているはずなのにどうしてもキツネを捕まえることができません。心底腹が立ってきた私は一か八か、キツネの気配を感じたら飛びかかろうと考え、追いかけるのをやめて息をひそめました。数分が経過しました。瞬間、背後に野郎の気配を察知したので全身を翻してキツネに飛びかかったところ、何か足を踏み外したような妙な感覚を覚え、驚く間もなく私はそのまま崖下へと転落していきました。転落の最中、ヒヒヒと笑っているキツネの姿が目に映りました。
どれぐらいの時間が経過したのでしょう。意識を取り戻した私は身体を起こそうとしましたが言うことをききません。激痛の走る頭に触れると手にはべっとりと血が付いていました。足を見るとあらぬ方向に向いています。指の数も全然足りません。これには絶望しましたし、狐釣りをしたキツネに騙されて死んでいく身の上を呪いました。これが犬死というやつか、馬鹿々々しい、それは私自身が。よく考えてみろ。そもそも母を探しに秋田へ行ったところで見つかる保証なんてどこにもないではないか。秋田のどこぞにいるといって具体的な住所も知らぬというのに。ひょっとすると、今ごろ母はすでに秋田を出て青森、福島、大阪、九州、果ては外国に出帆している可能性だって十分あり得る。やはりこの旅は無謀であった。こんな愚かな私がこんな形で死ぬのも一興であろう。だが、最後にお母さんに会いたかった。そう嘆きながら、いつか叔母が私に歌ってくれた子守唄の詞をふるえる指で地面に書き写しました。
書き終えた私は子守唄の歌詞をじっと見つめていました。叔母が私のために自作で拵えたのだろう、どうという事はないフレーズの集まりだな、と思っていたところへさして私は驚愕の事実に気付いたのです。
では驚愕の事実をご説明しますが、まず、前述の子守唄の歌詞を左から右へ横から読むのではなく、上から下へ「縦にして」お読みください。縦読みすると「がちのままおがでやきもの」と読めるでしょう。ということは、「がちのままおがでやきもの」→「ガチのママ、オガでヤキモノ」→「本当の母、男鹿で焼き物」→「実の母親は、秋田県の男鹿半島で焼き物をして暮らしている」と容易に読み替えることができるではないですか。つまり、この子守唄は「母の居場所が示された亡き叔母のメッセージ」だったのです。どうして今までこれに気が付かなかったのでしょう。私は母の居場所をピンポイントで残してくれた叔母に感謝の気持ちを表しながら、すぐ立ち上がって全速力で山を駆け下り、大曲駅から秋田新幹線「こまち」に飛び乗り、秋田駅で下車、駅前でレンタカーを借り、母の暮らす男鹿半島へと急いだのです。
それから数日が経ちました。ニッポンレンタカーのスタッフは私にとても親切にしてくださいましたし、秋田を訪れる機会があればまた利用したいとも思いました。そして先日、私の元に届いた探偵からの調査報告書によりますと、どうやら母は「前田花子」という名で、男鹿半島の「ふるさと焼物館」に勤務していることが判明しました。艱難辛苦の道のりでしたがようやく母に会うことができます。
私の母、つまりあなたのことです。
近日中にお会いできることを心より楽しみにしております。
愚かなる息子、青木太郎より。
敬具
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手紙を読み終えてもやはりこの男性に心当たりは無い。青木とは誰だ。狐釣りとは何だ。タニシがどうした。そして男鹿半島のふるさと焼物館とは一体......
いずれにしても、山形に住む炭屋の息子と秋田市内に住む女子大生の私は何の関係も無い。たしかに宛名の「前田花子」は私の名前かもしれないが、どうやらこれは同姓同名の他人だろう。青木は実母と私を勘違いして手紙を寄こしたに違いない。もし万が一、青木が訪ねてきたらその辺りをよくよく説明して誤解を解いてやらなくては。それにしても青木、変なやつ。