【エッセイ】夜霧の飯談義 -対話篇-
先日、自宅で酒を飲んでいたところ、後輩のハム山が訪れて我々は次の様な話をした。
『玉井さん』
『何』
『それは一体、何を肴にお酒を飲まれているのですか』
『見ての通り「ごはんですよ」だろう。私はこれで焼酎を飲むのが好きなのだ』
『いえ、ツマミの嗜好に関する話ではなく、私が気になったのはこの「ごはんですよ」についてです』
『どういうことかね』
『通常「ごはんですよ」のフタを開けると海苔の佃煮が入っていますよね』
『当然だ』
『であれば、おかしくないですか』
『何が』
『考えてみて下さい。「ごはんですよ」という商品名であれば、フタを開けると米粒あるいは米の加工食品が入っていてしかるべきです。米的な何かが。だってそうでしょう、「ごはんですよ」は、その名の通り、自身がごはんだという事をアピールしているのですから。なのに開けたら海苔の佃煮しか入っていない。これでその商品名は変ですよ。だから今後は「ごはんですよ」ではなく「海苔の佃煮ですよ」もしくは「ごはんじゃないですよ」に名前を変えるべきだと思うのです』
『やはり貴様は馬鹿だな』
『何っ』
『よく考えてごらん。"ごはん"という語句の意義を』
『それはもうごはんといったらあの白い米粒の集合体のことでしょう』
『この青二才が』
『何っ』
『では教えてやろう。と、その前にこの卓袱台の上には何が並んでいるか答えてみろ』
『ええと、焼酎ボトル、グラス、ごはんですよ、箸、どん兵衛、リモコン、ごはん』
『貴様、今何と言った?』
『ええとだからその、どん兵衛、リモコン、ごはん、って』
『それだ。貴様は今、白米・ライスのことを指して "ごはん" と呼んだな。誤りはそこにある。なぜというに、"ごはん" といっても一概にそうとは限らないことの方が多いからだ。例えば、晩ごはんを友人に誘われてライスだけを食べて帰るはずないだろう。焼肉かもしれないし中華料理かもしれない。店で海苔の佃煮を注文する可能性だってあるし、我々は生活の中で食べ物全般を称して "ごはん" と呼んでいるではないか。したがって、「ごはんですよ」という、ごはん全般を示す商品名をわざわざ変更するに及ばないという訳だ』
『いや。それは違いますね。変更すべきです』
『何だと』
『根拠を説明する前にお尋ねしておきますが、私達は通常「ごはんですよ」をどのようにして食しますか?』
『そら先程も言っただろう。焼酎のアテにつまむのさ』
『そんな食べ方するのは貴方だけですよ。ごはんの上に乗せて食べるのが主流です』
『まあよい。で、主流の食べ方と商品名を変更することに何の関係があるというのかね』
『大いに関係があります。ごはんの立場になればすぐに分かります。で、いざ、ごはん目線になると、視界の先に「ごはんですよ」があるでしょう。そうすると次に、ごはんは「ごはんですよ」に覆われることになりますよね』
『覆われるとは』
『ごはんの上に「ごはんですよ」が乗っている状態です。この場合、ごはんからしてみれば、ごはん本人に対し「ごはんですよ」と執拗に自己主張してくるこのごはんもごはん同士で対峙すると互いにごはんの可能性があるためにどちらが真のごはんなのかそれぞれのごはん自身にしてみても不明確であるということになりごはんの存在意義が損なわれてしまうではないですか』
『なんだかよくわからなくなってきた。まあ詭弁だな』
『詭弁ではありません。つまり、ごはんに「ごはんですよ」を乗せて食べるという行為はごはんの根本に関わる問題だと言っているのです。しかし我々は「ごはんですよ」を乗せて食べるという行為を主流としている以上、商品名の変更、あるいは、どちらか一方がこの世から消えるしか解決策は無いのです。ごはんがごはんとして在り続けるためには』
『そうか。あまり要領は得ないが今回は君の意見に同意することにする。では聞くが「ごはんですよ」の正しい商品名はどうあるべきなのかね』
『そうですね。「ごはんに乗せない場合に限りかろうじてごはんですよ」というのはいかがでしょう?』
『もういいよそれで』
『ありがとうございます』
以上の会話を通じて私は何を学んだのか。
それは「磯じまん」という商品名が如何に優秀であるかということである。
<終>