『微笑がえし』に寄せた注解
十年間交際した彼と別れることになり、長い同棲生活も終わりを迎えようとしている。
それぞれの引越し当日となった今日、二人で暮らしていた部屋を彼と掃除することにした。
芸人・春一番に似た風貌の彼は、私がせっかく掃除したアルミサッシ目がけて、
床埃を大量にまき散らしている。馬鹿なのか。
机、本棚といった家具類だけは昨日の内に運び出しておいたため、
かつてそこにあった畳の色だけがまるで新居同様の面影を残している。
そんな畳の目を眺めていると、この部屋に住み始めた当時、友人達からもらった引越し祝いの
返礼をしていなかったことに気付き、またやってしまったと今更ながら反省した。
その件を彼に話すと『一度でいいから僕は、罠にかかったウサギを見てみたいなあ。』と訳の分からぬことを言って取り合ってくれない。
私は彼のこういう性格がイヤだった。それにしても、以前彼が部屋にピザ窯を持ち込んで壁中をススだらけにしたときの汚れが全く落ちない。このスス汚れ落ちないんだけどどうしようこれ、そう彼に尋ねたところ、
『このお菓子を食ったら涙が出そうなぐらい美味かった。』と言って一人で感動している。と思いきや、彼は何か閃いた様子でおもむろに携帯電話を取り出し、
『ワンツースリーのカウントの後の4拍目オモテから "あの三叉路で〜♪" という歌い出しはタイミングを取るのがどうも難しい。
君、悪いけど、カウントスリーになったら軽く手を振って合図してくれると僕も歌いやすいんだが......』とドラマーらしき友人と電話を始めた。
今どういう状況なのか分かっているのだろうか。私たちは今日でお別れだというのに。
▼微笑がえし/キャンディーズ:
春一番が掃除したてのサッシの窓に
ほこりの渦を踊らせてます
机 本箱 運び出された荷物のあとは
畳の色がそこだけ若いわ
お引っ越しのお祝い返しも
済まないうちに またですね
罠にかかったうさぎみたい
いやだわ あなた すすだらけ
おかしくって 涙が出そう
1 2 3(ワンツースリー) あの三叉路で
1 2 3(ワンツースリー) 軽く手を振り
私達 お別れなんですよ
しばらくすると引っ越し業者の方がやって来て、家具の中で一番大きいタンスの運び出しが始まった。
十数分が経ち、作業を終えた引っ越し業者の男に挨拶を済ますと、男は『タンスの陰で心細げに 迷子になった ハートのエースが出てきましたよ。』と言って、トランプを一枚差し出した。何なんだコイツは。気味悪がっていると、それに気づいた彼が来て、
『おかしなものね。忘れたころに見つかるなんて。まるで青春の想い出そのもの。』と業者の発言に便乗、互いに意気投合していた。
こんな奴らにかまけている暇はない。新居での引っ越し祝いの返礼品のことでも考えて気を紛らわせることにしよう。
明日から我々二人は別々に暮らすのだから。そう思うと急に実感が湧いてきた。
彼とは何年も共に暮らしたが年下とはいえ幼稚過ぎる男であった。
同棲生活はイヤだった。例えば、毎朝の洗顔後、タオルではなく私のTシャツで顔を拭いたりされるのが特にイヤだった。
そんな事を思い出し、ふと彼の方を見ると『このお菓子を食ったら涙が出そうなぐらい美味かった。』と、引越し業者の男に感動を伝えていた。と思いきや、またしても彼は携帯を取り出した。
『さっきのカウントスリーの件だが、ワンツースリーという掛け声ではなく、イチニーサンという言い方にしてくれないか。というより、カウント3のタイミングで軽く手を振って合図するんじゃなくて、お互いに目配せして、せーので歌い始める方が雰囲気があって良いと思うんだが.......』
今日で私たちはお別れだという事を、彼は本当に理解しているのだろうか。
タンスの陰で心細げに 迷子になった
ハートのエースが出てきましたよ
おかしなものね 忘れたころに見つかるなんて
まるで青春の想い出そのもの
お引っ越しのお祝い返しも
今度は二人 別々ね
何年たっても年下の人
いやだわ シャツで 顔拭いて
おかしくって 涙が出そう
1 2 3(イチニサン) 3ツ数えて
1 2 3(イチニサン) 見つめ合ったら
私達 お別れなんですね
部屋の掃除もすっかり行き届き、不動産屋による最終点検、諸々の手続きも無事に終えた。後は家を出てさよならするだけだな、そう考えていたところ、僕の引っ越し先についてだが.......と彼はやけに真剣な面持ちで語り始めた。
『僕への引っ越し祝いの返礼は、自作のギャグを披露してそれを返礼品に代えさせてもらおうと思っている。
その際、ショートコント「もしも優しい悪魔がいたら?」あるいは、吉幾三のモノマネ「住みなれた〜」を披露しようと思ってるんだけど、どうかな...?』
どうかな、と言われても、やめとけとしか言いようがないのでそう伝えておいた。まあ勝手にすればいい。さっさと玄関のカギを締めたら消え失せろと言いたい。それにしても遅い。なぜカギを締めるぐらいでそんなモタついているのか。そしてなぜお前はカギが上下逆さまになってることに気づかない。十年も住んでそのザマか。もういやだ。嗚呼、彼の口癖が蘇ってくる ――――
『このお菓子を食ったら涙が出そうなぐらい美味かった。』
『日本語のイチ・ニ・サンはフランス語だとアン・ドゥ・トロワというそうだ。だから、「三歩目」をフランス語に訳すと「トロワ歩目」ということになる。』
『橋本ひろしの名曲「それぞれの道」が123円で投げ売りされていたのが僕には解せないね。』
彼は今後、どういった人生を歩んで行くのだろう。とはいえこれは私にしても同様である。
彼は今後、どういった人生を歩んで行くのだろう。すげぇ気になる。
お引っ越しのお祝い返しは
微笑にして届けます
やさしい悪魔と住みなれた部屋
それでは 鍵が サカサマよ
おかしくって 涙が出そう
1 2 3(アンドゥトロワ) 三歩目からは
1 2 3(アンドゥトロワ) それぞれの道
私たち 歩いて行くんですね
歩いて行くんですね
以上