タイムトラベルが出来る店【「創作大賞2024」応募作品】
暁子はこのお店には時々足を運ぶ。
クラシック音楽が静かに流れている店内。誰もが知っているようなクラシック音楽は耳に心地よい。
夕暮れ時に外を見ると役所勤務の人たちが信号待ちをしている姿が見える。皆、喜びも悲しみも胸の奥底にしまい込みながら、何事もなかったかのように家路を急いでいく。
この店にいる誰もがそうだ。そして、この私も。
【旅立ちの春】
春の一日。
空が藍色に染まる夕暮れ。暁子はこの店の窓際に座っていた。
ふと隣から静かな泣き声が聞こえてきた。高校生ぐらいの女の子。
「大学へは行きたくない。やりたいことがあるんだから」
その声は小さいながら、隣にいる暁子には届いてきたのだった。
スピーカーからは『G線上のアリア』が流れていた。
導かれるかのように暁子は娘の葵と二人で旅したスペインのあの時に、ワープしていった。
高校卒業と同時にスペインへ向かった暁子と葵。暁子が習っていた影響を受けて葵は六歳の頃からフラメンコを習っていた。リズム感も悪く、熱心でもなく、やめたいとばかり言い続けていた葵。そんな葵であったのに、高校を卒業するまでフラメンコを続けていたのだった。
いつしか葵は高校卒業と同時にスペインへ行くと決意していた。それは日頃から暁子が知らず知らずに洗脳していたからかもしれない。
葵の宿泊先に着いたとき、暁子はこれからの葵のここでの生活に思いを馳せ、後悔の念に駆られていた。
スペインの地下鉄の駅での別れの時、泣きじゃくっていた葵。暁子は涙ぐみながら名前を呼ぶことしかできなかった。
高校を卒業したばかりの十八歳。スペイン語はほとんど聞き取れず、喋れず、英語だって似通ったものなのだ。
暁子が習っていたために出会ったフラメンコ。そして、事あるごとに「フラメンコで留学すれば」と言っていたのだ。知らず知らずの間に洗脳したのはこの私だ、という気持ちに暁子は駆られていた。
葵の涙を見たそのとき。
暁子はびっくりするほどたじろいだ。それよりも葵が発したその言葉に。
「お母さん、スペインまで送ってきてくれてありがとう」
その言葉は、葵をフラメンコの道へ誘導した暁子の傲慢さや、身勝手さ、そういったすべての負の感情が許されたと思った。葵は自分で選んだ道だと覚悟を決めてスペインへやってきたのだ。
スペインの生活も大変ながら、これから葵が歩もうとしているフラメンコの道はさらに厳しいだろう。スペイン人でもなければ、もちろんジプシーでもない。日本で生まれた娘が遠く離れた異国の文化を学ぼうとすることは容易いことではない。
けれど、どんな道を選んでも生きていくことは厳しいことなのだ。ならば、自分の選んだ道をしっかりと歩むがいい。
そう、心に刻んだあの日。
椅子から立ち上がる音で、現実に戻され、ふと隣を見ると娘さんは涙を拭き、立ち上がろうとしていた。
これから家族と話し合うのだろうか。
どんな道を選んでも、きっと家族は応援しているに違いない、そう暁子は思った。
『G線上のアリア』は静かにエンディングを迎えていた。
【愛のカタチを考えた夏】
暑い夏の太陽から逃げるようにやってきた。
ゆらゆらと陽炎が立ち上っているようなこの夏。窓の外を眺めながら、一週間前に会った美香のことを思い出していた。
BGMは『ラ・カンパネラ』。
暁子と美香はSNSを通じて知り合った。スペインに住んでいる美香はスペイン人の男性と結婚していた。
八年前。
美香がスペインへ向かったのは結婚のためだった。ネットで知り合った相手。三度ほどメールのやり取りをしただけの人。そんな結婚があるなんて、しかも自分がそんな結婚をするなんて、美香は一年前には考えられなかったと言った。
美香の父親は結婚をする半年前に亡くなっていた。
残されたのは美香と母親。
44歳。結婚の予定のない女。そんな娘と年老いた母親との二人の暮らし。うまくいくはずもなかった。
すべてに行き詰まっていた美香。仕事も、プライベートも。フリーのライターとして続けていた仕事は年々減っていっていた。ちょっと文章が書けるからといって得意分野のないライターが若い感性に勝てるはずもなかった。
父親の年金に頼っていた母親は、遺族年金となって年金が減らされると生活の不安ばかり訴えていた。
この家にはいられない。
そう思うようになった美香。
そして、9年前の夏。美香はスペインへ向かった。
スペインという国に知識もなければ、好きな国でもなかった。ただ、メールのやり取りで積極的に結婚しようとミゲルが書いてきたからに過ぎなかった。
誰でもよかったのだ。極端なことを言えば、結婚でなくても良かったのだ。美香を閉塞された場所から救い出してくれるものならなんでも。
それから9年の月日が流れ、何度も美香とミゲルはぶつかったそうだ。
けれど、帰る場所がない美香はスペインにとどまった。最初にミゲルと約束をしたのは、どんなに激しいケンカをしても翌日には持ち越さないこと。それだった。
暁子が美香と最初に会った時、美香は
「日本がいい。食べ物も美味しいし」
と言っていた。
しかし、スペインへ帰るという前の日にあった時には美香は
「スペインへ帰りたい」
と言っていたのだった。
愛し合って、お互いを必要として結婚をする。果たしてそれが結婚のあるべき姿なのかと暁子は美香の話を聞きながら思った。
確実に美香は幸せそうだった。たとえ、それが現実逃避の世捨て人としての終着点だとしても。
少なくとも恋愛結婚の末、今独り身となった暁子より幸せな結婚であることは確かだった。
【別れの秋】
秋の長雨。
この店はいつも通りだ。年齢層が高いこの店はハロウィンが近いからといって大げさに飾り立てることはしない。
こんな暗い日は、暁子はあの頃、あの場所に飛んでいく。
BGMはヴァイオリンの音色が美しい『canon』が流れていた。
娘の葵が電話した先は別れた夫、徹の母親宅。
葵にとって、祖母の家だ。祖母は去年あたりから体調を崩していたので、心配になり電話をしたのだ。
電話口に出てきたのは徹だった。葵にとっての父親だ。葵が中1の時に突然失踪した父親だった。失踪している間に借金の催促の電話がかかり、ネットで調べていくうちにギャンブル依存症であることに気がついた暁子だった。
徹はいきなり
「自分はある病気で余命幾ばくもないんだ」
と言ったそうだ。
ひとしきり会話をして、電話を切った葵が放った言葉。
「余命幾ばくもないなんて。あれは嘘だね」
14年前。
中1の娘と小5の息子を置いて、ギャンブルに走った徹。今と同じような肌寒い秋の日だった。
家のローンに支払うための10数万のお金を手にし、徹はいなくなったのだ。
徹が亡くなったと聞かされたのはその電話から半年ほど経ってからだ。ギャンブル依存性、アルコール依存性となり、肝硬変によるその死だった。
その死を知っても暁子は一滴の涙も流さなかった。暁子には生きていかなければならない明白な理由があった。残された子どもと一緒に生き抜く事、それが暁子に課せられた宿命だった。
生きていくということは、辛いこと、悲しいこともあるけれど、それでも時々ご褒美のように幸せな気持ちにしてくれる出来事がある。刹那的な幸せを求めたらそれは得られない。それに気づくこともなく、短すぎる生涯を閉じた徹。
「そんなに焦ることはない。人生長いんだから」
徹の口癖がそれだった。しかし、徹は57歳でその人生を閉じた。
今も暁子は徹のために一滴の涙もこぼしていない。
【父を見送った冬】
冬枯れの日。
暁子はまたこの店に来た。窓からコートを着た人たちが寒そうに信号待ちをしている姿を見ていた。
若いサラリーマンに混じって年配の老人がいた。二十年前に亡くなった父の道夫に面差しに似ていたことに驚き、また思い出の中に暁子は飛んでいった。
お店のBGMはビバルディの『四季』の中の『冬』が流れていた。
道夫が晩年宣告された病気が「動脈瘤」。
手術をし、上手くいっても透析はまぬがれないとも言われていた。
「煙草が吸いたい」
とばかり言っていた道夫。
もちろん、病室で煙草など吸えるはずもなく、もう先が長くないと思われた道夫だったので、暁子はあることを企てた。
「煙草を吸わせて、もしそれで亡くなったとしても本望だろう。最期に大好きな煙草を吸わせてあげよう」
点滴でさえ外してしまう道夫をどうやって透析をさせるのか、そんな状況になっても生きていることは道夫にとっても地獄であろうことは容易に想像が付いた。
好きな煙草を最期に吸ってもらってこの世とおさらばする。それでいいじゃないか、少なくとも暁子自身はそんな最後を望みたいから。
そして、暁子はその計画を実行した。車椅子に乗せて喫煙所に向かったのだ。
今となっては煙草を燻らせていた記憶はなく、ぼんやりとした道夫の後ろ姿だけが記憶に残っている。
そしてまた暁子は家に帰りたいと道夫が言い続けていたこともあり、退院させようと考えるようになった。
医者と話し合い、無理やり退院させたが、それから2日後、道夫は亡くなった。
もしかしたら、退院させずに、タバコを吸わせることもさせなかったら父はそれよりは長く生きたのかもしれない。
亡くなって二年くらいは暁子はその決断は正しかったのか自問する日々だった。思い出す度に涙することも。
しかし、今ではこう思っている。
生きるということは日々の小さな楽しみと、わずかな希望があればこそなのだ。それらをすべて失って、それでも生きながらえる意味はないのだ。
窓の外を見ると、チラチラと雪が降り始めていた。BGMの『冬』はクライマックスを迎えていた。
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