美術館に飾られているのは人の想いだと気づいた
おはようございます。先日久しぶりに美術館に行って参りました。
行ってきたのはここです。
美術館に行く楽しみって、自分がどんなモノに興味があるのかを理解できるってことかな、って感じました。
僕の大好物は、意図が汲み取りにくい作品です。
美術館行くと何枚かは、何故これを書いたんだ、って疑問に思う作品ありますよね。
僕はそういう作品を前にすると、なんだか興奮します。
この人は何を伝えたいのか、なぜこの色を選んだのか、なぜこのデザインにしたのか。
そんな疑問に対して、こう思ってたんじゃないかなって妄想するのが好きなのです。
この妄想している時間が、とってもワクワクするんですよね。
大原美術館だと、この作品の前でワクワクしました。
そこにあるのは赤すぎる程の赤色。
その赤色を切り裂く三本の傷痕。
僕はこれを見た時、この人は凄く現状に葛藤してたのかなって思いました。小手先の技術ばかりで、想いを伝える作品ってどこにいったんだ、技術よりもっと大切なものはあるだろ、常識なんて切り裂いてしまえ!
そんな想いで傷痕をつけたのかな、って感じました。
後で調べると、この作品はイタリアのルチオさんが作ったもので、僕が感じたものと近い想いで作られた作品だという事がわかりました。
ただ僕が感じたネガティブな感情ではなかった。
一つの傷をつけることは、芸術という枠を超えていってほしいという「期待」が込められていたのです。だから作品名も、「空間概念 期待」なのです。
今回はたまたま作者の想いに近いものを感じられたが、別に的外れなことを感じても良いと思う。
例えば先程の作品を見て、カーテンが風に吹かれて揺れている様か、と感じても良いと思う。
正解はあるんだけど、正解じゃなくても許されるから楽しいのだ。
現代社会はどうだろう。正解ばかり求めてないだろうか。白黒はっきりつけることが正義になっていないだろうか。
そうではなく、正解じゃ無いことに対しても、許し合える世界が僕は好きだ。
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そして僕にはもう一つ大好物がある。
それは圧倒的に美しい作品だ。
圧倒的に美しい作品を目の前にすると、能ミソが喜んでいるのがわかる。
圧倒的な美しさの前では言葉は必要ない。
ただその美しさに酔いしれる。
その時間こそが最高なのだ。
今回僕が圧倒的に美しいと感じた作品は2つ。
大原美術館設立の礎ともなった児島虎次郎さんの作品全て。
そして大原美術館を代表する、モネの睡蓮だ。
その作品がこれらだ。
両者に共通して感じたのは、圧倒される程の色使いの上手さだ。
虎次郎さんの作品は色合いを見ているだけで、なんだか前向きになれる程カラフルだ。
そんなカラフルな世界に居てもなお、注目せざるを得ない程の美女。周りが美しいから美女なのか、美女が周りを美しく魅せているのかはわからない。ただ全体を見た時に、ああなんて美しいんだと、ただただ感動するのだ。
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モネさんの睡蓮からはまたちょっと違う感動を得た。
淡いのに強い。のだ。
淡い色合いなのに、その色合いが美しすぎて、その美しさが目を介して能までダイレクトに流れてくるのだ。
この睡蓮という作品、パンフレットの表紙になる程有名なものだ。
だけど実際に美術館に足を運んで、あの画角の睡蓮を見たからこそ、その真骨頂を感じたのだ。
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そして今回初めての感情も芽生えた。それはnoteを書いているから芽生えたものだ。
美術館に飾られているもの。
それは作品を通して何かを伝えたいという
『想い』
なのだ。
僕は一丁前にも彼らに共感した。
彼らは絵を通して想いを全力で伝えようとしたのだ。
全力だからこそ、人々の心震わせ、こうやって後世にまで継がれている。
僕もそうでありたい。僕は文字を使って『想い』を伝えていきたい。
このnoteという場所で。
そう強く思えたのだ。
そう思わせてくれる美術館ってやっぱりすげぇや。
終わり
こちらのコンテストに応募させていただきました。