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蛍光に何感じたか
暑くもなく、寒くもない快適な温度の日が続いていて、エアコンも短い休暇を満喫しています。そんな時節に蛍を観に行きました。
平時であれば蛍祭りを開催しているような地域ですが、本年も新型コロナウイルスの影響を受けて、お祭りは早々に中止となってしまいました。
ですので、私どもが到着した際も、駐車場に停まっている自家用車は二割程度でありました。ほとんどの駐車場が、今か今かと自家用車の到来を切望していました。半ば諦めムードが漂っておりまして、そのせいか駐車場一体が侘しさに覆われていました。
その侘しさに影響を受けてしまったのか、日暮れ前の十九時頃になっても、一匹の蛍の気配さえ感じませんでした。聖なる夜のイルミネーションの如く無数の蛍が光っているものだと信じてやって参りましたので、期待を裏切られて落胆してしまいました。
しかし事前に幾度も調べた情報によると、この日は蛍が発生するのに申し分のない気候条件であったので、もう一時間だけ辛抱してみることにしました。一度、車内に戻り、スマートフォンの世界に映し出される動画を観ながら時間を潰しました。
いつもなら動画の面白さに夢中になり、気づけば三時間も四時間も経過しているのですが、今は蛍が現れてくれるのが気になって仕様がなく、時間の経過がとてもゆっくりとしていました。
ようやく時計の針が二十時を指した頃には、外は先ほどよりも黒い暗闇に包まれておりました。駐車場も気付けば五割程は埋まっていまして、騒めきが増していました。
これは期待が持てるのではないでしょうか。いやはや、一粒の光すら見られなかった時の失望には嫌気がさしますので、過度に期待ばかりもしていられません。
そんな期待と不安を交錯させながら、蛍がおりそうか場所まで歩いて移動しました。
ゆるり、ゆるりと穏やかに流れる小川の上空、そこに、ゆらり、ゆらりと一つの光が揺れていました。
あっ、蛍だ。
私どもの側で、血眼になって蛍を探していた四歳程の少年が嬉々として、そう叫びました。
その声が呼び水となり、周囲の大衆も、その一つの揺らめきを眺め始めました。
私はこの時、不思議な感覚に囚われていました。というのも、光、など、超技術進歩した現代において特に珍しいものではないからです。親指一つで、懐中電灯の電源を入れさえすれば蛍の光の何万倍もの光を解き放つことが簡単にできます。
それなのに、その時の私は間違いなく蛍が放つその光に釘付けだったのです。
蛍の光に何を感じた為に、そうなったのでしょうか。希望でしょうか。愛でしょうか。いいえ、私はそういったメッセージを受け取ったわけではございません。
私がその時感じたのは、単純なる「美しさ」でした。
一寸先も見えない程の暗闇の中で、あの独特の揺れを伴いながら小さく煌めく蛍の光。
その単純なる「美しさ」に釘付けになったのです。
私どもは何かを見たり、体験したときに、そこに無意識に意味を探しています。この芸術作品には父親への愛情が込められているんだ。あのスポーツ選手の一挙手一投足には希望が感じられるんだ。と。
しかしながら、そのようなメッセージを探し求めなくとも既に得ているのです。
それは理屈ではなく、生物としての根源に訴えかけてくるものです。美しいものを美しいと捉えて魅了されてしまう本能です。
蛍が放つ小さな極小の光は、玲瓏たる真珠のように煌々と輝いて、私を感動させたのです。
そしてその光が私にこのような、普段とは違う、キザな文章を描かせたのです。
季節の風物詩に身を委ねる心地良さを全身で感じた一日でございました。
終
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